第6話

 翌日、しとしとと降る雨の中、ヒミは1人、神の社に立ち尽くしていた。

「どうしたヒミ。」

「色がわからないのですが。」

「なに?」

「ですから、色が、見えない、と。」

「目は見えているのだろう?」

「はい…白黒ですが。」

 それを聞いて宮司はヒミの顔をじっと見据えた。

「…見たところ目や脳に損傷は無さそうだが…、いつからだ?」

「今朝目が覚めたら白黒でした。」

「そうか…。少しの間、様子をみよう。身体には異常は無いのだ、すぐに戻るかもしれぬ。不便だろうが…」

「いえ、特に不自由ありませんので、大丈夫です。ただ、皆には知られたくありません。」

「わかった。他言はせぬ。だが、どこか痛むようならすぐに言うのだぞ。」

「はい。」

宮司は「無いとは思うが、」と前置きしてから感情のない声で言った。

「…出て行くことは許さぬぞ。」

「え…」

「黙って消えることは許さぬ。良いな?」

「…はい。」

 ヒミは、消えることを考えていたわけではなかったが、宮司の言葉は固い塊となって重く沈んだ。



「なあ、お前はアオイの事が嫌いなのか?」

トキワから唐突に問われ、思わずヒミの眉間に力が入る。

「嫌いじゃないよ。」

「…ハナにヤキモチやいてんのか?」

「…違う。」

「じゃあなんでアオイを避ける。」

「トキワは人の心が読めるのに、わからないの?」

 ヒミの言葉を聞いて、トキワは目を閉じた。しばらく黙ったままそうしていたが、ひとつ息をついて目を開けた。

「お前の心は、よくわからない。ヒミの心は、はっきりとした言葉じゃないから、俺にはわからないんだよ。」

  トキワが先代から口伝されたのは、 人の心を読むことだった。しかし、ヒミの心は読めない。読めそうになっても、掴む前に霧散していくのだ。

「…どうしたってハナには敵わないよ。」

 ヒミの口からハナの名が出たことで、ようやく本心を言うのだろうと感じたトキワは黙って聞いていた。

「明るくて前向きで、頑張り屋で可愛らしくて、皆に愛されて、人を癒す力があって…いつも何かに守られてて。私とは正反対…。」

ここまで言ってトキワを見たが、まだ聞く姿勢を崩していないのを確認して続けた。

「だからね、ハナが良い子なのはわかってるし、幸せになるのは当たり前だと思うし、邪魔してやろうとかそんなこと思わないよ。でもね、自分と比べてしまうのが嫌で、辛い。捨てられないように必死な自分が、惨めで仕方ない。」

「ヒミ…。」

「それだけ。」

「俺は、絶対お前を裏切らないからな。」

「知ってる。ありがとう。」


 トキワと別れ、ヒミは数ヶ月ぶりに人里へ行こうと思い立ち、昔家族とともに住んでいた家の近くへと立ち寄った。

「おやヒミちゃん、しばらく振りだねえ。ちょっと痩せたんじゃないかい?これ持っていきな、アオイちゃんも好きだろう?一緒にお食べ。」

 ちょうど農作業をしていた近所のおばさんが人の良い笑顔を浮かべて、自分の畑で収穫したらしい葡萄を3房抱えてきた。

「良い匂い…。ありがとうございます。」

「痩せちゃったみたいだけど、元気そうで良かった。またたまには顔見せておくれよ?」

「はい。」

 優しさに撫でられたことで、ささくれ立っていた気持ちが穏やかになったヒミは、もらった葡萄を潰してしまわないよう大事に抱えてアオイのもとへ向かった。

 外には姿が見えず、彼の家の中かと探していると、書庫の扉が薄く開き、明かりの筋が漏れている。そっと覗くと、アオイが何かに熱心に目を通しているようだった。

「アオイ…?」

 呼びかける声に、ヒミだと気づいたようだが、書物から目を上げることはせずに声だけで返事を返した。

「何だ?」

「これ…、農園のおばさんに久しぶりに会って、葡萄もらったの。持っていきなさいって、だから…」

 一緒に、と続けようとしたがアオイの言葉が一瞬早く発せられた。

「そうか、そこに置いておいてくれ。」

「…うん。ごめん、邪魔して。」

「いや…。」

ヒミは慌てて部屋を出た。

 ああ、全部置いてきてしまった。おばさんに今度会ったらなんて言おう…。そんなことをぼんやりと考えながら歩いていると、何やら話しながら前からハナとトキワが歩いてきた。今は話しかけられたくないと欠片の願いに気づくはずもなく、二人はヒミに声を掛けた。

