ピーター・パンという少年(2)
「やあ、フック。そっちは新しい仲間かい?」
それは先ほど見かけたような苛立った表情ではなく、わたしたちがよく知る悪戯っぽく、でも勇敢な笑みのピーター・パンそのものの顔だ。
「どっちかってぇと客人だな。今度はなんだ、ピーター」
ぞっとするほど低い声で、フックが答える。
強く吹いていた風は、静かに端切れのような黒雲を運んできている。鮮やかに降り注いでいた太陽が隠れ、フックの顔に影が落ちた。
「なんだ、じゃないさ。タイガー・リリーから盗んだものがあるだろう。返してもらいに来た」
「はっ。あの一族には価値が分からん代物だろう。返すだけ無駄だな」
フックの嘲笑に、ピーター・パンはあからさまにムッとした表情をする。
「あれは、大事なものだっていっていたぞ!」
「後生大事にあっためておしまい、じゃ意味がないっていってんだ。お前らには分からんだろうがな」
そのやり取りを聞きながら、いつの間にか側にいたスミーに、マキちゃんがささやく。
「何盗ったの?」
「アッシにはよっく分からない、キッラキラした石でさァ」
宝石か。ベ、ベタだなぁ。
「アッシらには教えてくんねェんですが、おやびんは時々そういうのを持って、どっかに消えるんでさァ」
「消える?」
わたしの声に、スミーはこっくりと頷く。
「そんでもって、帰って来た時には沢っ山の食べ物を持って帰ってくるんでさァ」
おい。
「それって完全に商い……」
「あきな?」
「あきない。どっかと裏かなんかで商売してるってこと、だよね?」
ところがスミーはきょとん、と首を傾げた。
「しょうばい、って?」
ちょっと待て。
「え、待って。みんなどうやって生活してるの。お金だして食材買ったりしないの?」
「おかね?」
さらに待て。
「……通貨概念がないのかしらねぇ」
マキちゃんが驚いたように呟いている。
「えええ……じゃあ食材とか生活必需品とか……」
「おいヒラサー、マキノ」
うろたえるわたしたちに、フックが背中を向けたまま声を上げる。
「スミーをあまり問い詰めてやんな。知らねえよ、なんも」
「いや、だって」
「簡単な話だ。こいつの望みが基盤の『ここ』は、宝石の価値なんざ分かるやつがいねぇ。そういうシステムをこいつは想像すらしてないってことだ」
ネバー・ランド――永遠の子どもの国。
そうか。そういう場所があると表現したのは大本の『彼』でも、その正体はピーター・パンの夢の世界だ。そしてピーター・パンはきっと、通貨概念を想像していない。分からないでもない。お金は、大人の生活の術だ。子どもはなにもしらず、養われていたりするんだから。
ああでも、なんだろう。無責任だな、とか、思ってしまうけれど。
「何をごちゃごちゃと! あれは、タイガー・リリーの大事なやつだったんだ!」
「ほう。じゃ、何のために集めてたんだ?」
「キラキラしていて綺麗だからだろう!」
カラスかよ。
うっかり口からこんにちはしそうになった言葉をなんとか飲み込む。一瞬、フックが振り返った。ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべている。
「俺は『外』にツテがあるんでな。ま、おこぼれとして時々持ってきたものをその辺にばらまいたりもしているが」
つまり、宝石を盗んでどこかとやり取りをし、食材――あるいはその他のものも――をこの世界に持ち込んでいる、ということだ。
フックはあの手紙で『彼』とやりとりをしているようだし、外部の――それこそ魔法の鏡やフェアリー・ゴッドマザーともやりとり出来ていそうだ。何らかの方法で『外』と宝石を通じた商売を行っているんだろう。
でもそれって。
「……かいぞく、とは……」
言い切れない。宝石を盗むのは良くないだろう。でも、フックがそうしてこっそりやりとりしていなければ、この世界はきっとそもそも成り立っていない。スミーやほかの海賊たちも、養えないだろう。
ピーターが、また吠えた。苛立っている。カシャンッと甲高い音が背後で聞こえた。振り返りたくなかったけど、なんとなく、またどこかで穴が開いたんだろうということは分かる。
「大人はそうやってまたごちゃごちゃと。綺麗なものを分かっていないんだ」
「そ、それは違う!」
大人だから出来ることだってある。すくなくともこの世界におけるフックはそれをこなしている。だから。
「おい、ヒラサー」
わたしの叫びをフックが遮った。
「ちょっと黙ってろ。あと、下がってろよ、巻き込まれんな。ガキは手加減ってものをしらねぇからな。おい、マキノ」
「分かってるわよ」
マキちゃんが不機嫌そうに言いながら、わたしの肩を抱いて後ずさる。フックはまた軽く振り返ってきて確認すると、すぐに正面を向いた。
ゆっくりと、腰につけていた剣を引き抜く。
いいんだろうか。止めないで。止めてどうにか出来るとも思わないけれど、だって本当に殺し合ってしまって、ピーター・パンが負けたら? この世界は滅びる。妖精を――ティンカー・ベルを殺して、でも、ピーター・パンが妖精は生きると信じ切れなかったら、それもまた世界は滅ぶ。
だからって、フックが殺されてもいいものではない。
めちゃくちゃ、危うい戦いにしか思えなかった。
「スミー、どうすれば」
「任せてるんでさァ」
スミーは、また無邪気に笑う。
「アッシはおやびんを信じてまさァ」
スミーの声が聞こえたのか、フックは一度大きく笑った。
笑って、声を轟かせてから、ゆっくりと息を吐いた。
「――さあ、はじめようか。ピーター」
吹き付けた風にフックの外套が巻き上がる。
ぽつり、と一滴、雨粒が甲板を濡らした。
◆
最初に動いたのはピーター・パンだった。跳ねるような軽い動きで船の縁から甲板へと降り立つ。同時に、そばにいた海賊たちがざっと距離をとった。フックが腕を振って下がらせたのだ。
「俺の獲物だ」
言うと同時に、フックが飛び出した。カキィンッと高い音がした。
それから、キン、カン、キンキンキン……
……。
えっと。
ごめん全然分かんない。
ピーターがぴょんぴょん跳ねているのと、フックが何やらサクサク動いているのは分かるけど何がどうしてどうなっているのか、見ているこっちには分からない。
の、に!
