第12話 ハグの日
檬架side
「今日は8月9日、ハグの日です」
女性アナウンサーが朗らかに喋る朝のニュース。いつもは聞き流すようなそれをどうして今は気になってしまうのか。どう考えてもハグに反応してるけれど、決して欲求不満なわけではない。そう、決して、断じて、誓って。
「大好きな人とハグをして、好きを伝え合いましょう!」
にこやかにしている彼女には、そういう相手がいるのだろうか。というか、いない人間はどうしたらいいというのだ。
とはいえ。
俺には運良く、奇跡的に、偶然的に、恋人がいるので、まさにハグの日にうってつけの人間であることに間違いはないのだけれど。
「あいつがこういうイベントっぽいの知ってるわけないしなあ」
別に期待はしてない。最近付き合い始めた俺の恋人は、元々幼馴染で、親友で、甘い雰囲気になるには少し小っ恥ずかしいのだ。
だから関係ないはずなんだけど、気になってしまうのは。その恋人と、まだハグもしたことがないのが原因なんだと思う。
つまりそれ以上のこともまだなわけで。
そして付き合い始めて、もう1ヶ月を迎えてしまうわけで。
焦りを感じずにはいられないというわけ。
「ちょっと檬架にぃ、早くご飯食べちゃってよ。お皿洗えない」
「ごめんごめん」
妹に急かされながらトーストをかじり、コーヒーで流し込む。もうそろそろ奴も来るだろう。
「あ、嘉くんきた!」
予感は的中。玄関の扉が開く音がして、千冬が気づいた。
もちろん俺も気づいた。
家族でもない人間がインターホンも鳴らさずに家に入ってくるなんて、そんな人間、白咲家には1人しかいないからだ。俺の幼馴染であり親友。
「おはよう、千冬ちゃん。って檬架お前まだ朝ごはん食べてんの?早くしなよ」
「おはよう嘉くん」
「今食べ終わるから待ってて、あと目玉焼きだけだから」
「ったく…」
そして、恋人の羽澄嘉だけだった。
夏休みに数回ある登校日の今日は、蒸し暑く、蝉の声が耳に五月蝿い。登校日でなければ家から一歩も出ないであろうほどの暑さに、辟易としながら、駅から学校までの道を嘉と並んで歩く。
「毎朝毎朝、千冬ちゃんも忙しいんだから協力してあげないと」
「はいはい、優しーね嘉くんは」
「なーにいじけてんだよ」
「別に、いじけてなんかないしー」
「わけわかんねー」
あはは、と声をたてて笑う。幼馴染だから思うのは、昔より笑うようになったなーってこと。
中学の頃は色々あって暗かったから、良い変化だと思う。
「それよりさ、昨日の夜ナッシューから電話あってさ…」
新しい友達の話を聞くのも慣れた。中学までいつも一緒だったけれど、高校に入ってお互い別々の交友関係が広がって、最初は知らない奴の話なんて聞いても面白くなかったけれど、慣れは恐ろしい。
「もーまじ馬鹿だと思わない?」
「芽夢って頭はいいのにねぇ」
「そうなんだよな」
こうして他愛のない会話をしている俺たちは、側から見たらただの友達同士で、誰も付き合ってるだなんて思わないだろう。
俺ですらまだ実感が湧かない。
告白してきたのは嘉の方なのに、好きと言われたのは告白の一回きり。
あれは夢?俺にとって都合のいい夢だったの?
じゃあ今はただの現実?