「ヒミちゃん、どこか行ってたの?」

「ああ…うん。」

「何か良い匂いがするな?果物か?」

「え?…服に染みついたのかな。さっき農園のおばさんに葡萄もらって…。」

「へー、美味かったか?」

「…うん。あ、二人は?どこか行くところ?」

「アオイが書庫で調べものしててさ、根詰めてるみたいだから少し息抜きさせてやろうと思って呼びに行くところだ。キナリがハーブティー淹れたから、ヒミも一緒に来いよ。」

「…私は、いいや。」

「…そうか。気が向いたら来いよ。」

「うん。」


 ヒミは誘いに応じないだろうことにトキワは気づいていたが、そのまま好きにさせることにした。気がかりではあったが、とりあえずアオイのもとへと向かった。

「おーい、アオイ?」

「ああ、どうした?」

「ちょっと息抜きしよう?キナリちゃんがハーブティー淹れてくれたから、行こう?」

「…呼びに来てくれたのか、ありがとう。」

 部屋を出ようとトキワが視線を回すと、入り口の横に紫色の果実が光っている。そこだけが異質な静かさで存在感を示していた。

「…なあ、さっきヒミが来たのか?」

「ん?何か置いて行ったみたいだけど…ああ、そこに。…そんなにあったのか。」

「え?気づかなかったのか?」

「…ああ。」

「へえ?随分熱心に本読んでたんだな?ハナ、それ持って行ってくれるか?皆でいただこう。」

「うん、良い香りね。さっきのヒミちゃんと同じ匂い。」

 眉間に皺を寄せたアオイを見て、自分と同じことを感じているんだろうとトキワは思ったが、いま一人で居るヒミを考えると少しだけ泣きたくなった。

 3人はキナリの待つ家まで黙ったまま歩を進めた。

「ちょうど飲み頃よ…って、何?その立派な葡萄。綺麗な色ね…。」

「ああ、ヒミがもらってきたらしい。」

「そのヒミはどうしたの?誘わなかったの?」

「声かけたんだが、断られた。」

 アオイがふとトキワを見たが、トキワは気づかないふりをした。

「なんで?」

「出かけてて、疲れてるみたいだったからきっと休んでるんじゃないのかな?ね?」

「そんな感じだ。」

「そう…、残念。ヒミの分は残しておかなくていいの?」

「まあ、美味かったって言ってたから、向こうでご馳走になったんだろう。」

「じゃあ、遠慮なく。」



 太陽を雲が隠してしまったが、日に晒されている手はその熱を感じるのだから、おそらく空は青いのだろうなどととりとめのないことを考えながら、ヒミは河原で天を見上げていた。

 彼はきっとハナが声を掛けたなら手元から顔を上げて、その目を見て返事をしたに違いない。自分には、そのような動作ひとつでさえ惜しいのだろうか。それとも顔も見たくないのだろうか。本当は一緒に食べようと思って大事に抱えて持って帰って来たのだ、ハナ達も一緒にいたのなら皆で食べても良いと考えていた。だが、目も向けてくれないばかりか、置いておくように言われた。ならば置いていくよりほかにないだろう。おばさんも、アオイの好物だと知っていたからこそくれたのだ。

 トキワとハナがアオイを呼びに行って、キナリが待っているということは、あの艶やかな果物もテーブルに並ぶのだろう。あのきっと色彩鮮やかな果物は彼らに似合う。それならばそれで良い。そう自分に言い聞かせながらヒミはぼんやりと白黒の景色を眺めながら風に吹かれた。





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