「ちょっとっ、あんまり寄ってこないでちょうだいっ!」
「くっ……るせえ、お前らが避けろ!」
押されてなのか何なのか、フックとピーターは二人して移動し始めるからたまったもんじゃない!
マキちゃんに引っ張られながらなんとか後ろへ後ろへと下がっていくのだけれど、海賊たちもいるもんだから何が何だか。っていうか怖い怖い、そんな物騒なもの近くで振り回さないでいただきたい!
ピーターが傍にあった大きな樽を蹴っ飛ばす。フックが横っ飛びでそれをかわした。って。あれ?
ちょちょちょちょっとまったこっちくるっ!
慌てて左に逃げようとして、ぐんっと腕が右に引っ張られた。ぬぁ。マキちゃんと逆方向に逃げようとしてしまったらしい。そのまますっ転ぶ。
「平澤っ」
マキちゃんの声。それをかき消すようにゴロンゴロンッと大きな音を立てて樽が転がってきて、そのままわたしのすぐ横を過ぎて、背後の――船室の壁にぶち当たった。
お、お、お……? 生きてる。オーケイ、大丈夫。
いつの間にか本降りになり始めた雨に濡れながら、バクバクする心臓をぎゅうっと抑える。
「だいじょうぶ?」
不意に可愛らしい声が耳元でささやいた。顔を向ける。
「あ……」
「けがは、してない?」
そこにいたのは、小さな小さな女の子だった。金色のポニー・テイルに、ヒラリとした服。そして背中の翅。
妖精――ティンカー・ベル。
「あ……だい、じょうぶ」
「よかった」
ティンクはにこっと笑うと、そのまま光の粉を巻きながらわたしの周りを跳んだ。
「ごめんね、ピーターが」
「あ。ううん、大丈夫」
「平澤!」
マキちゃんが走り寄ってくる。すぐに、わたしの側を跳ぶ存在に気が付いたらしい。
「ティンカー・ベル」
「はい」
ティンクが小さく頷く。と、今度は海賊たちの悲鳴が聞こえてきた。見ると、先ほどまで雨雲で覆われていた空を白い光が――違う、これ、帆布だ!
「うわっ」
船のマストが切られたのか落ちたのか。大きな大きな白い布が視界いっぱいにかぶさってくる。なんとかそこから出ようとあがいていると、ピーターの声がした。
「いいぞ、みんな、出てこい!」
みんな……とは。
嫌な予感は、次から次へと上がった子供の声で現実になった。まてまてまて、どうなってる!
なんとか絡んだマストを引っぺがしたわたしの目に飛び込んできたのは、船の縁あちこちからひょっこりと顔を出す子どもたちの姿。
うわああ、なんかいっぱいいるー!
どの子も動物の着ぐるみみたいなのを身に着けていて、小さい。男の子ばかりだろうか、みんな四、五歳前後に見える。なにこれ皆ピーターの子分とかそういうの!?
「ロストボーイズね」
マキちゃんが呟く。
「何でしたっけそれ!?」
「あの、迷子なの」
答えてくれたのはティンカー・ベルだった。どうやら彼女、この状況でもピーター・パンにべったり、というわけではないらしい。
ふわふわとわたしたちの周りを跳びながら、ピーター・パンを悲しげな眼で見つめている。
「迷子になって、帰れなくて、ピーターについてるの」
「ああ……うん」
思い出した。ピーター・パンの子分たち。ロストボーイズ。迷子になって、ネバーランドにやってきた子どもたちだ。
そのロストボーイズは、次から次へと甲板に降り立つと、おもちゃのような武器を手に海賊たちに突っかかっていく!
海賊たちは海賊たちで、さすがに子どもに本気にはなれないらしく、いなしながらも右往左往し始めて、甲板の騒動は一層ごちゃつき感を増していく。
一層強くなる雨脚と、子ども達と海賊の喧騒と、フックとピーターの戦いの音と。
すべての音が混ざり合って、耳に痛い。
「あの、ティンカー・ベル」
なんとかかんとか逃げながら、隣を跳ぶティンカー・ベルに声をかける。
「なあに?」
「どうして、こっちについてきてるの? ピーターのほうじゃなくていいの?」
わたしたちは別にフックの味方ではないけれど、向こうからすればそう見える状況のはずだ。不思議に思って聞いてみたが、ティンクは少し目を伏せて、うん、と言った。
「ワタシ、邪魔になっちゃうから」
……あ、あのガキ。こんな可愛い子になんて顔させてやがる。
わたしの中にピーター・パンへの苛立ちが沸き上がった時、ティンクはひゅいっとわたしの前に跳んできて、止まった。
「あのっ!」
「わ、何」
「あの、あのね。ピーターを、助けてあげて!」
可愛い妖精は悲しい声で、そんな悲痛な叫びをあげた。
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