(二)
「うむ。分かったぞ。あの扇を矢一本で射抜いてみろっていう意味だな」
源氏軍の最後尾。陣幕に囲まれた中で、年若い武者が言った。
源氏軍の大将、源義経である。
二十七の若さで源氏の大軍を率い、数々の戦いを意表を突く作戦で勝ち抜いてきた天才。しかも端正な顔立ちと気品を備えたイケメンである。金色の鍬形を付けたきらびやかな兜を被り、白糸縅の鎧を身につけ、白塗りの太刀を帯びている。
「え? どういうことだ?」
義経の傍らに座す中年の侍が言った。眉間の皺が深い。
義経とは犬猿の仲である梶原景時だ。
「我々への挑戦だよ」
「挑戦?」
「源氏軍と平家軍の実際に武器を使った戦いでは、私達源氏軍が優勢ですよね。でも、源氏軍は所詮力任せに平家に矢を放つだけの田舎者の集団。この扇を射落とすなんて技量はない。射落とせるものなら射落としてみろって、挑発してるんですよ」
義経に代わって、景時に対峙する山伏姿の男が答えた。
武蔵坊弁慶である。物語に登場する豪傑のイメージはない。意外なほどや優しげな風貌だ。
「そういうことだ」
義経が応じた。
「あの小さな的をこの長い距離から、一発で射落とさなきゃ、俺達は勝利者にふさわしい弓矢の腕前を持っていないことになる。すなわちこっちの負けだ。この勝負に負ければ、向こうは大いに意気が揚がり、こっちは意気消沈だ。今まで優勢だった戦いの流れが一気に不利になる。これは大変なことだ」
「なるほど」
景時が頷いた。
「そうなると、両軍注目の中で一発であの扇を射落とせるだけの腕を持つ者を探さないといけませんな・・・・そんな者、いますか」
「ああ。すでにこちらに急行するよう命じてある」
義経が頷いた。
「那須与一。利根川の川岸から、対岸の木に止まるカブトムシを射落としたことがあるという伝説の男だ」
義経が言った時である。
「御大将。御大将!」
陣幕の入り口で叫ぶ侍の声が響いた。
「おっ。早速来たか。与一」
義経は立ち上がった。
「申し訳ございません」
与一は侍に負ぶわれたまま、辛うじて薄目を開ける。
「ここへ参る途上馬より落ち、足の骨を折ってしまいました。到底弓など射ることはかないませぬ」
「なんじゃと!」
景時も立ち上がった。
「困ったことになったな。まさか、こんな時に与一が重傷とは」
「誰か、与一さんの代役が務まる方がいらっしゃるといいのですが」
弁慶が言った。
「与一を指名する前にな。何人か心当たりを当たってみたんだが」
義経は腕を組んだ。
「そこそこの弓矢の腕を持ってても、皆尻込みして引き受けてくれなかった。これまでの戦闘でどっか痛めてるとかなんとか言い募ってな」
「まあ、無理もないんでしょうね」
弁慶が応じた。
「あの扇の的。一発で確実に射落とすには小さ過ぎるし、非常に微妙な位置にいる。海岸からだとうまく狙えそうでもあれば外しそうでもあるんですよね」
「だな。あの赤ずくめ、多分それを計算し尽くしている。出来そうな出来なさそうなギリギリのところで的を出してるんだ」
弁慶が頷いた。
「そうなんです。だから狙う方としては非常にやりにくい。もしかしたら的を射落とせるかも知れない距離だから、やっぱり外せば恥になってしまいます」
「ああ」
「源氏の代表として、両軍注視の中で外したら大恥だ。そうなれば切腹は免れない。本人だけでなく、一族郎党、孫子の代まで恥ずかしい思いを抱えて生きていかなきゃならないことになりかねない」
「そうですよね」
弁慶は視線を落とした。
「失敗したらご本人だけでなく一族までも巻き込むとなると、引き受け手がないのも無理ないですよ」
「だったら」
義経は黙したまま眼を閉じた。
数秒ののち、かっと眼を見開く。
「だったら。いっそ考え方を変えて、扇の的を外してもこっちの恥にならないような方法を取るしかないな」
