第8話
「わ…!」
黒くどろりとした穢れが、意思を持ってヒミの腕に絡みついた。そのまま闇に取り込もうとしているのか、自分の腕から早く引き離さなければ危ないとわかってはいるが、暗闇から聞こえる声に耳を傾けてしまった。
(タスケテ)(サビシイ)(コワイ)(クルシイ)(アイシテ)(カナシイ)…
隙間なく聞こえてくる怨念に、ヒミは、その想い達を消すことは出来なかった。
「おい!なにやってんだ!」
振り向いた先で、黒いモノを腕に絡ませたまま動かないヒミを見つけたトキワは、急いで駆け付け助け出した。
「ごめん…」
「何で動かなかった?危ないだろうが。」
「…動けなかった。」
ヒミの両目からはボロボロと壊れたように涙が溢れていた。
「おい、何で泣いて…そんなに怖かったのか?とにかく、帰ろう。」
神里に戻った二人を待っていたのは、宮司の険しい顔だった。
「ヒミ、そなた…しばらく潔斎せよ。」
「は…?」
「なぜかわからぬか?己で気づかなければ意味が無い。しばらく潔斎し、よく考えなさい。」
「…はい。」
宮司が 潔斎しろということは、つまり1人で暗い場所に閉じ籠れということだ。ヒミにとっては心当たりがある。穢れを祓うこともせずに哀れだと涙を流したのだから。
トキワはすべてを見ていたため潔斎の理由もわかっていたが、アオイ達には何が起きたのかわからなかった。
1人暗い窟へ入ろうとしたヒミを、ハナが呼び止め話しかけた。
「ヒミちゃん…もし、何か私にできることがあったら言って?力にはなれないかもしれないけど、たとえば話を聞くこととかだったら、」
「え…?」
「ヒミちゃんも、言いたいことたくさんあるんでしょ?今日のことだって何か理由があるんだよね?」
「…ハナに言って、何になるの?」
「ほら、誰かに話を聞いてもらうとすっきりしたりするでしょ?だから…」
「…聞かない方がいいと思うけど。」
「そんなことないよ、ヒミちゃんが何を考えてるのか、とか、教えてくれたら皆、ヒミちゃんの力になりたいって、」
何も知らない、優しいハナの心が言わせた言葉だとわかっているからこそ、抑えていた感情があふれ出た。
「そんな…そんなこと言われたって、一人で…耐えるしかないのに…なんで、そんなこと言うの?捨てられたのに、消えることは許されない、だから耐えるしかなかったのに。笑うことすら拒まれた。隣にいることも、消えることも、憎むことも、同情することも何も許されないのに…?」
ハナは、ヒミがこんなにも自分の感情を露わにするのを初めて見た上に、怒りともとれる泣き言に、黙って聞いていることしかできなかった。
「…誰でもハナみたいに、周りに手を引いてくれる人がいるわけじゃないんだよ、もう私に構わないで。」
いつもの落ち着きを持ってヒミは暗闇の中へ消えていった。
呆然とヒミが消えた暗闇を見つめていたハナだったが、一人踵を返し歩き出した。前に気配を感じて顔を上げると、眉尻を下げたアオイが立っていた。
「どうした?なにかあったのか?」
「なんでもないの。」
「なんでもないのに泣くのか?」
「…ヒミちゃんが、」
「ヒミに何か言われたのか?」
「ちがうの、そうじゃなくて…私、ヒミちゃんに嫌われちゃったみたい。」
泣いているハナをただ宥めるしかないアオイは、天を仰いだ。
泣き止んだハナを家に送り届けたアオイは、訳知り
であろう男の所へ向かったが、声をかけられたトキワは、険しい顔で振り向いた。
「アオイ、最近ヒミと何か話したか?」
「いや、特には…」
「そうか。じゃあ知らないだろうな、ヒミは、色がわからないんだ。」
「は?どういうことだよ?そんなはず…」
「そんなはずない、か?ヒミがそう言ったか?」
「いや…でも、」
「また何か言ったのかお前?それともハナか?」
「ハナが…ヒミに髪飾りを買ったんだ。似合うだろうからって、赤い蝶のを…。」
「へえ?お前と買いに行ったのか?」
「ああ。人里で祭りがあっただろ、あの時に、ヒミに土産だって…」
「ヒミは喜んでたか?」
「綺麗だって、喜んでるように見えたが…。」
「黒い蝶に見えてただろうな。白黒らしいから、あいつの視界。」
「白黒?」
「俺の目も灰色だと。どんな気持ちだろうな?色が無いのって。」
「目の病気なのか?」
「いや…傷も病も無い。何故かはわからない。ヒミの心は、俺にも読めない。宮司もはっきりとはわからないらしい。」
「じゃあ、なんで…」
「ひと月前から。」
「ひと月前…」
「ハナが一人で倒れているのをお前が見つけた時だ。」
「…治るのか?」
「本人に治したいという気が無いらしい。不便もないみたいだからな。」
そう言ってアオイをじっと見据えるトキワに、アオイは小さく呟いた。
「…俺のせいだって言いたいのか?」
「そうじゃない。お前が不器用なのは知ってるからな。でも、もう少し要領よくても良いとは思う。」
「なんだよ、それ。」
「俺は、本人に黙って心を覗き見るような真似はしない。でも、傍から見たほうが物事はわかりやすいこともある。」
「…じゃあ、お前がヒミを助けてやれよ。」
「できるならとっくにしてるよ。」
数日後、潔斎を明けて出て来たヒミを迎えたのはトキワだった。
「大丈夫か?」
数日前のヒミよりも少し顔色は良いようだった。
「ハナに蝶々もらったんだって?つけないのか?」
ヒミは袖の袂から蝶の髪飾りをとり出した。
「これ、何色?」
「…赤だ。真っ赤な蝶だよ、ヒミ。」
「そっか、赤か…。」
「黒だと思ったか?」
「うん。」
「色、見たくないか?」
「必要ないよ、私には。」
「…そうか。」
あれ以来泣かないヒミに、かえってトキワは泣きたくなった。傍目には今の笑いもしないヒミは無感情に見える。だがその内面はどうなのだろうか。感情を抑えつけているのだろうか、それとも本当に何も感じていないのか。
トキワはもう一度読めないだろうかと、何度かヒミの心を読もうとしてみたが、やはり読むことはできない。形を捉える前にすぐに霧散していくのだ。だが、蝶の色を問うてきたその一瞬、瞳の奥の感情が揺れた気がした。
「ヒミ、それ貰って嬉しかったか?それとも辛いか?」
「…変なこと聞くね。嬉しいよ、当然。」
「俺はさ、人の考えてることがわかるんだ。」
「知ってる。」
「でもさ、お前の心は読めないんだ。なんでなんだろうな?」
「…私に心が無いからじゃないの?」
「お前に心が無いわけないだろ。心の無いやつだったら、お前みたいに優しくなんてなれないよ。」
「…優しい?」
「アオイや、ハナの為に…我慢してるんだろ?」
「そんなきれいなものじゃないよ。自分が傷つきたくないだけなんだから。」
「俺は寂しいよ、お前の世界が白黒なのは。この目が灰色に目えてるなんてな。」
「…ちゃんと覚えてるよ、トキワの目は綺麗な緑色だってわかってる。」
「ちがう。俺は緑色の目で見ているのに、お前には違う色に見えていることが寂しいんだ。何も伝わってないんじゃないかと思うと、寂しいんだよ、ヒミ。」
「それは…」
「トキワ、ヒミ!」
「キナリ?どうした?」
「アオイが…!」
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