第19話 試製人体活性化薬第壱號 其ノ肆
「謝る……佳乃に?」
私が混乱していると、渡良瀬は小さく頷く。
「……大方、歩けるようになったといって報告に行った……そうだろう?」
「あ、ああ……それが何か悪いのか?」
すると、渡良瀬は今一度口の中に酒を流し込む。
「ここに来る前古島堂にも寄ったんだが……奥さん、店の中で泣いてたぞ」
「え……」
私は絶句してしまった。泣いていた? 佳乃が?
「な、なんで……そんな……」
「……なぁ、一つまた、話をしてもいいか?」
渡良瀬は私の方を再び見る。私は小さく頷いた。
「ある男が戦地で負傷して内地へ帰ってきた……男は酷く怪我をしており、普通の生活はできないと医者にも言われていた。男はずっとベッドに寝たきりで、世話をしていたのは女房だ。女房は必死に世話をしていたが、文句一つ言わなかった。だが、ある日、奇跡的に男は快復した……いや、してしまった」
「してしまった……どういうことだ?」
「……男はベッドから起き上がり、台所で料理をしている女房にその姿を見せに行った。無論、喜んでもらえると思ってな……だが、その直後に悲劇が起こった。女房は、料理に使っていた包丁で、男の腹を刺したんだ」
「は? ……な、なんでそんな……」
すると、渡良瀬はニヤリと微笑む。
「理由がわからないか……それじゃあ、奥さんもこの話の女房みたいになっちまうかもなぁ」
「え……佳乃が……そ、そんな……」
「……若旦那。いいか? 単純に考えてみろ。奥さんは今まで若旦那のことを思って、若旦那が困っている時は懸命に世話をしてきた……それがいきなり治ってみろ。その上、本人からはもう世話は必要無いと言われれば……」
「あ……」
そう言われるとともに、私は立ち上がる。
「わ、渡良瀬さん! ここは全部俺が持つ! これで」
私は懐にあった札束を思いっきり机に叩きつけて、そのまま走って店を出た。
私は走った。仮初の……まがい物の脚力で。
なんで気づかなかったのだろうか……どう考えてもおかしな話ではないか。
渡良瀬に言われるまで気づかなかったなんて……頭が悪いにもほどがある。
少し気づくだけで良かったのだ……それなのに……
暫く走ると、古島堂が見えてきた。私はそのまま店の中に飛び込む。
「佳乃!?」
佳乃は店の勘定場にはいない……ただ、店の奥の方がほのかに明るい。
私はそのまま靴を脱ぎ散らかし、店の中に入っていく。
そして、店の奥……居間の扉を思いっきり開く。
「佳乃!」
と、佳乃は……机に突っ伏して眠ってしまっていた。
私は思わずホッと胸をなでおろす。
最悪……いなくなってしまっているのではないかと、私は思っていたからだ。
「はぁ……良かった」
私はゆっくりと腰を下ろし、佳乃のことを見る。佳乃は……眠ってはいるものの、目の端には涙がうっすらと浮かんでいた。
渡良瀬の言うとおり……私は佳乃にひどいことをしてしまった。
「……すまなかった。佳乃」
私が小さな声でそう言うと佳乃が少しもぞもぞと動いた。
「うーん……旦那……行かないで……」
そして、小さな声で佳乃はそう言った。その言葉を聞いていると、私は益々申し訳ない気分になった。
「……ああ、行かない。行かないさ。どこにも……」
「……ホントに?」
……急に声が聞こえてきて、私はゆっくりと顔を上げる。
見ると……佳乃が起き上がって、こちらを見ていた。
「あ……君……起きて……いたのか」
私がそう言うと佳乃はムスッとした顔で私のことを見る。
「……起きてました。今までずっと」
「じゃあ……私が帰ってきたこともわかっていたのか……」
私がそう言うと、佳乃は不機嫌そうな顔のままで私を睨んでいる。
「……旦那。アタシ、一度でも旦那の足が不自由なことで、文句言った?」
「え……い、いや、それは……」
「言ってないよね? アタシ、旦那の足が悪いことなんて、ここに来る前から教えられていたし、むしろ、旦那を支えることがアタシの役目なんだって、思っていたんだけど」
そういって、佳乃は私を責めるような視線を私を見る。私はいたたまれなくて思わず下を見てしまった。
「……すまん」
すると、佳乃が私の方にずいと近づいてきた。そして、今一度私のことをジッと見ている。
「言ったよね? どこにも行かない、って」
「あ……ああ、行かないよ……それに、こうやって自由に歩けるのは今日だけなんだ」
「え? そうなの?」
「あ、ああ。明日には元通り……らしい。だから、その……私は君がいないとダメだし……どこにも行けないんだ」
私がそう言うと佳乃は最初キョトンとした顔をしていたが……すぐに満足そうに頷いた。
「……それがわかっているのなら、いいんだけどね」
「本当に……すまん」
私がそう言うと佳乃は笑顔で頷いていた。これで一件落着……とりあえずそう思っていた。
しかし、問題は次の日だった。
「……まったく、動けん」
次の日、私は完全に動けなかった。足どころではない、全身の筋肉が痛いのだ。
「大丈夫? 旦那?」
佳乃は心配そうに私の世話を見てくれている。
「あ、ああ……おそらく」
「そっか……明日もだめだったら、お医者さんに行くしか無いね」
……おそらく、それはないだろう。あの男の言うとおり、この状況は一日だけのはずだ。
「若旦那、いるかい?」
と、店先の方から渡良瀬の声が聞こえてきた。
「あ……佳乃、出てくれ」
私の言葉を聞いて佳乃が店先に向かう。しばらくして渡良瀬が居間の方にやってきた。
「ほぉ……これが副作用か」
「ああ……薬を売っていた男の言うとおりだったな」
「……昨日、帰りに闇市の方に行ってみたんだが……そんな男は闇市の奴らは知らないって話だったし、若旦那が行ったと言っていた場所には店自体なかったよ」
「そんな……それじゃあ、幽霊……とか?」
「いいや、単純に逃げたんだろう。だが、いつかまたやってくるかもしれねぇ……旦那、くれぐれもヤツが来たら、俺に相談するんだぜ?」
そういって、渡良瀬は私に小瓶を見せる。
「あ……それは……」
「こいつは俺が預かっておく……もし、奥さんにこれがバレると面倒だろ?」
そういって、渡良瀬は行ってしまった……なぜ、佳乃にバレると面倒なんだろうか?
渡良瀬が出ていった後で、佳乃が私の元に戻ってきた。
「……渡良瀬さん、帰っちゃった?」
「ああ……すまなかったな、佳乃」
私がそう言うと、なぜか佳乃は嬉しそうな顔で私を見る。
「いいって。アタシは、こうやって旦那の面倒を見るのが嬉しんだからさ」
そういって、佳乃は私のことをジッと見ている。
「あー……なんでずっと見ているんだ?」
恥ずかしくなって思わず私はそう聞いてしまった。すると、佳乃は嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。
「う~ん……いやね、こうやって旦那がずっとここで寝たままだったら……ずっとアタシが旦那の面倒見られるのになぁ、って」
佳乃は悪気なく笑顔でそう言っていたが……改めて、我が妻ながら恐ろしいと感じたのだった。
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