第14話
〈もしもし、椿原です〉
涼やかで張りのある少女の声がつぐみの耳に入って来た。
「もしもし黒羽です。…深花耶…さん?」
〈うん、そうだよ〉
「良かったあ。今、どうしても相談したいことがあるんだけど大丈夫?」
〈ローズマリーの茶会〉
「え?」
〈ちょうど今〝
「…まず、嘘ついたことを謝らないといけないんだけど…」
つぐみはそれから烏丸家に今日も滞在している理由、事件の内容、茜が話してくれたことを口述した。すると深花耶は、
〈やっぱり私の勘は当たっていたわけだ。まさか君も、殺人事件に巻き込まれるなんてね〉
「私も未だに信じられないよ…」
つぐみは小さく溜め息をついた。つぐみが深花耶に相談したのは、深花耶が犯罪、特に殺人と放火事件に詳しいからである。
――椿原深花耶は彼女が八歳のときに、母親を連続放火殺人事件によって亡くした。深花耶は元々母子家庭に育ち、八歳のある日、母と二人で大型ショッピングモールに出掛けた。母は普段働いていた為、二人きりで出かけるのは久し振りであった。そしてそれが、母との最後の思い出となってしまう。二人がいた休日のショッピングモールに通り魔が出没し、次々と無差別に人を斬り、刺した上で施設に火を放ったのである。深花耶の母親は深花耶を守る為にナイフで刺され、炎の中動けなくなる。深花耶は泣きながら母を担いで外に逃げようとしたが、自身も大きな火傷を負った。そして、深花耶だけが助け出され、焼け跡からはあまりにもむごい、母の焼死体が見つかったのである。
例を見ない通り魔放火事件は連日大きく報道された。そしてその後に実行犯が五人いることが分かる。警察は実行犯の五人を全て逮捕したと発表した。しかし、深花耶自身はその発表の信憑性に疑いを持ち、今でも独自の調査を続けている。そしてその過程で、深花耶は探偵の術を身に着けるようになった。そんな壮絶な過去から、深花耶は殺人犯を異常に憎むようになった。警察を全く信用せず、自ら犯人を捜し出すことを誓った。――つぐみが深花耶に助けを求めたのは、彼女の頭脳や捜査力が優秀であるが故である。
〈…君も気の毒だね。でも関わってしまった以上は、解決まで君は付き合わなきゃいけない〉
「うん。…それに、今話した茜ちゃんも藍ちゃんも苦しんでいる。おこがましいかもしれないけど、助けてあげたいんだ」
〈君は普段大人しいけど、時折勇気があるというか突飛というか、そんな行動に出るときがあるからそう言うとは思ったよ。今の話を聞いている時点で、その藤子さんは殺された可能性は高いと私は思うね〉
「でも、文書の内容は…? 97%も藤子さんの筆跡と一致したけど…」
〈100%じゃないんなら、残りの3%を疑うべきだよ。…まだ推測の域を出ていないけど、その文書は途中までは本物だったんじゃないかな〉
「どうして?」
〈まず、文書で書かれたものはボールペンでも鉛筆でもなく、毛筆だった。単に告白をする為だけなら、ボールペンでも良い筈だ。そして、藤子さん自身も書道二段の腕前でかなりの達筆。とすると、文字を真似るなんてかなり困難だよ。そして次に問題なのは文書の紙の材質。元々の物は和紙だったよね?〉
「うん。刑事さんがそう言ってた」
〈和紙の性質を考えてみると?〉
「薄くて…あっ!? まさか…!」
〈そう、藤子さんの文書の本物は別の所にあるか廃棄されたか…。とにかく本物の存在が邪魔だった人物が和紙で一部を写し取り、書き換えたんだ。書き換えた部分は…藤子さんが地の練習をしていたり遺していたりすれば写し取ることも可能だろうね。
そして文書を捏造した人物が藤子さんを殺害した犯人と同一人物である可能性は高い。そして、いくら写し取っても筆跡を完全に一致させることはほぼ不可能だ。それが恐らく、残り3%の正体だよ〉
他殺ということは断定できないが、深花耶の推理でつぐみの中にあった文書への疑問はすっかり解けてしまった。筆や和紙の理由は盲点であった。
「じゃあ茜ちゃんと会ったときに藤子さんが眠っていたのは、やっぱり検出された睡眠薬のせい?」
〈その可能性は十分に高いね。ただ…睡眠薬の量が問題になってくるかな。直接の死因でもないし…〉
「睡眠薬とトリカブトをお茶に混入させた人物は同じ…なのかな?」
昨晩、お茶を運んできたのは沢野であった。まさか、沢野が――。
〈そう考えるのはまだ早いし、危険だよ。私としては君以外の全員が怪しく思えるんだから〉
