第4話
同居発言から二日後、楓は同学年の生徒に呼び出された。あの時、蒼井が言っていた『誰か』は、となりのクラスの少女だった。
「突然すみません。ぼくは常盤柚子です。ユズと呼んでください。宮下さん。今日の放課後はヒマですか?家へ招待するようにベニとアオイに言われたのですが。」
自分の事をぼく、と称した少女は、持ち主の動きに合わせて真っ黒なおかっぱの髪がさらさらと素直に揺れる、実際よりも小柄な印象を受けるような少女だった。小動物のような可愛らしい目が楓を見つめている。しかし目線は微妙に合っていない。楓の目よりも少し上、頭の辺りに焦点が合っているようだ。
「うん、ありがとう。」
「ホームルームが終わったら迎えに来ます。では。」
視線が合わなかったことに微かな違和感を感じながら、ぺたりぺたりと歩いて隣の教室へ戻って行く後姿を見送った。
「行きましょう。宮下さん。」
予告通りに先ほどの僕っ子がやってきた。
「歩いて十分くらいで着きます。アオイはまだ帰れないと思いますが、ベニは多分すぐに帰ると思います。」
不思議な所だらけの僕っ子に色々と聞きたいことはあったが、その中から最も当たり障りのなさそうな話題を選んだ。
「何で橘先生は『ベニ』で蒼井先生は『アオイ』なの?」
「苗字は知らないけど、本当の名前はベニとアオイだからです。」
「本当の名前?」
「そう。何個目の名前かわからないけど今の名前はちがう名前だから。」
芸名のようなものだろうか。
「宮下さんも、ベニとアオイって呼んであげるときっと喜ぶ。」
「そうなの?」
「あと、ぼくが自分の事を『ぼく』と言うのは、育った環境のせいです。」
最も気になっていたが聞けなかったことを、彼女は自分から簡潔に話した。聞きづらそうにしていたのがばれたのかと、一瞬驚いたが、その後に付け加えられた「初対面の人はみんな不思議がるので。」という一言で納得した。「育った環境のせい」というのはよくわからなかった。
「ここです。」
街路樹がわりと元気に立ち並ぶ閑静といわれる住宅街を抜け、いくつか角を曲がると木造の大きな建物がそびえていた。ずいぶん昔からここに建っているという、この辺りでは有名な立派な構えの屋敷だ。庭もよく手入れがされているとわかるほどに整然としている。
門をくぐった先で、二人が立ち止まると、カラカラと音を立てて内側から戸が開けられた。そうして迎えたのは、上品な印象の若い細身の男だった。
「おかえりなさい。」
笑ってこの家の住人にそう言った男は、楓に向き直ると殊更にっこりと笑って二人を迎え入れた。
「お待ちしてました。どうぞ。」
和風の建物の中に一歩足を踏み入れると、純日本風の外観とは裏腹に、洋菓子の匂いが立ち込めていた。てっきり畳や木の匂いがするのだと思い込んでいたので、違和感に胸がザワザワとする。
「なんかすごく…甘い匂い…」
不快な匂いではないものの、台所からあふれ出てくる甘い匂いに柚子は顔をしかめていた。
「いやあ、気合いを入れて作り過ぎてしまいました。お客さんが来てくれるなんて、滅多にないもので。」
反して男は相変わらずにこりにこりと嬉しそうに微笑んでいる。
「私は白井小太郎と申します。ベニさんとアオイさんから、楓さんの話は聞いてます。甘いものがお好きだと聞いて、いやー嬉しくて。張り切って作ったんですよ。」
「小太郎、ぼくは紅茶がいい。」
「はいはい。楓さんも紅茶でよろしいですか?」
「はい。」
普段は人見知りで、遠慮がちな態度をとってしまうが、きっと柚子の淡々とした空気と、小太郎の穏やかな物腰に、楓も自然に振る舞うことができた。
そうしてキッチンへと消えたエプロン姿が戻ってくると同時に、はっきりと甘い匂いが近づいてきた。
「どんなのがお好みかわからなかったので、いくつか作ってみたんですけど。」
たかが女子高生が一人来るというだけで、こんなにも手の込んだものをつくったのか、しかも数種類ある。目にも鮮やかなお菓子を前に、楓は呆気にとられた。
