第4話

 成り行きでつぐみの滞在が延びたところで、沢野はつぐみの為に用意してくれた部屋を案内してくれることになった。

 大広間を出ると目の前には小さな庭を窓から臨むことが出来る。雪が積もっている上に暗くて庭の全貌は分からないが、雪の花を咲かせているようにも見える楓の木が植わっており、手水鉢に、小さな石灯籠もあるのが分かった。いずれも新しい物である。昼間や、石灯籠に明かりを灯していれば、雪の無い夜間はきっと風光明媚な光景が見られるのだろう、と明るい内にしっかりと眺められなかったことを少し後悔した。

 庭を横目で見つつ、沢野の後について冷えた廊下を歩いていると、襖が壁を隔てて並んでいる場所へ来た。その通路の真ん中で沢野は足を止める。目の前には古い木戸があった。

「こちらの反対側は葉子様や藤子様…烏丸家の皆様の私室となっております。藍様と茜様のお部屋は二階にありますけどね」

 沢野はそう言うと戸を開いた。目の前にやや急な勾配の階段が現れる。

「階段がこんな所に隠されていたんですね」

 からくり屋敷みたいだ、とつぐみは思った。

「ええ、昔の二階建ての家はこうして階段を隠していたんですよ。では、上がりましょうか。急なので気を付けてくださいね」

 沢野と一緒に階段を上り切ると、二階には六部屋あることが分かった。各部屋の入り口は一階と同様に襖になっており、全て異なった絵柄である。沢野はその中でも階段から一番遠い、二階の奥にある部屋に案内する。襖は五色を使った美しい蝶が描かれたものであった。

「真向いは藍様、そのお隣が茜様のお部屋なんですよ。さあ、どうぞ」

 襖が開かれ、つぐみは部屋に入った。室内もやはり和室であり、畳の上にテーブルと座布団、カーテンが閉められた窓に押入れ、コート掛けとエアコンしかなかった。大きさは大体八畳ほどである。

「酷く殺風景でしょう? すみません。かなり長い間使われていなかったものですから、不要なものは全て処分したのでこのような感じに。ああでも、ご不快な思いをなされぬよう、念には念を入れてお掃除致しましたので、エアコンはすぐに使えますし、畳の上に寝転がっても大丈夫ですよ」

「いえ、わざわざお部屋まで用意していただいて、こちらこそ申し訳ありません」

 つぐみがそう言うと、沢野は小さく首を横に振る。

「いいえ、お気になさらず。私はこの家の使用人として当然のことをしただけですから。それでは、私は御食事の後片付けがありますので失礼致します。どうぞ、ごゆっくり」

「はい、ありがとうございます」

 沢野は静かに襖を閉め、部屋から出て行った。一人になった途端につぐみは肉体的にも精神的にも弛緩する。

藍や撫子、仁志のお陰で大分烏丸家の空気には馴染んできたが、何せ他人同然の、しかも格式高い総本家に居るとなれば緊張は完全に解けるわけではない。一人だけの空間を与えられたことは非常に有り難かった。

 エアコンがしっかり効いており、部屋は暖かい。沢野が予め入れておいてくれたのだろう。部屋がやや黴臭いが気にする程度ではなく、文句が言える立場でもない。コートもコート掛けに皺一つ無く掛かっており、鞄はテーブルの近くに置かれていた。つぐみは座り、鞄の中から携帯を取り出す。案の定、母と友人の深花耶からメールが来ていた。

だが、電波を見てみるとここは圏外になっている。メールを返すどころか通話も出来ない。いくら辺鄙な所とはいえ、携帯の電波が届いていないのは驚きであった。藍や茜などは携帯をどうしているのだろうか、などと思いつつ来たメールを開いてみる。

母は無事沖縄に到着し、つぐみの身体を案じる内容を、深花耶は『いつでも自分の家に泊まりに来ると良い』という内容であった。返信できないのはもどかしいが、仕方がない。暇を潰せるものは持って来ていないので、つぐみはただぼうっとするより他になかった。

内装を観察してみると、壁は漆喰ではなく木板であり、比較的新しいことが分かる。改装途中なのか元々このような造りなのかは分からないが、和洋折衷にしては中途半端な所がある気がした。そこでふと、先程の会食やその前に飲んだお茶などで水分を摂り過ぎた為にご不浄に行きたくなったので、つぐみは立ち上がった。