「えっ!?」
〈私にも君にも、この家の情報が少な過ぎると思うんだ。トリカブトの入手方法、混入させた時間、殺害の動機…まだ何にも見えていない。もっと情報が必要だね〉
「…分かった。この家のこと、色々調べてみるよ」
〈警察の奴らに邪魔されないようにね。ああそれと、他に気になる点はあるかい?〉
「気になる点…ねえ…」
つぐみは昨晩のことをざっと思い出す。ふと、そこで何故か藤子の引き攣った笑みが浮かんできたのである。
「そういえば、藤子さんの笑顔が妙だったんだ。引き攣って…いや、あれは痙攣に近いかも…」
〈痙攣? …まさか、附子…?〉
「附子?」
〈ああ、今のは独り言だから気にしないで。でも何でその時点で附子が…。とにかく、情報収集よろしく。
それと…出来るだけ早い方が良いね〉
「ど、どうして?」
〈濡れ衣を着せられる人物が出て来るかもしれないからさ。それじゃあ、私の方も色々と考えてみるよ。じゃあ、また〉
電話は一方的に切られた。だが、深花耶の言うことは悉く的を射ている。つぐみ自身も、もっと烏丸家のことを知らなければならない。受話器を置くと、早速情報収集に向かった。
つぐみはまず藍と茜に話を訊いてみよう、と藍の部屋の前まで来た。しかし、いざとなると今の状態の藍に会うのはかなり気まずい。今は茜がついているが、それでもまた事件のことを尋ねるとパニックになるかもしれない。―だが、深花耶の言う通り冤罪で逮捕される人間が出てしまう可能性がある以上、自分には迷っている時間すらないのだ。つぐみは腹を決めた。
「…藍ちゃん、茜ちゃんも…中にいる? 中に入っても良いかな?」
「は、はい。どうぞ」
返って来たのは茜の声であった。つぐみは襖を開けて中に入る。部屋の真ん中には布団が敷かれ、そこに藍が力なく座っていた。その横には不安な面持ちの茜が座っている。藍の私室はほぼ水色の物で構成されており、棚の上には愛らしい兎の小物が沢山並んでいる。勉強机の上は綺麗に整理整頓され、ガラス製の綺麗な電気スタンドが置かれていた。いかにも女の子らしい部屋である。
「ごめんね、突然押しかけて」
一通り部屋を見回した後、つぐみは藍にそう声を掛けた。藍はゆっくりと首を横に振る。
「隣、座っても良いかな?」
この質問には藍は首を縦に振ったので、つぐみは茜に並ぶように座った。目の前の藍の美しさはそのままであるものの、活発な印象はすっかり削ぎ落とされていた。見ていてとても痛々しい。
「その…お友達の方からは何と言われましたか?」
茜はそう尋ねて来た。つぐみは頷くものの、その推理を披露して良いものか迷う。
深花耶の推理は、藍と茜には堪えるものだからである。暫し考えた後に、つぐみは口を開く。
「藤子さんは書道が趣味…だったよね?」
まずは藤子のことについて探りを入れてみることにする。
「…はい。私とお姉ちゃんも、お母さんから習っていました」
答えたのは茜であった。
「そしたらやっぱり、よく筆で文字を書いたりする?」
「そう…ですね。練習もよくしていましたし、年賀状の字も全て筆の手書きでした。前には烏丸家の年賀状を全て書いたこともありましたよ」
「それは凄いね。そういえば、撫子さんは藍ちゃんと茜ちゃんも藤子さんに書を習っていた、って言っていたけど…」
「はい。週三回はお稽古の時間がありました」
「その見本ってやっぱりお母さん…藤子さんの?」
「ええ。時々テキストでも練習してましたけど、基本はお母さんの各作品をお手本に」
「じゃあ藤子さんの字に近い、ってことはある?」
「…お母さんほどではないですけど…そうかもしれません」
「あの」
茜とのやり取りの途中で、藍が声を発した。つぐみは藍を見る。
「その質問に何か意味はあるの? …もしかして母さんのあの文書のこと?」
「…うん、その文書のことなんだけど、もしかしたら藤子さん自身が書いた物じゃないかもしれないんだ」
つぐみはそこでやっと、深花耶の推理を教える。そして、話し終わった後で姉妹の反応を待つ。
「…やっぱり、あれは母さんのじゃなかったんだ…!」
藍の声には力が込もっていた。
「あ…でも、はっきりそうと決まったわけじゃ…」
「母さんは自殺なんてしない! きっと殺されたのよ! その文書を作った奴に!」
「あ、藍ちゃん…?」
「私は母さんを殺した奴を絶対に許さない!」
藍の目は憤怒で燃えていた。その表情は、殺人犯に執着する深花耶と重なって見えた。
