第2話

 初めての授業は少しだけワクワクする。未だ真新しい教科書やノート、筆記用具を使うのは嬉しい。中学校とは教科書のサイズや厚みが違うのを意識するたびに、高校生だと実感すると、背伸びをしたくなるような、こそばゆいような晴れやかな気持ちになる

 がらりと前方の戸が開き、教室中の視線が一斉にそちらを向いた。

 日本史はおじいさんの先生なんだろうと何故だか思い込んでいたが、入ってきたのは予想に反して若い女の先生だった。さらに楓を驚かせたのは、数日前に神社で声をかけられた「祖父の友人」だったことだ。あの日はふわりとしたブラウスの、背中の中ほどまでさらさらと流れていた黒髪は右耳の下で一つにまとめられ、ジャケットの胸元へ落ち着いている。雰囲気こそ若干違ってはいるが、間違いなくその人だった。それを証明するように、目があった瞬間、意味ありげにその口端が上がった。

 


 自然と集まるグループにも入った。せっかく脱皮しかけたのに、その脱ぎ掛けた皮をまた着直すかのような生温かさがよみがえってくる。

「楓、帰ろー!どこか寄ってく?」

「あ、今日は…」

「お家のお手伝い?」

「そういうわけじゃないんだけど…今日はたぶん忙しい日だから。」

「あ、響さん来てるの?私も会いたいな、行って良い?」

 爽やかなそよ風の午後、可愛らしいふわふわとしたポーチからファンデーションを取り出し、トイレの鏡の前で入念に化粧直しをする亜紀を、楓は横から何となく見ていた。化粧なんてしなくてもこの少女は美しいのに、さらに肌色を塗り重ね、まつ毛は上へ上へ。唇は水面のように潤んで輝き、髪だって、明るい色でふわふわしている。それにひきかえ、楓は刷毛で描いたように真っ黒な髪で、鼻は低いし、目もあまり大きくない。亜紀と並ぶとぼんやりとして一層地味なことだろう…そんなことをとりとめもなく考えながら、卑屈な自分に嫌気がさして、バッグを持つ手に力を込めた。

「よし!おまたせ!行こう楓!」

「亜紀の髪って、ふわふわしてていいね。」

 思っていたことをぽつりと零した楓に、亜紀は一瞬間を置いて、「楓の方が綺麗だよ、黒くてさらさらで。あ、ほら光が当たって天使の輪っかができてるよ!いいなぁ。」と、ふんわりとした笑顔とともに返した。昔からそうだ、亜紀は嫌味が無い。まったくもって良い子なのだ。だからこそ、楓は困るのだ。

 他愛もない話をしながら通学路を少しだけ回り道をし、本屋で雑誌をチェックしたいという亜紀に付き合って店に入った。することも無く、大して興味もない雑誌を眺めていると、表紙はどれを見ても楽しそうな笑顔を輝かせた美女たちが飾っている。平積みされているもの、立てかけられているもの、どこを見ても綺麗な笑顔がこちらを向いている。ふと横を向くと今度は亜紀が何やら真剣にファッション雑誌を凝視していた。長い睫がすべすべとした頬に影を落としている。

 雑誌の表紙や亜紀よりも、楓の方が標準的な顔立ちのはずだ。それなのに、この空間では自分だけが醜く異質な存在のように思える。それが嫌で、隣にある動物の雑誌コーナーへ移動した。表紙で笑っているように見えるこの愛らしく毛深い生き物は柴犬だ。

 雑誌を手に取り柴犬の表紙をめくると、鼻と口がギュッと潰されたようなパグが写っているページが開き、すぐ隣に来ていた亜紀が「可愛い!」と嬉しそうに覗き込んだ。感覚が違うのか、それともこれが可愛いのか、可愛いとはこういうことなのか。柴犬の方が可愛いだろう、絶対に。楓にはよくわからない感覚だった。

 結局何も買わずに店を出て、楓の家の近くに鎮座する古い神社に立ち寄った。一礼して鳥居をくぐり、白灰色の玉砂利の参道を歩いていると、重々しく見事に揺れる藤の花を背に彼はいた。

