第7話

 


 昔はアオイの傍にいれば安心できた。一緒に笑い合って、とりとめのない話をして、ともに在るのが当たり前のように寄り添っていた。だが今のヒミにとっては、傍に居れば心細くなり、うまく笑うこともできず、何を話せば良いかもわからず、早くその場を離れたい一心だった。その結果、失敗したような笑顔になってしまう。

「お前、そうやって笑うのやめろよ。」

 アオイの放った言葉は予想していたどんな言葉よりもヒミの心を凍えさせた。喜怒哀楽のどの感情も当てはまらないような重く冷たい感情が心を基点に全身を冷やしていく。

 表情が固まってしまったヒミを見て、アオイは続けた。

「なんていうか…痛々しいんだよ。俺に無理して笑わなくてもいい。」

「ごめん…。」

 アオイにしてみれば、無理して笑わなくてもいいのだ、もっと素直になっていいという意味で発した言葉だったが、卑屈に支配されていたヒミには伝わらない。

「わかった。」と返してヒミは早足でアオイの横を通り過ぎ、ただその場を離れるために歩き続けた。行く先は考えずにただ闇雲に足を進めていると、いつの間にかトキワがいた。 

「ヒミ?どうした?何かあったのか?」

「別に…。」

「そうか?それなら良いんだが…微妙な顔してるぞ。」

「もし…、もしもの話だけど…」

「うん?」

「トキワが『笑顔を見たくない』って言われたら…どうする?」

「は?なんだそれ?…そんなこと言われたのか?」

「ううん、もしもの話だってば。」

「そうだな…。しばらく顔を合わせないようにする…かな。」

「そう…。」

 今まで読めなかったヒミの感情が、突然トキワの中に流れ込んできた。それも気を抜いたらトキワの感情すらも覆い尽くしてしまいそうな勢いで。胸を掻き毟りたくなるような孤独・絶望・虚無…それらが優しい感情を飲み込もうとしてくる。

 固まってしまったトキワに、ヒミは「ごめん。」と言うと、もう何も話す気はないと俯いて、踵を返した。その背からはまた、なにも読み取れなくなっていた。

 


 会わないようにしようとすると、会ってしまうものだった。

「…ヒミ。」

 昔ならば、アオイが呼べば綻ぶように笑んで駆け寄ってきたものだが、今のヒミは表情ひとつ変えずにただ振り向くだけだ。

「何?」

「いや…、特に用はないけど…。」

 こんなに痩せていただろうか?こんなに深い瞳をしていただろうか?気づけば記憶の中のヒミよりも髪が長いような気がする。それほどに自分は彼女を見ていなかったのだろうか。そんなことを考えながらアオイは思ったままを口にした。

「髪、伸びたな?」

「え…?髪…、ああ、うん。」

「今日はどこか行くのか?」

「予定は無いけど…。」

「そうか、だったら…」

 予定が無いのなら、少し話をしないかと言おうとしたアオイだったが、言葉を発するより先にハナの呼ぶ声が響いた。

「アオイ!ヒミちゃん!」

「…ハナ…。」

 二人の方へ駆け寄ってくるハナの姿を認めたヒミは、やはり変わらない表情のまま、出かける用事があることを告げた。その場にこれ以上留まりたくなかったのだ。

「ヒミちゃん、出かけるの?」

「うん、ちょっとね。」

「いってらっしゃい!気を付けてね?」

「…ありがとう。」




「また巴草を摘んできたのか?」

「うん。」

「なあ、前はそれと一緒に花も摘んできて飾ってただろ?もう飾らないのか?」

「…うん。余分な花は採らない。」

「そうか。その花だけは特別か?他の花は…いらないか?」

「…そんなことはないけど、どれを見ても…同じに見えるから…。」

 そう言って、ヒミはトキワの緑色の瞳を見つめた。

「知ってるんでしょ?私の目のこと。」

「ああ。宮司に聞いた。なんで黙ってたんだ?」

「そんなに困らないし、迷惑もかけないと思って…」

「俺の目は灰色か?」

「うん。」

「そうか…。せっかく綺麗だって言ってくれたのにな。」


 



ヒミに色は見えなくなったが、祓いに出た下町の公園で桜がざわついているのを見て、今は桜の季節だと気づいた。ふと思い立って人里の桜を見に行くことにして、川沿いをただひたすらに歩いていた。たしかこっちに大きな桜の木が生えていたはずだと幼い頃の記憶を頼りに歩いていると、白い入道雲が現れた。

「…白い。」

 そこにあったのは満開の桜であったが、ヒミの目には、白い入道雲から雪が降っているように見えるのだ。その白い塊をぼんやりと眺めていた、ただ「白い」と思いながら。


「美しいですね。」


 自分の周りには誰もいないとすっかり気を抜いていたヒミは、突然背後から聞こえた声に驚いて振り返った。相手を見ると、全体的に黒い人物がいた。ヒミには黒く見えていたが、実際には黒髪にダークブラウンの服を纏っている。その黒い人物が、見惚れてしまいそうなほど美しい微笑をたたえて立っている。その手に抱えているのは白い花束だった。