 トイレは男女別になっており、個室が三部屋あった。全て洋式トイレである。トイレ全体が改装されたばかりだということは一目見て分かった。つい先程の〝改装の途中〟という考えは意外にも当たっているかもしれなかった。つぐみは懇ろに手を洗うと、洗面台に取り付けられているジェットタオルの温風で乾かす。ジェットタオルなど、商業施設でしか見たことがなく、一般家庭にあるのには肝を抜かされた。

 トイレを出てからつぐみは、藤子が指定した時刻までどうしようかと考える。あのまま部屋に戻れば落ち着くことは出来るが、所在ないまま過ごすことにもなるだろう。仁志と撫子の元に行こうかとも考えたが、同じ場に藤子がいたらと思うと乗り気が萎えた。ならばどうするか―と僅かな間思考を巡らせた後、この屋敷を探検してみることにした。



 屋敷の中でも冬の寒気は容赦なく足元から這い登って来る。トイレは玄関に近い場所にあり、少し離れた隣には(こっそり覗いた)浴室に続く白い木の扉が、その向かいには何の造作もない木戸がある。他の部屋は、階段の前と浴室の扉とを除いて全て襖であるのに対して、ここだけは入り口が木の引き戸である。中がどうなっているのか気になったものの、今日来たばかりの家の中を無分別に覗くのもどうかと思い、止めておくことにした。そのトイレと木戸のある廊下の先には、梅の絵柄の襖がある。襖が四枚分あるということは大広間よりもやや小さい規模の部屋である。しかし、何の部屋かはやはり分からなかった。

 それからは廊下を歩く。ここは来たときに撫子と通った。その廊下を進むと突き当りに出る。突き当りには大広間、その左隣から仏間、居間であることは分かっている。一番左端の蔦が描かれた襖は何の部屋かは分からなかった。つぐみは最初に居間に通され、その後の法要、会食と右に移動したのであった。

右端には暖簾が掛かっている入り口がある。そしてその入り口の傍にも襖があった。つぐみはそっと暖簾に近付いてみる。その向こうには人の気配と、水音、カチャカチャという音が聞こえて来た。その音でここが台所であることが分かった。きっと今は沢野が食器を洗っているのだろう。台所から離れると、階段のある方向に向かった。

 居間に差し掛かると、昼間は点けられていなかったテレビの音声に混じって話し声が聞こえて来た。声の主は撫子と仁志である。何やら話してはいるが、内容はよく聞き取れない。だが、とても楽しいことを話している声色ではなかった。そんなときに部外者である自分が割り込んで来ても迷惑だろうと思い、居間に入るのはやはり止めておいた。

 居間を少しだけ過ぎると、先程見た庭が現れる。すると、外は雪が降っていた。牡丹雪が庭のありとあらゆる物に降り積もり、夜闇の中では雪の白さが際立って見えた。それにしても明かりを点けない灯籠とは、一体何の為に存在するのか。否、もしかしたらこの灯籠にそんな用途は無いのかもしれない。しかしながら、広々とした屋敷に最新設備のトイレもそうだが、屋敷の外には恐らくここよりも広大な外庭があるというのもつぐみには羨ましかった。

 つぐみの家は賃貸マンションであり、当然庭などには縁が無かった。昔から庭のある一戸建てに住む友人たちの家に遊びに行ったときは、酷く羨ましく思ったものである。

――そんなことを思い出して少し懐かしい気持ちになったあと、屋敷探索を再開することにした。

 庭を通過すればすぐに曲がり角になっており、その角を曲がると階段が隠されている扉がある。そしてその曲がり角の先はついさっき歩いた廊下よりも幅が狭くなっており、突き当りは壁で行き止まりである。階段がある廊下はついさっきも見たように、壁を隔てて襖が等間隔に並んでいる。そして沢野が説明してくれたように、その襖は烏丸家の私室の入り口である。

 ―母さん、それは一体どういうこと?―

 不意に藍の声が聞こえて来た。

その声の調子から、何やら深刻な話をしているようである。つぐみは気になってしまい、もっと近くで聞いてみようと、足音を立てないようにそろりと歩き、息を潜める。声は藤の花が描かれている襖の奥から聞こえて来た。つぐみは耳を澄ませる。

『良いですか。あなたは私の跡を継ぐ烏丸家当主の身なのです。そのことを肝に銘じて、私がこのあと皆に伝えることも落ち着いて受け止めなさい』

張りのある声の中にもどこか、娘に対する優しさが感じられる声で藤子は言った。

『だから! そのことをあたしに今教えてよ!』

『落ち着きなさい。私が午後十時に指定したのは意味があるからです。私が全てを打ち明けたあと、この家の忌まわしい記憶は消えるのです。…その後は私とあなた、茜の三人だけで幸せに、この屋敷で暮らしましょう』