 白い着物に白い袴を履き、箒で落ち葉を掃いていた。その背後には紫色の豪奢なカーテンがさわさわと揺れて、掃除の効果は定かではないが、色のコントラストは美しい。

「あ、楓ちゃんお帰り。」

 白袴の神職が楓達に気が付き、声を掛けた。

「おつかれさまです。やっぱり今日は忙しかったですか?」

「大安だからね。あ、亜紀ちゃんだよね?こんにちは。」

 亜紀は嬉しそうにキラキラと効果音のつくような笑顔を見せて明るく挨拶を返した。

 神社が忙しい時には、若い神職が手伝いに来る。変わった人だが、背も高く、端正な顔立ちをしていて、深い声をしている。大学を出てから二年、他県の神社に奉職していたらしいが、一昨年地元へ戻ってきて、普段は自分の実家の稲荷神社に奉職している。隣の市に住む楓とは、少し離れた親戚になる。

「あ、そうそう楓ちゃん。来月に結婚式が一件入ったんだけど、また巫女さんお願いできる?」

「来月、日曜日ですか?」

「うん、第二日曜日。ほら、この近所の田中さんのお嬢さんがここで結婚式挙げたいって。」

「たぶん大丈夫です。」

 一昨年の正月から、こうしてたまに神社の手伝いをしている。私達のやりとりを横で黙って見ていた亜紀が、彼女にしては控えめに声を上げた。

「楓、巫女さんやるの?いいなー。」

「亜紀ちゃんもやってみたい?」

「はい!」

「じゃあ、来月の結婚式、二人にって宮司さんに言ってみようか。華やかになるね。」

「やった!ありがとうございます!」

 どうせこうなるとわかっていた。これまでは自分にだけ出来る仕事で、響に頼まれることにも少しの優越感をすら持っていた。だけが、亜紀が望めばそんなことは容易く亜紀のものになる。

 昔から、亜紀は皆に愛される。可愛くて、明るくて、優しくて、頭も良い。亜紀に悪いところなど何もないのだ、それはわかっている。それでも釈然としない気持ちもあった。同じことを言ったとしても、やったとしても、評価は全く違うのだといつからか気づいていた。そんなことを考えてしまう自分に嫌悪感が付きまとうことも。

 響は、亜紀とは関係のない所で楓と繋がりのある人だった。それも楓にとっては初恋の人だった。今はもう恋はしていないがそれでも、後から知り合った亜紀の方がきっと仲良くなれるのだろうということも予感して恐れていた。

 焦燥、嫉妬、嫌悪、色んな二字熟語が頭の中を占めるが、どれも楓の気持ちとは重ならない。ぐるりぐるりと考えている間にも二人は携帯番号を交換しているようだ。

 これで二人の間に、自分の存在は不要になったのかと気づくと途端に、さっきまでのぐるりぐるりは虚無感に覆い隠された。そして僅かばかりのプライドが命じたことは「逃げろ」の三文字だった。役立たずだと言われる前に自分から逃げなければ。

「楓ちゃん?どうしたの?」

「いえ、何でもないです。あの、やっぱり私、その日は予定があったのを忘れてました。すみません。」

「え?そうなの?楓、来れないの?」

「うん。でも、亜紀がいるから、大丈夫ですよね?」

「まあ、用があるならしょうがないけど、亜紀ちゃん一人でも大丈夫?やってくれるかな?」

「はい。頑張ります!」

 これでいいのだ、あまりにも卑屈な事だと自分でもわかってはいる。「役立たず」などと誰も言わないこともわかってはいる。それでも臆病な心は逃げることを選んだ。これからは亜紀が自分よりもずっと上手くやるのだろう。そう思うと、今度は寂しさ空しさで目頭が重くなった。自分でそうしたくせに、喉あたりで引っかかる何かを飲み込んで、また次回はどう断ろうかと考え始めていた。

「じゃあ、また今度頼むよ、楓ちゃん。」

「…はい。」

 その帰り道、亜紀は何かを楽しそうに話していたが、楓の頭には残らず右から左へ抜けて行くだけだった。

 帰ってからも、来週手伝いが出来ないのはなぜかと両親に聞かれたが、適当に補習があるからとごまかした。それに亜紀が来ると伝えるとかえって喜んですらいた。それから近所の誰が良い高校に受かっただとか、田中さんの娘さんが素敵な旦那さんを見つけただとか、隣町の神社の跡取り娘は美人だとか、そんな会話を聞き流しながら夕飯を終えた。

 

 明くる日の昼休み、英語の教科係を呼び出す放送がかかった。亜紀と二人で英語の教科係になっていたが、未だ亜紀のピンクのお弁当箱に詰まっている色とりどりのおかずを見て、楓だけが行くことになった。

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