「お一人ですか?お嬢さん。」

「はい。」

「私は待ち合わせの予定だったんですが急に中止になってしまいました。ご一緒してもいいですか?」

「…どうぞ。」

その男はヒミの目を見て、三日月に細めていた目を見開いた。

「おや、驚いた。真っ赤だ。綺麗ですね。」

「…ありがとうございます…。」

 それから二人は草むらに腰を下ろし、天気がどうだとか、何の花が好きだとか、桜を見ながら他愛もない話をした。互いに名前も名乗らないままではあったが、何故だかヒミは懐かしい旧友に再会したような感覚に包まれていた。


「これは…行き場を無くしてしまったのですが…、もし迷惑でなければ受け取っていただけませんか?失礼かとは思うのですが。」

 そう言って白い花束をヒミに差し出した。

「いえ、ありがとうございます。」

「良かった。では、これで。」

 ヒミは受け取った花束を見つめた。白か黒しか見えない目で見たところで何色なのかははっきりとわからないが、百合の花であろうことはわかる。姿形と香りが、己は百合であると鮮烈に主張しているのだ。花束から目を離し、前に向き直り再度礼を言おうとしたが、男は音も無く姿を消していた。不思議に思いながらも、予期せず自分の手に渡った花束をどこに飾ろうかと考えながらゆっくりとした足取りで帰ることにした。

 里に入ってすぐに、険しい顔をしたトキワに迎えられた。

「ヒミ、どこ行ってたんだ?」

「花見。」

「花見ってお前…」

「白くて綺麗だったよ、多分。」

「…それなら、いいんだが。その花はどうしたんだ?」

「ちょっとね。これ…何色かな?」

「白いな、真っ白だ。百合か?」

「白…。」

「どうした?」

「なんでもない。」

 言葉少なではあったが、どことなく機嫌が良さそうなヒミにトキワは安堵した。もしかすると、ヒミが黙ってこの里を出て行ってしまったのではないかと心配していたのだ。だが無事に戻ってきたことと、花束を抱え機嫌が良さそうな顔を見て、深く事情を聞くことをやめた。

 トキワと別れヒミは家へ戻り、しばらくの間巴草だけが飾られていた花瓶に水を満たし、丁寧に百合の花を入れた。

「花束なんて、もらったの初めてだ…」行先の無くなってしまった可哀想な花をひきとっただけなのだが。そうだとしても、だ。

 しばらく灰色の世界だった中に一点生まれた白い美しさに見惚れていたが、誰かが訪ねてきた音に、ふと現実へ引き戻された。

 来訪者は、アオイだった。

「ヒミ?帰ってるのか?」

「何。」

「いや、どこに行ってたんだ?」

「ちょっと桜見に行ってたの。」

「そうか…、これは、百合…か?」

「うん。」

「誰かにもらったのか?なんていうか…お前らしくないな。」

 突然のアオイの指摘に、それまで浮かれていた自分が恥ずかしくなった。体中を巡っていた血が全て心臓へ集まったように、手や足は冷たくなり反対に心臓の鼓動がやけに響く。

「私のためじゃなくて、誰か違う人のためのものだったから、私には似合わなくて当然のことだし…花には可哀想だけど、飾ってあげようと思って…」

「いや、似合わないとかじゃなくて…」

「ごめん、慣れないことされると気になっちゃうよね。これは…キナリにあげてくる。あの子のほうがきっと綺麗に生けてくれるよね。」

「ヒミ…っ!」

 どうしてこんなにも、アオイは自分を傷つけるのだろう。

 乱暴に百合の茎を掴み、花瓶から引き抜くと、ヒミは早足で出て行った。

 凛とした白は、希望のように見えた。だがそれも「らしくない」の一言でただの冷たい花となってしまった。走りながら何度も涙が零れそうになった。我慢をするたび頭や目頭、鼻の奥や顎、顔のあらゆる部位に痛みを感じたが、泣いてしまえば気づかれてしまう。それは避けなければならないと、堪えながらキナリのいるであろう家の前にたどり着いた。こうなれば一刻も早く手放したい。扉の向こうに人の気配を感じて、ヒミはキナリであろうと確信しながら扉を開けた。 

「キナリ、この百合…」

「ヒミ?どうした?」

 そこに居たのはキナリではなく、先ほど会ったばかりのトキワであった。

「…キナリは?」

「すぐ戻るが…何かあったのか?」

「これ…キナリにあげて。」

「お前がさっき持って帰ったやつだろ?自分で生けないのか?」

「…うん。」

「ただいま!あれ?ヒミちゃんどうしたの?」

「これ、引き取ってくれないかな。」

「え?うん、いいけど…。綺麗ね、ヒミちゃんの部屋に飾らないの?」

「百合は、嫌い。」

「…そうなの?」

 トキワはその様子をただ黙って見つめていた。さっきまで嬉しそうに抱えていたものがなぜ急に嫌いになるのか、ヒミの心は相変わらず読めないままだ。だが今のヒミの表情は本当に百合を手放したがっているように見えた。



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