第2話
「うわっ!」
下車した途端に、刺すような寒気がつぐみの全身を覆い、深い雪がレインブーツの足首部分まで埋めた。四方は山でほぼ囲まれており、その色彩は白と黒のモノクロである。地面はといえば、道路の外は田んぼであることは分かるが、どこからが道路でどこまでが田んぼなのかもよく分からない。静けさの中に混じって、微かに水が流れる音がする。きっと近くに用水路があるのだろう、とつぐみは思った。
今は幸いにも雪が止んでおり、さっさと烏丸家に向かうことにした。一歩一歩踏み出す度にぎゅっぎゅっ、という雪を踏みしめる音が鳴る。道には人の足跡も車の轍も一本ほどしかなく、何もない雪の上を歩いているのに等しい。民家の一軒ぐらいあっても良いと思うのだが、一向に見つかる気配が無い。精々納屋がある程度である。本当に何も無い、白一色である。逆に言えばこの場所こそが教科書か何かで見た〝無可有郷〟であり、残された日本の原風景なのかもしれない。
桂子に事前に聞いた情報では『烏丸家の屋敷は村で一番大きいからすぐに分かる』と、大変アバウトなものであった。一体どこからが大きい家なのだろう、と今になって母の判断基準が分からないことにつぐみは気が付いてしまった。とにかく、バス停から真っ直ぐ歩くようにも言われたのでその通りにする。
しょうもないことを延々と考えながら歩いていると、やがて山の斜面に沿ってぽつぽつと民家が見え始めて来る。途中で大きな川と石橋があり、そこを通過すると何やら遠目に、屋敷林に囲まれた家があるのが分かる。直感で、あそこが烏丸家の家であることが分かった。母の言っていたことはあながち間違っていなかったわけである。つぐみは屋敷を目指して歩みを少しばかり速めた。
雪の上からではよく分からないが、砂利ではなくしっかりと舗装された細い道に入ると、そこはもう屋敷の敷地内である。
立派な屋根付きの門が雪を被って聳え立っており、表札を見ると〝烏丸〟の文字があった。無事に烏丸家に到着できたことにホッとし、インターホンを鳴らす。
〈はい、どちら様でしょうか〉
女の声がスピーカーから聞こえて来た。
「あ、あの、この度はこちら様の十三回忌法要に参列させていただくことになりました、黒羽つぐみと申します」
自分で言っていてどこか変な言葉遣いだとは思いつつも、それを直すにはもう遅かった。
〈まあ、よくいらっしゃいました。今お出迎えいたしますので、少々お待ちください〉
それからややあって、遠くから戸を引く音が聞こえて来たかと思うと、雪を急いで踏む独特の足音が近付いてくる。門から出て来たのは、短い髪にパーマをかけ、喪服の上に割烹着を着た女である。齢は四十代後半から五十代前半に見えた。
「まあまあ、こんな雪の中遠い所からよくいらっしゃいました。私はこの烏丸家の使用人をしております沢野、と申します。よろしくお願いいたしますねえ」
沢野と名乗った女は、愛想の良い笑みを浮かべる。
「いえ、こちらこそ。もしかしたらお邪魔ではないかと…あっ、あとこれつまらないものですけど…」
つぐみは桂子に持たされた手土産を渡しながら顔色を窺う。沢野は頭を下げて礼を言う。
「お邪魔だなんてとんでもない! この家の御当主様でいらっしゃる葉子様は、つぐみ様がいらっしゃるのを喜んでいらっしゃいましたよ。さ、ここは寒いので中に入りましょう」
沢野はそう言うと、先導するように門をくぐる。つぐみも後から続いた。〝葉子様〟ということは、ハガキの送り主である葉子は女性にしてこの家の当主であることを今知り、内心驚いた。当主というのはてっきり男性がなるものと思っていたが、この家はそうではないらしい。門を通ると烏丸家の屋敷に入ることになる。いよいよつぐみは緊張してきた。
屋敷の玄関までには雪が積もった巨岩や、雪囲いがされているツツジなどの低木、立派な松の木などが植わっていた。