「……檬架?どうした?」
「…………………え?」
「え?じゃなくて。さっきからぼーっとしてるけど大丈夫?暑さにやられた?」
「あー…………まだ目が覚めてないのかな」
これが夢か現実かなんてどうでもいい。
考えても無駄だ。なるようになるさ。
うん。……そうだよ。
「檬架ちゃーん!おはよ!久しぶり!のハグーーッッ」
「うわっ」
教室に入るなり抱きついてきたのは同じクラスの友人、早乙女八千男。
スキンシップが激しくて、唯一俺のことをちゃん付けで呼ぶちょっと変わったやつ。
小さい体でコロコロと表情を変えて話すから見てて面白い。
「暑い。離れて」
「え〜〜檬架ちゃん冷たーーい!夏休みで全然会えなかったのに〜!そ、れ、に!今日はハグの日だからハグしなきゃなんだよ〜?」
「八千男はいつもしてるでしょ」
「うーん、そだっけ?」
あはっ、忘れちゃったと惚ける仕草は多分このクラスで1番の可愛さだろう。
「まあいいや!とりあえずこれで今日はみんなとハグしてきたし!」
パッと潔く体を離すと軽い動きで自分の席に戻り、スマホをいじりだす。
「みんなって…?」
「んー?んっとねー、秋ちゃんでしょー、三夏ちゃんとー、あとめぐむちゃんね」
指を折りながら数えた八千男の右手を見る。
なるほど、最近仲良くしてるやつらか。
「ってあれ?嘉はいいの?」
「……」
よくつるむ面子の中に名前が上がらないのに違和感を覚えてつい聞いてしまった。
すると八千男はじとーっとこちらを見つめたあと、すぐにニマニマと意地の悪い、でも可愛い顔で答えた。
「檬架ちゃんがいいなら今すぐにでもあつ〜〜いハグをしてきてもいいんだよ?」
だよ?の部分でコテっとあざとく首を傾げ上目遣いでこちらを覗き込む。このテクで一体どれだけの男が骨抜きにされてきたのか、考えただけでも恐ろしい。
「いいわけないでしょ」
「にゃはは、言うと思ったからしてないんだよ〜♪」
褒めて褒めてとばかりに笑顔を向けられ、仕方なくありがとうと頭を撫でる。満足気になった八千男にやれやれと心の中で溜息をつく。
本当に猫みたいだ。
「ねえ、今日ってハグの日なんだね」
学校から家までそれなりの距離があるので、俺と嘉は電車通学をしている。今はその駅から家までの帰り道。夏休みの登校日だったからか、制服姿の学生はうちの生徒くらいで、ほとんどがサラリーマンや旅行者ばかりだった。いつもより電車が混んでないから楽でいい。
と、ぼんやりと考えていた時のまさに不意打ちだった。
「え?あ、そう…なんだ?」
なぜか知らないふりをしてしまう俺。
いやいや、だってあまりに予想していない事態についていけない。
そんな色恋の話なんて今まで数えるほどしかしてこなかっただろ!
「みたい。なんか、朝突然ナッシューがおはようのハグだー!って抱きついてきたんだけど、見事に腹に頭がクリーンヒットきめて朝から散々だったよ」
お腹を抑えて痛がるジェスチャーをしながらこともなげに話す姿になぜかもやっとする。
いや友達同士だし。なんなら俺だって八千男にやられたし。何考えてんだ。
「なんとかの日って最近増えたよなー、今日がハグだから、明日はなんだろ、はとう…はじゅう…はど…」
「鳩?」
「鳩!あはは、鳩の日ね、ありそうありそう」
嘉にとって今日は一年の中で何日もあるような〇〇の日でしかなくて、こうやって気にしてるのが俺だけとか、なんか馬鹿らしく思えてきちゃうな。
「はあー到着」
決して近くはない距離を歩き終え、隣り合うそれぞれの家の前に着く。
「檬架明日部活は?」
「午後練」
「そっか、俺午前だからお昼学校で食べる?」
「そうだね」
こうして予定がズレても会わないという選択肢がないことに密かに安心してしまう。
やっぱりこれは夢なんじゃないかって心のどこかで思ってしまっているからなのだろうな。
「じゃあまた明日」
「あ、待って檬架」
門扉に手をかける俺を呼び止め、何かを言いかけてやめる嘉。
「どうした?」
心配して近づく俺に腕を伸ばし抱きつく。
その目にも留まらぬ速さで、一瞬にして嘉の腕の中に捕まった俺は全く状況が理解できず、ただ、ただただ、心臓の心拍数が上がって仕方がない。
それを必死に隠して冷静を装う。
「ひ、ろ………?」
「あーそのー………今日、ハグの日、なんでしょ?」
「……う、ん?」
「まあ、流行りにはのっておいて損はないかな?みたいな…?」
「……………」
これほんとに俺の知ってる羽澄嘉ですか?
にわかには信じ難く、言葉も出ない。
閑静な住宅街のど真ん中で、男子高校生が静かに抱き合ってる姿はさぞかし危ない絵面だっただろう。
「…あの…………檬架さん?何か言って?俺のライフはゼロだ…」
背中に回した手を俺の肩にのせ、少しだけ距離を取る嘉。俯いた顔は前髪が影になって見えないけど、襟から覗く首がほんのり赤く染まってることに気づいた。
自滅してどうしようもなくなってる嘉が、何故だか可愛く見えて仕方ない。
初めて抱くその感情に妙に納得しつつ、宙ぶらりんになった自分の腕を、今度は目の前の男の背中にまわした。身長はそんなに変わらないはずなのに、何故だかしっくりしてしまう。
嘉はしきりに聞き取れないほど小さな声で何かごにょごにょ言っている。相当テンパってるのが分かって、思わず笑ってしまう。
「なっ、なんだよ、笑うなよ……っ」
「ふふっ、ごめん」
愛しいってこういう気持ちなのかと、しっかりと心に噛みしめるように、ふるふると震える体を強く抱きしめた。
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