第3話


「ああ、なんだ宮下が来たのか。花村はどうした?」

 呼ばれた通りに職員室の教師の元へ行ったところ、亜紀が来ると思っていたのか、「なんだ、」と言われた。普段ならば少し傷付く程度のことだ、慣れている。だが昨日からのことがまだ消化できていない楓には、ひどく切なく尖った言葉だった。

「まあ、いいか。これな、クラスの奴らに配っておいてくれ。次の授業の時に提出だからな。」

「はい。」

「頼んだぞー。」

 息が詰まって、気を抜けば視界が歪んでしまいそうになりながらも、その場を離れようとしたところで、視線を感じてふと前を向くと、英語教師の二つ隣の席で例の日本史の教師が無表情なままこちらを見ていた。何か言われるのかと暫し見つめ合うが、橘は特に何も言わなかった。ただ、見ていた。


「ごめんね、一人で行かせちゃって。」

 教室に戻ると、亜紀は申し訳なさそうに迎えてくれた。

「ううん。でも、こんどからは亜紀が行った方がいいかもしれない。」

「え?うん、わかった。」

 なんだかわからないけどありがと、と亜紀が軽く楓の背に触れた。ぞわりと背中の産毛を逆撫でされたようだった。

 授業も終わり掃除の時間、一人階段を掃いていると、上方から誰かに声を掛けられた。

「宮下さん。」

 橘だ。あの神社で会った日以来、授業中以外ではあまり接点のないこの先生に声を掛けられたことに少しの照れ臭さを感じながらも、白い階段を降りてくるその人に意識を集中させた。

「あの先生はああいう言い方なんです、気にすることはありませんからね。」

 あの先生、が意味するところはすぐに思い当った。昼休みのことを言っているのだ。気づいてくれていた。そう思うと、何かにぎゅっと握りこまれていた心がやんわりと動き出したような気がした。

 暫し呆けていると、橘は少し微笑みながら続けた。

「ちょっとしたことですけど、傷付きますよね。」

「…はい。」

「今度、ゆっくり話しましょう。おじいさんのこともお話ししたいですから。ね。」

 気にかけてくれる人がいる、それをちゃんと自分に伝えてくれる人がいたことは、楓にとってやけに嬉しいことだった。

 単純だが、呼吸が楽になった気がした。


「楓?何か良い事あった?」

「なんでもないよ。」

 高校からの帰り道、いつもと同じ道を、いつものように亜紀と歩いていたが、いつもより歩みが軽かった。たった一言だった。でもそれだけで、こんなにも嬉しい。それでも温かい。

 

翌日の四限目は日本史の授業があった。

 授業中に教師をじっと見ていることなどあまり無いが、ぼんやりと黒板の前を見ていた。

 この教師は、授業中にはあまり感情が見えない。淡々としてむしろ冷たい印象さえ受ける。怒ったりするわけではないが、個々の生徒に情を持っているという風ではない。

 授業の終わりを知らせるチャイムが鳴り、ようやく五十分の拘束から解放されると息を吐いたところに、突然名を呼ばれ、反射的に姿勢を正した。

「宮下さん、昼食が終わったら職員室まで来てくれますか。」

「はい…。」

 じっと見ていたことで気分を害しただろうか、と楓が不安に思っていると、隣の席の女子が気遣わしげに声を掛けてきた。

「何か怒られるようなことしちゃったの?」

「ぼーっとしてたからかな…。」

「えー?あの先生はそのくらいじゃ怒らないよ、私なんてちょっと寝ちゃったもん。楓ちゃん、しっかり起きてたじゃない。」

「起きては、いたんだけどね。」

 苦笑いを浮かべてからお弁当を取り出すべく鞄を漁る。弁当箱を手に取り顔を上げると、亜紀が目の前にいた。何か聞きたそうな顔をしている。

「楓、急ぐんでしょ?はやく食べよう。」

 聞きたそうな顔はしているが、まだ何も聞いてこないところを見ると、じっくり座って聞き出そうとしているのだろうか。

「で、何しちゃったの?」

 弁当箱のふたを開けるとすぐに、予想していた質問が繰り出された。

「何もしてないよ?」

「じゃあ何で呼び出されたの?」

「わかんないよ。…ちょっとだけ、ぼんやりしてたけど。」

「んー?それだけ?」

「うん…。」

「ふーん?」

 納得できないというように亜紀は口をとがらせた。

 食べ終わってすぐに亜紀の心配そうでいて好奇心を滲ませた視線を背に受けながら席を立った。


 緊張しながら開け放たれたドアの前へ立つやいなや、職員室へ足を踏み入れる前に声を掛けられた。

「すみませんね、わざわざ来てもらって。」

「あの…?」

 私が不安そうにしているのを察してくれたのか、橘はふと小さく笑い、「怒るために呼んだわけじゃないんですよ。ちょっと移動しましょう。」そう言って、廊下を歩き出した。

 どこへ向かうのかは言われなかったが、橘の少し後ろについて階段を下りた。そのまま歩を止めることなく、一階に下り教室がない方向へ向かっている。この先にあるのは、保健室くらいだ。