烏丸家の家屋の外観は田舎ではよく見る旧家の屋敷そのものであり、寄棟造りで木造二階建てである。ただ、今までつぐみが見て来た観光地を除いた人家の中では一番大きい。
窓の数だけを見ても、部屋数が多いことが分かる。玄関は凍結防止用のガラス戸の囲いがあり、その奥に入口の戸がある。入口には、黒地に白抜きの烏丸家の家紋が描かれた玄関幕が下がっていた。
ざっと外観を見回している内に、沢野は入り口を開けてつぐみもそれに続いて中に入っていた。すると、つぐみたちの物音を聞き付けたらしき家人の女が、幅の広い廊下の曲がり角から姿を見せた。その女を見て、つぐみは思わず固まってしまう。
「あら、随分と可愛らしいお客様がいらしたのね。ようこそいらっしゃいました」
―柔らかで透き通った声である。黒地に家紋が胸にあるだけの着物は、女の白い肌をより白く見せていた。女は着物と同じくらい黒い髪を後ろで一纏めにし、整った曲線を描く眉に筋が通った鼻、紅の乗った艶のある唇、そして程良い大きさの瞳―
こんな美女はつぐみが生きてきた中で初めて見る。まるでガラス細工のような繊細さがあった。そして、同性であるにも拘らずその美貌に思わず見惚れてしまった。その美女は冷たい床に正座をして頭を垂れるので、つぐみは慌てて自分も深く頭を下げる。
「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます!」
しどろもどろになっているつぐみを見た美女は、口に手を当てて笑った。
「
「まあ、そうなの。雪の中、しかもこんな田舎まで大変だったでしょう? さ、上がって下さいな」
「は、はい! お邪魔します」
つぐみは傘を傘立てに入れ、マフラーとコートを急いで脱ぐと、レインブーツを揃えて框に上がった。
玄関から既に広々とした空間である。外観とは違い床はフローリングになっており、そのまま姿見に出来そうな程に磨かれている。大きな青磁の壺や白い花ばかりを集めて活けてある花瓶が置かれてはいるが、それでもスペースが有り余っている。一方、壁は黄色味を帯びた漆喰壁であり、古民家に馴染んでいた。
「お荷物、お預かりしますね」
沢野がそう言って手を伸ばして来たので、鞄も含めた荷物をやや躊躇いがちに渡した。
「じゃあ、皆の元へは私が案内するから、沢野さんはつぐみちゃんの荷物を置いて来てくれる?」
「はい。ではつぐみ様、お荷物は一旦、二階にご用意してあるお部屋に置いておきますね。お荷物が必要になりましたら、すぐにお申し付けください」
「はい、お願いします」
つぐみは想像以上の丁寧な待遇に戸惑いつつもそう答える。沢野は早足で先に廊下を歩いて行った。
「では、私たちも行きましょうか」
「は、はい」
美女こと撫子に笑いかけられ、つぐみはドキリとする。名の通りの大和撫子は、ピンと伸びた背をつぐみに向けて歩き始めた。つぐみもその後に付いて行く。
廊下は幅広く長い。壁には水彩画や書画が飾られており、廊下を賑わせている。途中、木の戸を見たが、何の部屋なのかはつぐみには想像もつかない。桔梗が描かれた襖の前で撫子は止まり、そっと引いた。この中に、烏丸家の面々がいるのかと思うと、つぐみの緊張はピークに達した。
「皆さん、お客様がいらっしゃいましたよ」
撫子がそう言って部屋に入ったので、つぐみもそうする。和室に居る年齢がバラバラな黒ずくめの男女が一斉につぐみに注目した。つぐみは鼻白むが、挨拶をしないわけにはいかなかった。
「あの、初めまして黒羽つぐみと申します。よろしくお願いします」
少々声が上ずったような気がしながらつぐみは頭を下げた。顔を上げて、どんな反応が返って来るかと待つと、一瞬間が空いた後に、
「あ、同じ歳ぐらいの子だ! よろしくね!」
「ああ、こちらこそよろしく」
と、二名だけの声しか返って来なかった。前者はポニーテールにセーラー服姿の活発そうな少女。後者はどうにも印象の薄い、気の弱そうな齢30代くらいの男であった。