「…確かに、殺されたのならその犯人を許すことは出来ない。だから私も、この事件の真相を突き止める為に情報を集めているの。事件の前、藤子さんに変わったこととか、トラブルとか無かった?」
「トラブルは分かりませんけど…あっ! そういえば、お母さんの顔が…その、時々引き攣っているように見えたんです」
「そ、それっていつから!?」
自分と同じことに気付いていた茜の発言に、つぐみは思わず大きな声を出してしまう。つぐみのその様子に茜は驚いた。
「そ、そうですね…確か…そうだ、四日前ほどから何か変だな、って思ってました」
「四日前…」
逆算すると藤子が亡くなる三日前のことである。これについては深花耶も不思議そうに呟いていた。これは、もっと聞いておいた方が良いのかもしれない。
「他にはその四日前に…気付いたこととかあった?」
「…いえ、他には何も…。翔兄さんがその日に帰って来たこと以外は…」
「そっか…」
翔太郎が四日前に帰って来たことは今のところ事件とは関係なさそうだが、覚えておくことにする。
「他には…そうだ、藤子さんが皆に発表しようとしていたことについて、何か心当たりはある?」
この質問には藍も茜も黙って首を横に振った。――もっと情報が必要ではあるが、藍も茜も、段々とどこか苦しそうになって来ていることに気が付く。特に、最後の質問ではそれが顕著に表れていた。これ以上の追究は二人には辛いだろう、とつぐみは判断した。
「それじゃあ、私は失礼するね。色々聞かせてくれてありがとう。藍ちゃん、無理しないでね」
つぐみの言葉に藍は小さく頷いた。藍の部屋を出ると、つぐみは一階に戻った。
次に誰に、それもどんな話を訊けばいいのかをつぐみは廊下で突っ立ったまま考える。沢野は現在取り調べ中であり、葉子や翔太郎は話しかけ辛い。消去法で撫子と仁志しかいなかった。まだ居るかどうか分からないが、とにかく大広間に行ってみることにした。
大広間の襖を開けると、誰もいない。居間の方かと思い移動して襖を開けると、仁志だけがいた。仁志はぼんやりとした表情で座っている。
「あの、どうかしたんですか?」
つぐみが声を掛けると、仁志ははっとした表情になりつぐみを見た。
「ああ、つぐみちゃんか。どこに行ってたんだい?」
「茜ちゃんと偶然会って、藍ちゃんの部屋で話をしていたんです」
電話のことは敢えて伏せておいた。深花耶の弁では烏丸家全員が怪しいとのことであり、烏丸家のことを調べていることを知られたくはないからである。
つぐみは仁志の近くに適当に座り、仁志から座布団を勧められたのでありがたく使わせてもらった。
「撫子さんはどうしたんですか?」
「さっき、自分の部屋で休む、って言ってたよ。撫子さん、大分考え込んでいたみたいだからね」
「…それってやっぱり、事件のこと、ですよね」
「ああ、そうだね。撫子さんは特に文書が本物かどうか、考えているみたいだし」
先程撫子は『文書の内容こそが真実』という主張をしていた。一方で深花耶は文書の内容は偽りである、と主張し推理までした。実の姉が死んだというのに、その尊厳を傷付けるような発想をするものだろうか。撫子と藤子の関係はどうなのか、つぐみは気になった。撫子がいない今、第三者である仁志に何かを聞くことが出来るかもしれない。
「あの…急にこんなことを訊くのも変かもしれませんけど…撫子さんと藤子さんの仲ってどうだったんですか?」
前置きはしておいたものの、やはり質問の内容が無い様なだけに仁志は驚いた後、気まずそうな表情になる。
「…今から僕が言うことはオフレコで良いかな? 特に撫子さんには」
「もちろんです」
「……僕と撫子さんが結婚したのは四年前だけど、そのときはこう…何て言うか二人の関係は冷めたものだったね。
互いに距離を置いていたし、二人が楽しそうに会話しているとこなんて見たこともない。前に撫子さんはこう愚痴をこぼしていたんだ『あの人は次期当主だからプライドが凄く高い。むしろプライドの塊だ。そして当主の座を脅かす自分や死んだ姉は邪魔な存在で、昔から冷たくされてきた』って…。僕もその言い分には納得できたよ。僕は撫子さんとセットで邪険にされていたからね。表立っての嫌がらせ、なんてことは無かったけど、こう何て言うのかな…言葉に棘々しいものや冷たいものが含まれていたね」