「これがチーズケーキ、この中では甘さ控えめですよ、レモンの香りがします。こっちは冷たいチョコレートのババロア、この生クリームと一緒にどうぞ。そしてこれがフィナンシェ。マドレーヌじゃなくてフィナンシェですよ、オレンジピールが入っています。それでこっちは、抹茶とココアのクッキーです、焼き立てでほら、まだ温かい。あ、人工着色料は一切使ってませんからね。」ドラマのパティシエよろしく、流暢に説明するのを、楓と柚子は並んでぽかんと見上げていた。
「どうぞ、お好きなのを召し上がってください。」
説明し終えたパティシエは満足げに笑って皿をすすめた。
楓は真っ白な皿に負けないほどの真っ白なチーズケーキにフォークを刺した。柔らかくしっとりとした感触に期待がふくらむ。
小さく掬い取って口に運ぶと、レモンの爽やかな香りが鼻を通り過ぎ、舌には滑らかな酸味が広がった。
「おいしい…!」
本心から漏れた感想に、パティシエは嬉しそうに目尻を下げ、「ありがとうございます。」と頭を下げた。
「楓さん、こっちも自信作です。さ、どうぞ。たくさんありますからね、食べきれなければお土産に持って帰ってくださいね。」
「宮下さん、本当に美味しそうに食べるね。ぼくもその白いやつ食べてみようかな。」
「ありがとうございます。今日は嬉しい日だな。」
小太郎は更に目を細めた。
3人が穏やかな時間を過ごしていると、扉がカラカラと開いて表の乾いた風が僅かに吹き込んだ。
「ただいま。」
「おかえりなさい紅さん。」
「橘先生。お邪魔してます。」
「美味しいですか?」
「はい、とても。」
「紅さんはフィナンシェがお好きですよね、いま緑茶を淹れますね。」
フィナンシェに緑茶という組み合わせに反応した楓に、横で見ていた柚子が説明を加える。
「和菓子でも洋菓子でもベニは緑茶。アオイはコーヒーだよ。」
「先生とおじいちゃんは、その…友達、だったんですか?」
一通りの甘味を堪能してから、楓はずっと疑問に思っていたことを聞いてみた。
「そうですね、『友達』という言葉が一番近いでしょうね。私はあまり友人がいないので、もう会えなくなってしまったのは寂しいですね。」
「歳が、すごく離れてますよね、昔っていつから…?」
「何十年前でしょうね…。私の方がたぶん年上ですけど。」
あまりに自然だったから、楓は咄嗟に気づかなかった。しかし、どうもおかしい。考え込んでしまった楓を尻目に、紅は話を続けた。
「昔はよく会っていたんですけど、最近は時々手紙をやりとりしてました。楓ちゃんのこと、本当に大事に思ってたみたいですよ。可愛くて仕方ないって文章に滲み出てました。」
楓が黙りこんでしまったのを見て、「それに」と付け加えた。
「あなたが自分を責める必要はないんです。むしろあなたを苦しめてしまったと、きっと心配してると思いますよ。」
大人に優しい言葉をかけられたのは、祖父以来だと気づいた楓からは、ほどけるように気持ちが口からこぼれだした。
「最初はなんで私なんかのためにって、腹が立って、もしもあの時…私が家に居ればあんなことにはならなかったのにって思うと、どうしようもないのはわかってるんですけど、頭がどうにかなりそうで、気持ち悪くなるんです…」
ここまで話してしまったのだから、もう全て話してしまおうと楓は話を続けた。
「それから、人に触れるのが怖くて、手がすこし当たっただけでも鳥肌が立つくらい、私のせいで不幸になるなにかがうつっちゃうじゃないかって思うと怖くて仕方ないんです。」
誰にも何にも吐き出すことが出来なかった思いが、溢れた。
ひとしきり泣いて、思っていたことを吐き出せた楓は、しばらくして落ち着きを取り戻したが、気がつくと背中には制服越しに紅の手の温かさが伝わり、その温かさにまた泣きそうになった。自分以外の人も、生きているんだと変な感慨が湧いた。
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