この部屋には撫子とつぐみを除いて六人いるが、返事をしてくれたのはたったの二名である。木で鼻をくくった対応に、早速自分が場違いであり、分家で遠戚の人間という立場を思い知らされた。
「ごめんなさいね、皆人見知りなのよ」
撫子は耳元でそうフォローしてくれた。
だが、絶対そうじゃない、とつぐみは心の中で否定した。つぐみは気まずい気持ちのまま、撫子に案内された座布団の上に座る。
「あたしは
「う、うん…こちらこそ…」
改めて挨拶を交わした。隣で間近に見ると、藍も撫子に似てやはり美しい。はっきりとして整った目鼻立ちに外にある雪のような白い肌。ポニーテールに結っている髪は絹のようにサラサラである。ただ、撫子が深窓の令嬢といった雰囲気に対し、藍はお転婆なお嬢様、といった感じである。
「あっ、こっちはあたしの妹の茜。ほら、挨拶しなよ」
「う…初めまして…」
藍を挟んで座っている妹の茜はおずおずと言った。ボブの髪型に紺のカチューシャを着けている。茜の方が撫子に雰囲気は似ているが、撫子や藍のように堂々としたものが無く、つぐみに対して怯えているように見えた。つぐみは何とか茜に馴染んでもらおうと、笑顔を何とか作って「こんにちは」と挨拶をした。すると、茜はすぐにつぐみから目を逸らして俯いてしまった。つぐみと藍は互いに苦笑する。
「ごめんね、茜は凄く人見知りで…その上病弱で昔からあんまり外に出たことが無いのよ。学校も休みがちだから中々友達も出来ないし」
「そっか、それなら仕方がないよ。藍ちゃんはいくつ?」
「16だよ」
「あ、じゃあ同い年だね! 高校はどこ? 私は月島高校だけど…」
「月島は制服が可愛いよね。あー、あたしもブレザー着てみたーい。あたしと茜は
「桜英大付属って…凄いね…」
桜英大学付属学園は小学校から大学までの一貫校であり、金のある人間しか入れないことで地元では有名である。使用人に広い屋敷と来て金満家。その上、女性は美人、どれか一つでも、せめて美人の血くらいは引き継いでくれても良かったのに、とつぐみは考えられずにはいられなかった。
「茜は14歳。中等部はスカーフが赤で、高等部は白なんだ」
「へえー」
つぐみが相槌を打ったところで、襖が開いて一人の女が入って来た。つぐみは女の顔を見る。女も、つぐみに目を合わせた。
「あら…見ない方がいらっしゃるわね」
女はつぐみを頭の天辺から膝小僧まで、どこか値踏みするような目つきで見た。
「あの、本日の法要に参列させていただく黒羽つぐみと申します。よろしくお願いします」
つぐみは座ったまま先程よりも深く、より丁寧に頭を垂れた。というのも女の視線が怖く、蛇に睨まれた蛙のようになってしまったからである。
「そう、ひと月ほど前に連絡があった分家の方ね。…ふうん」
女は一人で合点したように言った後、床の間、つまりは上座に近い所にある座布団に座った。
「…ごめんね、なんか無愛想で。あれ、あたしたちのお母さんなの。名前は藤子」
藍は小声でつぐみに言った。驚きの声を上げてしまいそうになるのを何とか飲み込んだ。藤子は確かに、藍にも茜にも、そして撫子にも似ている。家紋が入った撫子と同じ喪服の着物に身を包み、黒髪をシニョンにしている。だが、明らかにその三人とは異なり、つぐみを〝分家の人間〟として見下し、冷たい空気を纏っていた。御多分に漏れず美しい顔立ちだが、その目付きは鋭く、化粧でも隠し切れない皺があり、威圧感を増加させている。
「皆様、お茶をお持ちいたしました」
そこへ沢野が入って来る。一人一人の前に緑茶と、薄紅色の牡丹の形をした美しい細工和菓子が置かれる。冷えた体にちょうど良い、とつぐみはすぐに湯呑みを手に取った。じんわりと手が温められていくのが分かる。
「そうだ、ここにいる人…って言っても全員身内だけど紹介するね」
