第三章 白露
第11話
誰に起こされたわけでもなく、つぐみは目が覚めるとゆっくりと上体を起こした。変な夢を見てしまった、とつぐみは心の中で呟く。あの二人が夢の中に出て来たのは、寝る前に写真を見たのと、藤子の遺体がショッキングであったからであろう。と、何とか夢に理由をつけた。
エアコンを点けっぱなしで眠ったので喉がカラカラであり、口の中もすっきりしない。とにかくブレザーを着てリボンも着けると、簡単に布団を畳み、鞄の中を探る。
携帯のディスプレイは午前八時十分と表示されていた。学校があるならば大遅刻だ、と思いつつ、つぐみは持っていた櫛で髪を梳かした。
身支度を簡単に整えると、部屋の外に出る。昨日と変わらず容赦のない室外の寒さに身を縮める。正面には藍と茜の部屋がある。
今度こそ藍に声を掛けよう、と思っていたが、自分は顔も洗っていないことに気が付き、まずはそちらを済ませることにした。
一階に下りると、何やら騒々しい。すると、廊下で朝食を運んでいるらしい沢野と鉢合わせた。先に声を掛けたのは沢野であった。
「ああつぐみ様、おはようございます」
「おはようございます」
「皆様も先程起床されて、今朝食を」
そう言われたつぐみは、自分が寝坊したことに気が付き途端に焦った。
「すみません! もっと早く起きていれば…」
「いえいえ、お気になさらないで下さい。つぐみ様も昨晩は大変でしたでしょう? もっと寝ていらしても…あ、でも警察の方から連絡がありまして、九時頃に鑑識の結果等をお話したいと連絡がありまして…今お会いできてよかったです。ご飯を食べられるのも今の内ですね」
「そ、そうなんですか。本当に良かったあ…。あ、でもその前に…顔を洗いたいんですけど…」
「では、ご案内いたしますね」
お盆を持ったままの沢野に、つぐみは洗面台のある浴室まで連れて行ってもらった。白い扉の向こうは、広い空間の中に大きい洗面台と、更に浴室に繋がる扉があった。
「歯ブラシとコップはこの新しいのをお使いください。それと、タオルはその篭に入っているものをご自由にどうぞ」
「何から何までありがとうございます」
至れり尽くせりの沢野や烏丸家の対応に、つぐみは頭が上がらない。
「いいえ、大事なお客様ですから。朝食は居間にご用意しておきますね」
沢野はそう言って軽く頭を下げるとその場を辞した。つぐみは有り難く思いながら顔を洗い、歯を磨いてすっきりした。
居間の襖を開けると、仁志と撫子、翔太郎と葉子が既に朝食を摂っていた。翔太郎はやや不機嫌そうに見える。つぐみは「おはようございます」と皆に挨拶をし、翔太郎以外の返事が返ってくる。
撫子の隣に空いている座布団と、湯気が上っている朝食がある。他にそのような席はないので、つぐみはそこに座った。
「おはようつぐみちゃん。よく眠れた?」
席に着くと、撫子は微笑みながらそう声を掛けて来た。目の下にうっすら隈が出来ており、昨日より心なしかやつれている様に見えるが、美しさに変わりはない。そして撫子の顔を見ると否応なく今朝の夢を思い出してしまい、何とも言えない気持ちになる。
「おはようございます。はい、寝坊する程度に寝たので大丈夫です」
つぐみは夢のことを引き摺りつつも、何とか笑顔で返した。つぐみの言葉に撫子は声を小さく立てて笑う。
「気にしないで大丈夫よ。まさかあんな夜中に取調べがあるなんて誰も思わないもの。そうそう、警察の方が九時に説明を行うことは聞いている?」
「はい、さっき沢野さんに教えていただきました」
「そう、ご飯に間に合って良かったわね。あ、ごめんなさい。ご飯冷めちゃうわね」
「いえ、大丈夫です。いただきます」
つぐみは手を合わせて食前の挨拶をすると、箸を手に取った。藤子が亡くなったので肉・魚・卵は一切使用していない野菜と米だけの食事である。食事を用意した沢野の苦心が分かる料理であった。
「ごちそう様」
葉子がそう言ったのが聞こえて来たので、つぐみは顔を上げる。葉子は先に食事を済ませると、杖をついてゆっくりと居間を出て行った。今日も変わらず泰然自若としている。
食事も半分になったところで、つぐみは藍と茜がここにいないことが気になり、撫子に訊いてみる。
「あの…藍ちゃんと茜ちゃんは…?」
「ああ…あの子たちは自分の部屋でご飯を食べてるらしいわ。二人とも、まだ人と会うのは難しそう…」
「そうですか…」
つぐみはそこで昨晩の茜を思い出す。人と会うのは難しい、というのはやはりあの発言が関係しているのだろうか。