そう言った後で仁志は「死んだ人のことは悪く言いたくないけどね」と付け加えた。外部から来た仁志でさえそう感じたのならば、身内の撫子はより強くそう感じていたに違いない。〝当主〟という肩書だけで姉妹の溝は深まるのか、とつぐみは複雑な心境になった。
「あの、翔太郎さんと藤子さんはどうだったんですか? …随分歳の離れたご姉弟ですけど」
「翔太郎君が今年で二十六歳だから…十六歳差だね。うーん、この家は代々女性が当主になって取り仕切ってるだろう? だから男の肩身なんかとっても狭くってね…。翔太郎さんは撫子さん以上に藤子さんとの仲は良くない…どころか空気みたいな扱いでさ。その上実の母親である葉子さんとも上手くいっていなかったみたいだね。歳を取ってから生まれた子供は可愛がられると思っていたんだけどなあ…」
仁志の言葉を受けて、つぐみは仏間にあった写真を思い出す。あの写真の中には幼い翔太郎を抱いた葉子が写っている物もあった。少なくともその写真では、今の姿からは想像もつかないほどに柔和な笑みを浮かべていた。家族の仲というものは、そこまで変質してしまうものなのだろうか。そしてふと、つぐみは藍と茜の話も思い出す。
「あ、でも藍ちゃんと茜ちゃんは翔太郎さんと仲が良かったみたいですね。二人とも『翔兄ちゃん』って呼んでましたし…」
「ああ、昔は仲良く遊んでたみたいだね。撫子さんとの仲も悪くなかったみたいだし。でも、この家では葉子さんと藤子さんの力が強いからね。大学へ進学したのを機にこの家を出て、殆ど帰らなかったみたいだし」
姉妹、姉弟の仲はやはり良くないことがこれで判明した。これは、あまり考えたくはないが、藤子を殺害した動機には成り得るだろう。では、使用人の沢野はどうなのだろうか。
「話は変わるんですけど、沢野さんってこの家でどのくらい働いているんですか?」
「沢野さん? ああ、確か…十五年前からこの家で住み込みで働いているそうだよ」
「じゅ、十五年も前に!?」
「うん。だからこの家のことは僕よりも詳しいんじゃないかな。…今取り調べ中だけど、沢野さんは人当たりが良いし、とても人を殺すなんて考えられないと思うけど…」
「やっぱり信頼されてるんですか? 沢野さんは」
「そりゃあそうじゃないと十五年も勤まらないだろうねえ。元は家政婦協会から派遣されて来た人だったみたいだけど、この家の人たちが沢野さんの働きっぷりが気に入って、住み込みで今までずっと、っていう流れらしいよ」
仁志の言い分につぐみも納得する。確かに沢野はよく気が利き、つぐみにも善くしてくれた。沢野のことは恐らく、これ以上のことは聞き出せないだろう。
「えーと、その…藤子さんなんですけど、何か最近変わったこととかありますか?」
「お、何か刑事っぽいねつぐみちゃん。そうだなあ…。あ、最近頭痛が酷い、って言ってたな。持病だったみたいだよ。それで、台所で薬を飲んでいるのを見たことがあったなあ」
「薬?」
「うん。何の薬かはよく分かんなかったけど、頭痛薬か何かだと思うよ」
そこでつぐみは、今回の事件に毒が使用されたこと、そしてこの烏丸家は薬を作っていた時代があった、と翔太郎が行っていたことを思い出す。この事実が大変重要な気がして来た。
「…もしかして藤子さんが飲んでいた薬って、この家で作られたものっていう可能性は?」
「うーん、それは無いんじゃないかなあ。確かに烏丸家は薬師をしていた時期があったみたいだけど、それは戦前のことまでらしいし、今はほら、薬事法に引っ掛かるだろ?」
「そうですか…」
仁志の今までの話から、烏丸家の人間関係は少しだけ掴めて来た。今度は藤子を殺した薬物―トリカブトについて訊いてみる必要がありそうである。薬といえば、大学で生薬を研究し、先程の集まりでトリカブトについて説明した翔太郎が一番詳しいだろう。あの無愛想な青年に話を聞くのは難儀そうだが、そこは何とか思い切って行くしかない。
「ありがとうございました、話を色々聞かせていただいて」
つぐみはそこで立ち上がった。
「どういたしまして。…もしかして、今回の事件について調べているのかい?」
仁志の言葉に一瞬ぎくりとしたが、つぐみはすぐに切り返す。
「今までの私の質問も、オフレコでお願いします」
「はあ…分かったよ」
仁志は特にそれ以上追及せず、つぐみは居間を出た。
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