つぐみが茶を一口飲んだところで、藍がそう言って来た。名前くらいは知っておきたいので、つぐみは頷く。
「さっき会ったから分かるかもしれないけど、お母さんの隣が撫子叔母さん。お母さんの妹なんだよ」
つぐみはまた声を上げそうになってしまう。姉妹と言われれば確かにそう思えるが、何分つぐみの中での二人の印象は正反対である。藍はつぐみの驚いた様子に気付くことなく続ける。
「叔母さんの隣にいるのが撫子さんの旦那さんで、お婿さんの
今度は先程つぐみに挨拶をしてくれた男を紹介した。別段不細工でもないが、かといって美男子でもない。よくいる顔であり、撫子と釣り合ってはいない。だが、その表情は穏やかで、つぐみにも挨拶をしてくれたことから悪い人間には見えなかった。
「…あれ? お婿さん?」
つぐみは藍の発言に小首を傾げた。
「うん。仁志おじさんはうちに婿入りしたの。うちはね、代々女の人が当主になってるんだ。生まれてくる子供にも女の子が多い〝女系家族〟ってやつみたいでさ。その影響で女の人の力が強いみたい。今の当主もあたしのおばあちゃんなんだよ」
「なるほど…」
やはり当主は女性だったのだ、とつぐみは納得した。もう一度撫子と仁志を見てみると、二人は控えめな声量で和やかに談笑している。夫婦仲は悪くないらしい。
「それで、仁志さんの隣に座っているのが翔太郎叔父さん。母さんや撫子叔母さんの弟さん」
藍の紹介した翔太郎に目を向ける。銀縁の眼鏡を掛けた痩躯の青年で、血筋のせいなのか顔立ちは多少整っているようにも見える。だがそれ以上に、陰鬱とした雰囲気が強くあった。翔太郎は周りに一切関心を示さず、ただひたすら手元にあるブックカバーのかかった分厚い文庫本を読み耽っている。茜は人見知りだが、こちらは人と関わりたくない方であるらしい。
「翔兄ちゃんはね、桜英大の薬学部で漢方の…そうだ、生薬を研究してるんだって」
「頭が良いんだね」
「うん。本当はこの家に居てくれたら勉強教えて貰えるのに、って思ってるんだけど、今は大学の近くで一人暮らししてるから。…ここだけの話、翔兄ちゃんとお母さん、あんまり仲良くないんだよね…。だから、大学に入ってからすぐこの家を出ちゃったんだ。昔はよく一緒に遊んでくれたんだけど…」
藍は、最後の方はつぐみにしか聞こえない大きさで呟くように言った。あの藤子と翔太郎の仲の悪さは、つぐみにも容易に想像出来た。
「そしてさっきも会ったと思うけど、家政婦の沢野さん。家のことは全部沢野さんがやってくれるんだよ。車であたしたちの学校まで送迎もしてくれるし…沢野さんがいないとこの家、すぐゴミ屋敷になっちゃうね」
藍は小さく笑った。日頃家事の手伝いを母にやらされているつぐみにとっては、是非うちにも来て欲しいものだ、と羨ましくなった。
「最後はその当主のおばあちゃんだけど…今は多分部屋にいると思うよ。足の都合が悪くて杖はついているけど、病気一つせずに元気なんだ。あたしと茜にも、時々厳しいけど基本は優しいし」
藍の烏丸家の紹介が終わったところで、つぐみは藍と茜の父親がいないことに気が付いた。しかし、今どき母子家庭、父子家庭は変わったものでもなく、つぐみの家もある意味では母子家庭でもあるのでさして気にすることもなかった。菓子に手を付け、二口ほど茶を啜っていると、インターホンの音が聞こえて来た。そこへ藤子がすっと立ち上がり、部屋を出た。
間もなくして藤子と入れ替わるように沢野が襖を開ける。
「皆様、住職様がいらっしゃったので、仏間へお越しください」
沢野の言葉に従うように皆は各々立ち上がった。つぐみは急いで茶を飲み、立ち上がると足が少し痺れていることに気が付いた。そのときに壁に掛かっている時計に目を遣ると、時刻は午後16時を回っていた。
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