『分かんないよ…お母さんの言っていること…』

 ―藍は母の言葉にただただ当惑しているようである。もちろん聞き耳を立てているつぐみも、話の意図がまったく見えなかった。

『母さん、ところでその話、茜には…』

『もちろん話します。このあとに茜も呼んでいるわ。あなたはそろそろ戻りなさい』

 二人の会話が終わりそうであったので、つぐみは慌てて半ば摺り足のように襖から離れた。すると、曲がり角から人が現れる。―眼鏡を掛けた青年―藍の紹介では確か、翔太郎という名であった。驚きでつぐみの鼓動は一瞬大きくなる。翔太郎は間近で見ると白い、というよりは青白く、そのくせ体の線は細いので不健康に見える。眼鏡の奥にある目は、やはり撫子や藤子に似ていた。そして翔太郎は〝なぜここにいるのか〟と言いたげな視線をつぐみに投げる。つぐみは言葉に窮し、

「こ…こんばんは」

 と咄嗟に出たのがこの言葉であった。

「…こんばんは」

低い声で翔太郎は返すとそのままつぐみの目の前を通り過ぎ、突き当りに一番近い部屋にある襖を開けて中に入って行った。恐らく、あれが翔太郎の私室なのだろう。

「あら、つぐみ様」

 つぐみはまたもやどきりとする。さっと体を反転させると、そこには急須に湯呑みと茶菓子が載った盆を持った沢野が立っていた。今は私服の上に割烹着を着ている。

「どうされましたか? 何か不都合なことでも?」

「あ、いいえ…その、ここは広いお屋敷なのでちょっと探検してみたいなーと思いまして。あ、お部屋の中には入っていませんよ」

「そうですねえ、この屋敷は出入り口が全て襖ですから、一体どこが共有スペースでどこが私室なのか分かりませんからねえ。そうそう、この後つぐみ様のお部屋にもお茶を持って行こうと思っていましたのよ」

「あ、これから部屋に戻るので大丈夫です」

「分かりました。少々お待ち下さいね」

 沢野は笑顔で早口に言うと、通り過ぎて行った。その姿を目で追うと、茶は藤子の部屋に運ばれていくのが分かった。つぐみは自分で言った手前、部屋に戻らないわけにもいかなくなり階段を上った。それにしても、先程の沢野の笑顔は最初に見たときよりも若干違ったように見えた。今の沢野には何故か焦りと、翔太郎ほどではないが顔の色が若干青白くなっているような、そんな気がしたのである。そんなことを考えながら上っていると、慣れない急勾配の階段で滑りかけ、ヒヤリとしたのであった。



 部屋に戻って暫く待っていると、沢野が茶と菓子を持ってやって来た。

「はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

「他に何か必要な物がございましたら、また言って下さいね」

 つぐみは再度礼を言うと、沢野は笑顔のまま部屋を出て行った。 茶の他には個包装の煎餅が茶菓子として載っていた。だが、豪華な食事をたらふく食べたばかりなので、今は置いておいて茶だけを頂くことにした。

 それにしても、藤子が会食の場で集合を掛けてからというもの、烏丸家の者たちはどこか雰囲気が変わったような気がする。といっても、声色やちょっとした表情だけで判断したのだが、何かどこか不安そうなものがあったのである。そして何より、先程の藍と藤子の会話も気になる。わざわざ時刻を午後十時ちょうどに指定したのは何故なのか。三人で幸せに暮らすとはどういう意味なのか。部外者で、分家の人間であるつぐみにも集合を掛けたのも気になる。

とにかく、藤子の発表が烏丸家の人々にとってはショッキングで重大なことであり、あまり喜ばしくないということは解った気がする。

つぐみはそこまで考え、結局藤子本人の口から何も聞かないことには推測も何も無いと思い、思考を放棄した。後はぼうっとしながら、湯呑みに入っている茶を少しずつ飲んでいるだけで何もしなかった。

 部屋には時計が無かったので、携帯のディスプレイに表示されている時計を見る。時刻は午後九時五十分。ちょうど十分前なので、今から大広間に向かうことにした。エアコンと電灯のスイッチを切り、階段を下りた。