「ステキ・・・・」
与一とともに義経の前に引き出された岬が、澄み切った切れ長の眼を瞬かせた。浩と岬は体中に荒縄を巻かれ、身動きできない状態で地面に転がされている。二人は東京の高校の先輩と後輩。のんびりとした浩と活発な岬は、月と太陽の関係である。
「あの方が本物の源義経様・・・・。きらびやかで、上品で。しかも、抜群に強いと来てる。めっちゃ、ステキ」
つぶやく岬を、浩が肘で小突いた。
「なにうっとりしてんだよ。お前が部活の弓の参考にしたいなんて、九百年も前の時代にタイムスリップしたいなんていうから俺たちこのざまだ。憧れの義経さんにも迷惑かけてんだぞ」
「うるさいわね」
岬が浩を睨んだ。
「浩がタイムスリップの出口を間違えたからでしょ。遠くから那須与一の的当てを見物するつもりだったのに。道の真ん中に出れば誰かとぶつかるって決まってるじゃない。それに、お坊さんと巫女の恰好をすれば怪しまれないなんて、適当なこと言って。すぐに捕まっちゃったじゃないの」
「おい。そこの二人」
「えっ。はい」
突然義経に声を掛けられ、浩と岬は硬直した。
「九百年も後の時代から時空を超えてやって来たってのは本当か」
「本当ですよ。この時代はええと、寿永四年、西暦で、と言ってもお分かりにならないでしょうけど、一一八五年ですよね。人類はそれから八百五十年後に時間を自由に行き来できるタイムマシンというものを発明しました。さらに五十年後の二〇八五年、タイムマシンは超小型化されまして・・・・」
「何を言ってるのか、意味が分からぬな」
「タイムマシンというのは、時間を自由に行ったり来たりできる道具です。これを使って私たちは週末ごとに過去や未来といった異世界を行き来してるんです。で、そのタイムマシンが小型化されて、カード、いや、小さな札ですね。あと、ボールペン、もとい、筆のように字を書くものの形をしてるんです。その一種が私の首にかかっている数珠・・・・」
「浩。かかってないよ」
岬が浩の首もとに視線をやった。
「え」
「そのタイムマシンとやらは、こいつのことかな」
浩と岬を縛り上げた侍の一人が、数珠を義経に差し出した。
「ふふん。よく分からんが、つまりこいつがないと貴様らは元いた時代に戻れないってことだな」
「えっ。まあ、そういうことになりますが」
「閃いた! 凄い名案!」
義経は手を叩くと、岬に視線を注いだ。
「お前さっき、弓の心得があるって言ったな」
「はい。でも・・・・。部活でやってるだけで、趣味の範囲ですけど」
「向こうの赤ずくめは女だろ。だからこっちも女の射手で挑ませる。今の時代にしがらみがない女なら、尚更都合がいい」
「女の射手?」
弁慶が首を傾げる。
「そう。女の射手なら、扇の的を外したところで、源氏軍全体の弓矢の技量が問われることはない。勝ちにも負けにもならんから、両軍の士気にも影響しないで済む」
「なるほど」
景時が手を打った。
「赤ずくめの狙いは、扇の的当てを通して、劣勢に立つ平家の戦いの流れを有利に変えようってこと。女の射手にしとけば、赤ずくめの狙いをかわせるって意味ですか」
「そういうこと。要は、相手の思惑には乗らないってこと」
「つまり、お前だ」
義経は岬を指差した。
「ええっ。冗談でしょ。私なんかに那須与一さんの代役なんて」
岬は眼を見開いた。
「首尾良くやれば、この数珠は返してやる。ついでに赤ずくめの正体を暴いてくれたら、褒美をやるぞ」
「失敗したら?」
「一生、この時代で暮らすんだな」
「そんな・・・・」
岬の顔から、血の気がすーっと引いた。
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