第二章 喪夜

第5話

 雪と墨だけしかここにはなかった。重い躰の上に牡丹雪が降り積もる。躰を引き摺り続けると、このまま雪と一体化してしまうのではないか。――ああ、それも良い。

 その内、家も川も木も分からなくなって、白い雪と、墨を溶かし込んだ闇しか眼に入らなくなってきた。

 ふと足元を見ると、そこだけ白と黒ではなかった。鮮やかな、そう鮮やかな紫色が溢れているのである。――否、違う。この世界にこんなものは無い。いや、在ってはならないのだ。すると、それはやはり雪であることに気が付く。

――雪? 違う、これは雪なんかじゃない。そう、これは骨だ。無数の骨の集まりだ。この森に取り込まれたのだ。

 ガア、と鴉がそこで一鳴きした。


                 

                  ◆

 黒羽つぐみは十六歳になる現在まで、平々凡々な人生を送って来た。兄弟姉妹がいない一人っ子で、今まで特に大きな病気や怪我をせず、健康そのものである。通信簿には『好奇心旺盛で、いざというとき行動力がある』と書かれたことがある。インドア派ではあるが、母の仕事で旅行に何度も連れて行ってもらったことから、神社仏閣を巡ることが好きであり、趣味の一つでもある。学業成績はおおむね中の上で、地理と国語が得意。友人たちとも上手くやっており、充実した学生生活を送って来た。

そんな凪しかないつぐみの人生に、波風が立ち始める。それも、ある意味では自業自得とも呼べる自分の行いのせいで。ちょっとばかり湧きあがった好奇心だけの為に、ほぼ他人ともいえる敷居の高い総本家の、それも大切な法要の日に図々しくも乗り込んで行ったのが悪いのだ。〝好奇心は猫をも殺す〟と言った言葉があるが、まさにその通りである。もっとも、死んだのは〝人間〟であるのだが。

 ――藤子の死が確認された後、比較的落ち着いていたのは葉子、翔太郎、つぐみであった。つぐみは藍と茜が錯乱状態となり、気絶して仁志に運び出された撫子を見て却って冷静になってしまっただけのことであり、脳内の半分は思考停止状態であった。一番落ち着いている葉子が自ら警察に通報しに行った後、止せばいいのに――つぐみは部屋の中にある藤子の遺体を見てしまった。

 横向きに倒れたままの藤子は、まるで白と黒だけの彩色の人形のようであった。魂はもう無いのだから、人形に見えてしまうのも仕方の無いことなのだが。だが、それはやはり人の死んだ姿なのだという実感が伴ってくると、恐怖という感情がやっと表出し、つぐみは慌てて藤子の部屋から離れた。

「…〝現場保存〟という言葉をテレビで聞いたことがある。警察が到着するまで何も動かさないように沢野さん、お願いします」

 翔太郎の表情は強張り、声は震えている。目は床を見つめていた。

「は…はい、分かりました…。あの、藍様と茜様は…」

「今は多分…動くこともままならないだろう。そのままそっとしておこう」

 翔太郎は藤子の部屋を出ると、後ろ手で襖を閉めた。藍にも茜にも、そしてもちろん翔太郎にとっても見たくないものであろう。そのまま翔太郎は、自分の部屋に入って行ってしまった。つぐみは藍と茜を見る。

二人は泣きやみこそしたが、心神喪失状態で座り込んだままである。

つぐみは自身も離れた場所に突っ立ったまま、二人に掛ける言葉も、話しかける勇気もなかった。元々冷え込んでいた屋敷の空気が、藤子の死によってますます冷え込んだ気がする。手先と足元から冷気が体の中に入り込んできて、そのまま内側から凍り付いてしまいそうであった。思考と身体が凍りかけそうになっているのを阻止したのは、葉子であった。

「つぐみさん」

 少しかすれてはいるがよく通る声で背後から呼ばれ、つぐみは我に返って振り向く。葉子の表情は初めて出会ったときと変わらなかった。

「は、はい…」

「まさかこんなことになるなんて…さっき警察に言われたのさ『事件当時、屋敷にいた者全員を外に出さないように』とね。藤子の部屋の物には一切手を触れないようにとも言われたよ。悪いけどつぐみさん、あんたも恐らく事件が解決するまでこの屋敷からあんたも出られないそうだ。本当に済まないね」