茜の発言についても訊いてみようと思ったが、あの様子を見る限り本人に直接訊いた方が良いような気がした。つぐみは残り半分の朝食を平らげた。
食後の茶を飲んでいると、仁志が熱心に新聞紙を広げて読んでいる。つぐみはそこから、今回の藤子の死が報道されているかもしれないことに気が付いた。
「あの…もしかして新聞にこの事件のこと載っていますか…?」
撫子を挟んで仁志に尋ねた。仁志は紙面から目を離してつぐみの方を見る。
「うーん、隅から隅まで読んでいるけど、どうやらまだ載っていないみたいだね。まあ死の真相がはっきりしない内は載らないだろうけど、いつかはマスコミが押しかけて来るんだろうなあ…」
仁志は心配そうに言った。すると、
「マスコミは警察と同じくらい嫌いだわ。あいつらに良心ってものは無いのかしら」
撫子は憤りながら言った。恐らく、良吉に百合子、そして夫の忠治の死のときにマスコミに押しかけられでもしたのだろう。この事件がこの地にだけ知られるに留まればいいが、全国版になればつぐみの母も知ることになるだろう。母の桂子が心配することを、つぐみは心配する。そして、そこで桂子にも友人の深花耶にもまだメールの返信をしていないことを思い出した。既に心配を掛けているかもしれない。
「あの、母と友人に連絡したいんですけど、この家の電話をお借りしても良いですか? あ、この事件のことは伏せておくので…」
「ええ、遠慮せずにどうぞ。電話は客間の前にあるから」
撫子が笑顔で承諾してくれたので、つぐみは早速電話に向かう。その前に食べ終えた食器を片付けようとすると、撫子は「沢野が片付けてくれるから」と言ったので、心の中でまたもや沢野に感謝しつつ居間を出た。
電話を見つけると、まず桂子の携帯に電話を掛ける。中々出なかったが、しぶとく待っているとようやく母の声が聞けた。当然桂子はつぐみの心配をし、つぐみはメールも電話も返せなかった理由を話すと、桂子は驚きの声を上げた。当然と言えば当然の反応である。そして、次は今どこにいるのかと訊かれたので「烏丸家の屋敷にいる」と正直に答えると、また驚かれて理由も尋ねられた。事件のことは伏せて「バスに乗り遅れて、そのまま好意で泊めて貰っている」と半分は本当の、もう半分は嘘の理由を話した。すると桂子は呆れた声を出し、再度失礼の無いように口酸っぱくつぐみに言った。
今度はつぐみが母の今の様子を訊くと、今はホテルでビュッフェスタイルの朝食を楽しんでいる、とのことである。その朝食も取材の一環だ、と桂子は言い張るがその声は明らかに上機嫌のときのものである。その声を聞いたつぐみは母が羨ましくなってしまった。死人が出る事件に巻き込まれるくらいならば、昔のように母に沖縄までくっ付いて行けば良かった、と心の中で愚痴をこぼし、そしてまた〝自業自得〟という熟語を思い出すのであった。
桂子への連絡が終わった後は、深花耶に電話を掛ける。事件のことは伏せるつもりだが、深花耶は勘が良いので分かってしまうかもしれない、などと考えながら繋がるのを待っていると、いつもと変わらぬ調子の深花耶の声が聞こえて来た。
「もしもし深花耶、昨日はメール返せなくてごめんね」
〈何かあったのかい?〉
そこでつぐみは桂子と同じく、メールを返せなかった理由を説明する。深花耶は納得した声を出した。
「それで、泊めてもらう話だけど、暫くこっちにいることになったから」
〈へえ、ってことは、その家の人たちに気に行って貰えたとか?〉
「うん。実際会って話してみると皆良い人たちで安心したよ。凄く広いお屋敷も、居て飽きないし」
何とか事件のことは伏せられた、とつぐみはほっとする。
〈…それにしては何か元気が無いというか、疲れているというか…そんな声に聞こえるけど〉
深花耶の指摘につぐみはぎくりとする。
「そりゃあ慣れない所に居たら疲れたりするよ。泊めて貰えることになったって言っても、だらだら出来ないし」
〈…まあそれもそうか。どうにも私は何でも勘繰る癖があるようだ。でも、何か話したいことがあったらいつでも連絡してよ〉
「うん、じゃあ遠慮なく。またね」
〈はいはい〉
そこで深花耶との通話は終わった。もしかしたら深花耶はもう何かを察知しているのかもしれない。つぐみは居間へと戻った。
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