第6話

 休み時間の保健室に度々訪れるようになった楓は、いくつか気づいたことがある。蒼井と橘は恋人同士というわけではないらしい。兄弟のような関係であるということ。そして、初めて聞いたときは冗談だと思っていた、橘が祖父よりも年上らしいということ。

 ある金曜日の昼休み、楓は橘を前にポロポロと想いをこぼした。

 黙って聞いていた橘だったが、優しく語りかけ始めた。


「亜紀さんというのは…花村さんですね?」

「はい。亜紀はいつも明るくて、優しくて、可愛いし…頭も良くて運動も出来て…何でも出来るんです。私とちがって。時々変な対抗心持って、何かに挑戦するんですけど、それでもやっぱり何もかも亜紀の方が上で…。私は、ピアノも習字もそろばんも…どれも長続きしなかったんです。あとから始めた亜紀の方が上達が速くて、先生にも好かれて…。続けるのが辛くなってやめちゃったんです。でも、悪いのは自分だってわかってるんです。だから、辛いんです。」

「そういう気持ち、わかりますよ。」


 伏せていた目をまっすぐ楓に向けて、橘は語り始めた。

「私はね、小さい頃に兄と一緒に捨てられたんです。」

 突然の告白に、楓は何を言って良いかわからず、ただ静かに聞いていた。

「それからしばらく施設のような所にいたんですが…兄の方が明るい性格で、頭はいいし顔も可愛いし、周りから愛されていました。それに比べて私は、この通りです。何一つ優れているものが無い。」

 橘は、情けない、というように眉尻を下げた。

「兄は先に裕福な里親に引き取られたんです。その家の跡取りとして。私はそのひと月ほど後に、若い夫婦に引き取られたんです。…ああ、でも決して虐待されていたとかそういうことは無くて、大事にしてもらいました。ただ、半年ほど経って、私は家に一人置き去りにされたんです。気が付いたら病院で目を覚ましました。」

「病院で…?」

「ええ、施設の院長が心配して見に来てくれて、衰弱して倒れていた私を発見してくれたんです。」

「それからまた施設での生活になったんです。しばらくしてから、今度は兄が会いに来てくれて、一緒に暮らそうと言ってくれたんです。里親達も歓迎すると言ってくれて。衣食住には困りませんでした。ただ、兄は聡明な跡取りで、私はおまけのようなものですから、仕方ないことなんですけどね、どうしても切ない思いをすることは多かったんです。そこの家のおばあさんだけは私に優しくしてくれたんですが、亡くなってしまいました。それで、学校を出たら、働いて一人暮らしをしようと決めたんです。」

 蒼井が紅茶を淹れる音が心地よく響く。

「一人暮らしの部屋を借りたのは、花街…つまり芸妓さんとかの居る、大人の遊び場のようなところの近くでした。そこで、ある男性と出会ったんです。やっと自分を認めてくれる人に出会えたと舞い上がってしまったんです。ところが、三味線を教えていた芸妓さんと、駆け落ちしたんですよ。周りの誰もが騙されていたんです。私を隠れ蓑にしていたんですから。その頃からですね、私の時間が止まったのは。」


「…ごめんなさいね、変な話を聞かせて。でもこんな私でも今は平然として生きているんですよ。」

「先生、今は幸せですか?」

「ええ。ここの校長に出会って、蒼や小太郎に出会って…柚子やあなたに出会って、良かったと思っていますよ。」

「私も、そう言えるようになりますか…。私じゃないと出来ないことに出会えるでしょうか。」

「大丈夫。それにもう、あなたにしか出来ないことをしているんですから。亜紀さんはきっと器用なんです。だから色んなことを上手に出来る。楓ちゃんは、ひとつひとつに丁寧に向き合えるんだと思います。だからね、結果を焦らないで、じっくり取り組んでみたら良いんじゃないでしょうか?そうすればきっと完成されたものは誰にも敵わないようなものになると思うんです。」

「…そうでしょうか?」

「ええ。『もしも』は無いんですよ。その場所にはあなたしか居ないんですから。」

「はい…。」

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