「い、いえ! そんな!」

「…沢野、つぐみさんが泊まれるように色々と都合しておくれ」

「はい、かしこまりました」

「それと、藍と茜は私が何とかしよう」

 葉子はそれからつぐみと沢野の傍を通り過ぎ、藍と茜の元へゆっくりと歩み寄った。沢野は、葉子とは正反対の方向へ足早に歩いて曲がり角で消える。つぐみも葉子ら三人に遠慮するように、そして逃げるように用意された自室へ向かった。



 部屋に入ると、廊下と大して変わらない寒さであったので急いでエアコンのスイッチを入れた。

僅か三十分か四十分程しか電源を切っていなかったのに、もう空気は冷たくなっていた。部屋が暖まるまでコートを羽織って凌ぐことにする。

またぼうっとする時間が出来てしまい、そして少なくとも事件が解決するまで暫くこの部屋に厄介になることに気が付いた。更にここは携帯の電波圏外である。

少なくとも母や深花耶には連絡を入れたかったが、それも適わない。

正確には、この家には家庭用電話があるので連絡自体は取れるのだが、とてもそんな気力は無い。それに、こんな事件のことを話せば母と深花耶が心配することは火を見るよりも明らかである。―いや、もしかすると深花耶ならば―そう考えたところで、

「つぐみ様、いらっしゃいますか?」

 沢野の声によって思考は中断された。つぐみは慌てて返事をすると、沢野は「就寝用の布団を持って来た」と言った。つぐみが襖を開けると、布団と枕、毛布が一式揃った寝具を抱えて部屋に入って来た。

「日帰りなので必要無いかと思っていましたけど、葉子様が『用意は過ぎるに越したことは無い』とおっしゃっていたので…まさかこんな事態でお泊りになるとはまったく想定していなくて、私もまだ混乱しておりますけれど…」

 最後の方は疲れ切ったように沢野は言った。

「そうだったんですか…。私もまだ、信じられません。数時間前に会って話していた人が突然亡くなるなんて…」

 つぐみも思わず今の心情を吐露した。沢野は小さく何度も頷く。

「ええ、もう…藍様と茜様はもちろん、他の烏丸家の方々の胸中を考えると…ああすみません、お布団、先に敷かせていただきますね」

 沢野は少し涙ぐむと、テーブルの傍にある空いたスペースに布団を敷き始める。煎餅布団ではなく、布地も真っ白で布団もふかふかである。布団も毛布も枕も、全て新品のようである。

「あの…撫子さんはどうですか? さっき仁志さんに運ばれていきましたけど…」

 とこを整える沢野につぐみは尋ねた。

「今は大広間で仁志様が介抱されていらっしゃいますよ。まだお目覚めにはなっていないそうです」

「そうですか…」

 部屋も暖まって来たのでつぐみはコートを脱いでコート掛けに戻した。沢野は布団を敷き終えたところであった。

「これでいつでもお休みになれますよ。お風呂に入りたいときはお申し付け下さいね」

 そこから沢野は少々間を置いて、

「…と言いましても、警察の方々がいらっしゃったらそんなお時間が取れるかどうか分かりませんけれど……」

「ありがとうございます。…警察はどのくらいでここに到着するか分かりますか?」

「葉子様のお話では、早くても一時間、と…。何せこの雪ですし、署からも遠いみたいですから」

「ああ、確かにそうですね…」

 署も当然市の中心部にあるので、影山村までは雪が無くとも時間がかかる。ここは、陸の孤島なのだ。

「それでは、私は失礼しますね」

 沢野は表情が硬いままそそくさと出て行った。つぐみは座り込み、溜め息を一つつく。

 藤子はどうして、どのように死んだのか。自殺なのか、まさか他殺なのか。最悪の事態が起こったのに、詳しいことが何一つわからないので余計に不気味である。ゴーというエアコンが温風を出す音だけがつぐみの耳に入り、つぐみ自身の物思いはそこで行き詰まる。ふと、複数の足音とカツン、という音が聞こえて来たので、耳を澄ます。

「…ほれ、今は休みなさい。茜、具合が悪くなったら言うんだよ」

 葉子がそう言った直後に、襖を勢いよく閉める音が聞こえて来た。話の内容から察するに、藍と茜を自室にまで連れて行き、休ませたということであろう。その直後に足音と杖が床を叩く音が交互にし、やがて遠ざかって行った。藍と茜は何とかあの場から動いたようである。そこでつぐみは、大広間で介抱されているという撫子が気になった。呆けていても嫌な考えしか浮かばないのなら、撫子の見舞いに行った方がまだ建設的であるかもしれない。エアコンの電源はそのままにして、つぐみは部屋を出た。

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