第10話 空

 すさまじい倦怠感の中、目を覚ます。

 ……腹が減った。

 時計を見ると、5時23分。始業時間まで3時間37分。会社までの道のりは約1時間。いつもなら家を出るまで約2時間30分。

 しかし、出るつもりはない。


 何のために腹のたつ上司や気に食わない同僚と一緒にいるのか。答えは金しかない。それ以外の目的が見つけることができるような仕事なら神なんか恨んじゃいない。

 その唯一の目的が否定された。会社に行く意味なんてまるでない。

 何をしようか。何の気力もわかない。だが、重たい体を起こして、水を飲みに蛇口のところに行く。水が胃の形に広がる。

 ……冷たい。この上もなく冷たい。

 食べ物。なんかあったっけな。何もないことが分かっている冷蔵庫を開ける。やっぱ、なんもない。無意味と分かっていてもやってしまう。


 ……そっか、クレジットカード。これなら大丈夫なはず。財布を見る。……クレジットカードは無事だ。店のポイントカードと一体になっている。

 限度額は30万円あったはず。とりあえず、これで1か月は大丈夫なはず。

 適当な服に着替えて、コンビニに行く。パンを見繕って、レジに行き、クレカを出す。店員がカードを受け取り、カードを読み取る。

 ピーッ!という無機質な音が響く。

 「……お客様、これ、使えませんよ。」


 嘘だろ? 心臓がなる。嫌な汗が出る。喉が熱い。

 「すみません。ちょっと戻してきます」

 言葉をしぼり出す。店員が怪訝な顔をする。

 おそらく、クレジットカードが使えなかったこととこのくらいなら現金で払えよとでも思ったのだろう。

 コンビニを出て、スマホを操作する。

 クレジットカードは限度額まで使われていたことになっている。ポイント残高は0。どこぞのノーベル賞受賞者が研究費が足りないからポイントでいいから欲しいって言ってたか。


 どうする?何の考えもない。重い体を引きずって家に帰る。とりあえず、もう一度水を飲む。

 「ここまでやるのかよ。ブラックを超えたダークバイトじゃないか」

 この状況はいつまで続くのだろう? グロリアの言葉からすれば短くとも2ヶ月は確定。長ければ……どこまでか全く検討もつかない。

 何もすることなく、時間だけが過ぎていく。スマホが振動する。一応、ディスプレイを見ると会社からだ。……もうそんな時間なのか。出る必要のない電話だ。振動が止まり、もう一度振動しだす。何回か繰り返されたが、そのうちに振動しなくなった。

 

 まぁ、そんなもんだ。来なくなったら、なんだと連絡するが、それ以上に気にすることもないだろう。

 天井を見上げて、布団に寝転ぶ。ただ、それだけしか、やれることがない。

 

 ……そうして、3日間、水だけで過ごした。

 さっきは、眠ってしまっていたらしい。どちらかというと、気を失っていたのかもしれない。とりあえず、まっとうな方法はできない。この3日間というものまっとうな方法を考えたが、どうしても考えつかなかった。会社からは毎日電話がかかっていたが、全部無視した。

 もう、仕方ないよな。盗んで見つからなければそれでよし。ミスって刑務所だろうが、飯が食えればそれでいい。

 意を決して立ち上がる。ふっ、と軽いめまいを覚える。……体を動かす体力と気力が残っているうちにやらないと。

 よく言えば、真面目。悪く言えば、犯罪をする度胸もなく、生きてきた俺だが、ことここに至っては生きるためだ。


 コンビニの前に立つ。後は入って、店員の死角を狙い、パンを盗ってくるだけだ。そう簡単。簡単なんだ。自分に言い聞かせて、中に入ろうとするが、足が進まない。おかしい。さっきから入ろうとしているのに、足が前に行かない。

 

 どうしてだ?

 

 決心はついている。怖じ気づいたわけではない。

 それなのにどうしても足が進んでくれない。傍から見たら、コンビニの前で立ちすくんでいる怪しい人間だ。もうすでに、道行く人から変な目で見られている気がする。くそっ。なんでだ。

 

 このコンビニはいつも使っているコンビニだからか? そこに迷惑をかけるのが嫌なのか? なら、違うコンビニに行こう。

 

 しかし、何軒行っても同じ事だった。

 コンビニの前までは行けるのに、そこからはどうしても足が前に出ない。何か、呪いにでもかかったような……


 !!


(まぁ、まだ神様って立場は終わってませんが)


 グロリアの言葉が浮かぶ。

 これ、入れないって……そういうことか? 神様ってのが終わってないってことか?


 まてよ、まてよ、まてよ。

 やばい、やばい、やばい。


 どこをどう走ったか分からない。なりふりかまっていられない。確認しなければ。

 

「グロリア! どういうことだ!! 早く姿を見せろ!」

 部屋に戻るなり、叫ぶ。

「あー。ハイハイ。まぁ、こうなりますよね。こうなった人間、何人か見てきてますけどね」


 グロリアが姿を現したことに、わずかに安堵する。この状態の謎がとければ、改善される余地は0ではないはずだ。


「言っておきますね。取り返しはつきません。次に、あなたが何をしようとしたかは分かっていますが、それはできません。神様って立場は終わってない。つまりはバイトは辞めることができてないし、できません。さて、ここで問題です。バイトは犯罪をしてしまうとどうなるでしょう?」


 なんだ? そのクイズ。そんな犯罪をしてしまうようなバイト、即クビ……えっ?


「そう。分かったようですね。辞めることができないっていうことはそういうことです。あなたは犯罪をすることすらできません。万引きは窃盗ですし、食い逃げは詐欺です」


 ……まってくれよ。ほんとにまってくれよ。

 なぁ、俺、そんなに悪いことしたか? それって俺に死ねってことだよね?


「自分の置かれている状況がやっと分かったようですね。でも、その表情、『俺、そんなに悪いことしたか?』って表情ですね。ほんとに分かってない人が多くて困ります。少しだけ、あなたのしたことを分かってもらいますか」


 そう言ってグロリアが俺に向かって手をかざす。


(ひどい……ひどいよ、神様)(なんで、俺らがこんな目に……)(こんな最期ってあんのかよ……)(苦しい、苦しい、苦しい)(やめて、どうして?)(お願い、お願いだから)(助けて、助けて)


 頭の中を怨みの声が駆け巡る。

 頭が割れるように痛い。


「ぐっ……!」

 胃液をはき出す。胃液以外に吐き出すものも残ってない。

 

「あなたの世界のほんの10数名ほどのあなたに対する怨みを聞いてもらいましたけど……いかがです?」


 答えようがない。身体に力が入らない。陸に揚げられたタコのように床に這いつくばる。


 くそっ! くそっ!! くそっ!!!

 そんなこと最初に一言も言ってないくせに俺が恨まれることをしたってか。恨まれたから自業自得ってか。

 ……じゃあ、俺はお前を恨んでやる。とことん恨んでやるぞ!!


「……ひどい目ですね。まぁ、仕方のないことかもしれませんけれども。じゃあ、今度こそ


 俺はグロリアの消えた場所をずっとずっとにらんでいた……

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