宗教

おさく

宗教

 人は無意識のうちに、あるなにかを信じており、その信じているなにかから現実が作られている。なんでもない道端の石を神と崇めている人もいれば、道にある犬の糞を神と崇めている人もいる。前者は少なくとも道を歩いていて石を蹴ることはないだろう。仮に道端に落ちている石のみを神と崇めているとしたとしても、この人物の頭の中では地球上の石全体の価値が上がっていることは疑いようがない。すなわち庭に落ちている石だろうが、土の中に埋もれている石だろうが、石を他の人とは比べ物にならないくらいに高尚なものだと思っているはずである。後者は犬の糞を神と崇めているくらいなのだから、その糞を一目見る、もしくは嗅いだだけで、それが犬の糞であるということを瞬時に悟ることができる。神を見間違うことなどありえないからだ。

 両宗教ともにこれまで注目されることなく今日に至っているが、道端の石を神と崇める宗教と、道に落ちている犬の糞を神と崇める宗教が対立し出していることが、最近になって分かって来た。なぜ私がそのような誰にも注目されない二つの宗教のことを知っているかというとそれは、私が信仰している宗教である道に落ちているガムを神と崇める宗教、すなわち「ガム教」の集会で知ったからだ。我々の宗派の歴史を紐解いていくと、その対立している両宗教の一派からこの「ガム教」が生まれているため、彼らの情報もその筋をよく知る信者から伝わって来るのだ。

 話を戻し、一体その対立している宗教がなぜそうならざるを得なかったかということだが、これは昔から幾度も言われて来たことであるが、道端の石の上に犬の糞があるという状況が過去幾度となくあり、そのために道端の石を神と崇める側が、犬の糞を崇める側にどうにかならないのか、と常々申し立てていた。それが近ごろになり道端の石を崇める側が犬の糞を踏みにじり跡形もなくしたり、また糞の上に土を被せ隠したり、もしくは石を置くことで石が糞よりもその価値が上であるということをあからさまに表現するための行動をし始めたのである。過激になりつつある道端の石を神と崇める者たちに対して、犬の糞を崇める者たちはしばらく態度を荒げず耐えていたが、一部不満を貯めていた若い信者たちが石を蹴飛ばし、または埋め、それに応戦し始めたため、他の我慢を強いられてきた犬の糞を崇める者たちも声を荒げ始めたのである。

 落ちているガムを崇める親の元に生まれた私は、幼き頃から落ちているガムを崇め、それもあってかクラスメイトや友だちからよそよそしい目で見られてきた。それも、そのような目で見られていたということを知ったのは最近だ。それは私の信仰心が少しずつ離れ出していることと関係している。それは、なぜ単に道端に落ちているガムをそこまで崇める必要があるのかという疑問がふと立ちあがって来たからであり、それはそういった信仰を持っていない人々と触れ合う中で幾度となく、私たちが神と崇めるそれが一般社会から忌み嫌われたものであるという扱いを受けているところを見てきたからである。そのようなこともあり、道端のガムを含め、落ちている石、はたまた犬の糞を崇める信仰というのは、一般社会からかけ離れたものではないのかと最近は思う。

 我々が下を向き信仰を重ねていた間、空はどんなに美しく広がり続けていたのだろうか。我々が信仰していたものが形作る私という形式は、世界を単に道端へと向かわせていただけだったのかもしれない。

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宗教 おさく @osaku

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