 案の定、楓が追っていた背中は、保健室の前で止まった。

 ただし、『不在』のカードが掛けられている。

 お留守みたいですね、と声を掛けようと息を吸い込む一瞬間より早く、声が上がった。

「開けますよ。」

「どうぞー。」

 不在のはずの保健室の中へ向かって掛けられた言葉に、中から明るい返事が聞こえた。

 からりと軽い音をたてて開かれた扉からは、消毒か何かの清潔な匂いが漂ってきた。

「蒼、おじゃまします。」

 あお、と呼んだ声に、なぜ「あお」なのだろうと少し考えてから、ああ、この養護教諭は蒼井涼だった。だから蒼なのかと納得した。それにしてもなぜ保健室に連れて来られたのか、この二人は何故こうも親しそうなのかと逡巡していると、蒼井が楓をちらりと見てから橘に訊いた。

「どうしたの?怪我人?」

「いえ、ちょっとお話を。」

「ああ、出て行った方が良い?」

「大丈夫です。居てください。」

「そう?」

「宮下さん、どうぞ。」

「失礼します…蒼井先生。」

 部屋の前で、どうしていいかわからず戸惑っていた楓は、橘に招き入れられ、見目麗しい保健室の主に断りを入れて中へ入った。

「で?」

「紅茶でも淹れてくださいよ。」

「え、喫茶店代わり?しょうがないなあ…。君も、紅茶でいい?あ、田中先生のお土産のお菓子があるよ、サブレ好き?ちょっと待っててね。」

「おかまいなく…。」

「次の授業もあるんですから、急いでください。」

「急いでるよー。」

 ちょうど自分でも淹れようとしていたところなのか、驚くほどの早さで紅茶は提供された。予想よりも大きなサブレを添えて。

「どうぞー。」

「ありがとうございます。」

 三口ではとても食べきれないだろうななどと考えていると、それを察したのか「あ、サブレ大きい?半分こしようか。」と、サクッと乾いた音をたてて、何かの動物の顔だったであろうものは真っ二つに割られた。

 はい、と渡された片割れは、口と鼻があることからおそらく犬の横顔の前半分であろう。

「ありがとうございます…いただきます。」

 少しの緊張から、上品に上品にと気を付けながら犬の顔を粉砕すべく、そっと歯を立てた。これほど近くで蒼井の顔を見たのは初めてだったが、肌理の細かい頬に明るい色の髪がかかっており、パーツの一つ一つが計算して作られたように綺麗だ。まして、その視線はこちらを向いて微笑んでいる。

 楓の頬は、触らなくてもわかるほどに紅潮していた。

 横でそれを見ていた橘は、呆れともとれる表情をして一言忠告をした。

「そんな人に惚れちゃだめですよ、宮下さん。」

「いえ、そんなつもりじゃないです、違います!」

 あまりの美形なので、ただ見惚れていただけなのだということが伝えたかったのだが、二対の目に見られている恥ずかしさで、大袈裟なほどの身振り手振りでもって否定をするはめになった。

「そこまで嫌がらなくても…」

 芝居がかった仕草で落ち込んでみせる蒼井に、楓は思わず笑った。

 それから少しの時間ではあったが、好きな菓子の話や、おすすめの店の話をしているうちに、予鈴が鳴った。

「また今度ゆっくりおいで。あ、病人がいないときにね。」

「次は物理でしたか?しっかり授業受けてくださいね。」

「はい!」

 二人に見送られ、いま起こったことを思い出しながらフワフワとした心持のまま教室へ急ぐ。

 日常とは違う。わかってくれる大人が居て、特別に扱ってくれた。そのことが嬉しくて仕方ない。いつも誰かに引け目を感じて一歩下がり、大人の顔色を見て過ごしてきた。この休み時間はあっという間であったけれど、昨日までの重苦しかった喉元がすっきりと通った気がした。頬にもはっきりと体温を感じる。自分が居ても良い空間がそこにあったのだと思えた。またおいで、と言われた。また行っても良いのだろうか。そのことを思うと、嬉しいけれどむず痒いような感じがした。

 教室へ戻るまでのことはよく覚えていないが、いつの間にか自席に着いていた。ふと隣から、さっきと同じように気遣わし気な声がかけられた。

「楓ちゃん、何だったの?」

「んー?ちょっとお話ししただけ。」

「そうなの?」

「うん。怒られなかったよ。」

 怒られるどころか。

 嬉しかった。

 それからしばらくは、平穏な日々が続いた。

 亜紀は、委員会が頻繁に行われる学級委員になったために、一緒に帰れない日も度々あった。そんな日は、楓は時々蒼井の元へ行く。そして他愛もない話をして、時々橘が来て、宿題を見てくれた。

「あ、今度さ、家にあそびにおいでよ。」

「蒼井先生のお家ですか…?」

 橘は居なかったが、それはさすがにまずいだろう、と困惑していると、それを見透かしたように蒼井が笑った。

「ごめんごめん、紅も一緒に住んでるから。他にも二人住んでるから大丈夫だよ。その内の一人がさ、お菓子作りが好きなんだけど、紅以外の住人が皆辛党なものだからさ、食べに来てあげてほしいんだよね。」

「一緒に住んでるんですか?」

「え?うん。こんど誰かに教室まで迎えに行かせるから。ね。」

 頭の中は、こんどはそのことでいっぱいになった。確かに親密な雰囲気ではあった。だが夫婦にしては苗字が違う。恋人という感じでもなかった。他にも同居人がいると言っていた。昨今流行のルームシェアということなのか。いくら考えても、正解はわからないのだが。 




「宮下さんって、どの人ですか?」

 

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