                ◆


 大広間に入ると、テーブルは片付けられており座布団だけが並べられている。大広間には既に撫子と仁志、翔太郎が座っていた。皆黒いフォーマルから私服に着替えている。撫子は長い髪を下ろしているので余計に若々しく見えた。場はしんとしており、誰も口を開こうとはしない。つぐみはそっと下座にある座布団に座った。気が付けば、つぐみも含めて全員が会食の時に座った場所と同じ場所に腰を下ろしていた。

 それから間もなくして藍と茜、沢野、最後に葉子が入って来た。やはり後から来た面子も私服に着替えている。つぐみだけ制服のままなので、この家の部外者であることが更に際立っている。つぐみはさりげなくこの場にいる者たちの顔を見回した。

葉子と翔太郎は表情が無い。沢野は先程と変わらず顔色が良くない。藍、茜そして撫子は不安、というよりはどこか藤子のこの号令にモヤモヤとしている感じである。仁志に至っては、藤子の発言の意図が分からずにただ戸惑っている様子であった。つぐみ自身、自分も他の者から見れば仁志と同じような表情や雰囲気を出しているのだろう、と客観的に推測してみた。

 じっとしたまま座っていると、微かにウー、というサイレンが聞こえて来た。時計を見ると午後十時ちょうどである。あのサイレンの音は時報である。いよいよ藤子が来る、と思いつぐみは自然と緊張し、身構えた。――しかし、五分経っても藤子は現れない。そして更に待つこと五分。一向に藤子が現れる気配は無かった。大広間にも〝藤子は一体何をしているのだ〟と誰もが言いたげな空気になる。

痺れを切らしてその空気を破ったのは、葉子であった。

「おかしいいね、あの子が自分で呼び出しておいて遅れるなんて…。撫子、悪いけどあんた様子を見て来てくれないかい?」

「葉子様、それなら私が」

「いいのよ、沢野さん。では、ちょっと様子を見てきます」

 沢野が立ち上がろうとするのを撫子は言葉で制した。撫子は楚々とした動作で大広間を出た。

 つぐみは少しだけ緊張が解けた。それにしても藤子自身、確か藍に対して〝意味のある時刻〟であると言っていた筈なのに遅刻をするとは、藤子らしくない気がした。正確には、藤子のことは自分を煙たがっていることしか分からないのだが、藤子は遅刻など許さない人間のように思えた。葉子の顔を見てみると、眉間に皺が寄り、険しい表情をしている。怒っているのだろうか――

「きゃあああああ!!」

 外から撫子の絹を裂くような悲鳴が大広間にまでビリビリと伝わって来た。その場にいた、足の悪い葉子を除いた全員が反射的に立ち上がり、乱暴に襖を開けると廊下へ駆け出す。つぐみは下座にいた都合上、皆の後ろをついて行く形になった。



 先頭を走っていた階段の隠し扉がある廊下に出ると、藤の花が描かれた襖が開いていることに気が付く。中へ飛び込むように入ると、そこにはへたり込んで座っている撫子と――喪服姿のまま横たわった藤子がいた。藤子の口は開きっぱなしのまま口元に唾液を垂らしており、目は半開きで光が無かった。

「な、な、な」

 仁志は衝撃の余り一音だけを繰り返している。つぐみはちょうどそこで皆に追い付いた。一体何が起きているのか。つぐみは状況が上手く飲み込めず、視覚を通しての情報が咀嚼できない。翔太郎は部屋に入ると、魂が抜けたように座っている撫子の反対側に回って素早く藤子の手首を取る。そして、自分の指を当てると、ゆっくりと頭(かぶり)を振った。

「…もう、死んでる…」

 ただ一言だけそう言った直後に、

「いやあああああーっ!!」

 藍の涙混じりの絶叫が響いた。茜はつられたように床にへたり込むと、ぼそぼそと一人何かを呟き、やがて静かに涙を流し始めた。撫子はそのまま気絶し、仁志が慌てて抱きかかえた。沢野は両手を口に当てて絶句している。

 カツン、カツンという音がつぐみの真後ろにまで近付くと、止まった。つぐみはゆっくりと振り向くと、そこにはなお、威厳を崩していない葉子が立っていた。

「…藤子は、死んだのかい」

 葉子は静かにつぐみに尋ねる。

「…はい」

 つぐみは何とかその一言を振り絞って口に出した。葉子はそこで俯き加減になると、下唇を強く噛んだ。

 ――十二年前、烏丸家の人間が死んだ。そして同じ日に、また烏丸家の人間が一人、死んだ。

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