決戦は廃工場

(来ない……)

 苦労オーラを狼煙にして篠岡を釣る。そういう狙いだったが、一向に状況が変化しない。

 篠岡が苦労オーラで個人を識別できるとしたら、俺だとわかれば助けに来ないかもしれない。だからおじさんの愚痴を誘った。ヤクザに追われる借金生活と言うくらいだから深刻な苦労話を期待できる。

「最初はね、サプリメントだったんだよ。次は真珠の輸入だったかな。あとシリコンバレーって言うの? そこでシリコンの採掘をする事業なんていうのもあったな」

 友人が起こした会社で働いたり投資したりしていたら、知らない間に経営責任者や保証人になっていたらしい。それで借金が膨らみ見かねた笹目先輩が援助を申し出て、おじさんはそれを断ったものの債権者に知られてしまった、という流れだそうだ。

 どうやら悪人というわけではなさそうだ。当選金をむしり取ったあくどい親戚――という印象は話の途中で完全になくなった。無知と浅薄に罪がないとまでは思わないが。

「温泉が必ず出る土地があるって紹介されたときも――」

「うああもういいよ! ありとあらゆる詐欺にひっかかってんじゃねえよ!」

「結婚詐欺はまだだよ」

「時間の問題だろ。とにかく愚痴はもういい。救援が来ないなら聞いててもイライラするだけだ」

 話せと言われてやめろと言われて、事情がわからないおじさんは不服そうにしている。「いくら篠岡さんでもそんなにすぐはムリじゃあないかしら」

 笹目先輩のほうは目的を掴んでいる。

「そうか? 俺はすぐだと思ってたよ。アイツの厄介さを信じてるから、即行で助けに来ると思ったさ」

 でも来ない。篠岡がやる気を失くすというのはあり得ないので、もっと美味しい苦労話が他にあったのかもしれない。

「でも、まだ5分経ったかどうかくらいだと思うわよ」

「あのね? 俺たちはこれから殺されるとこなんだぞ? その5分があれば充分死ねるんだよ」

 窓の外の景色は見慣れない森林で、車は岩壁に沿って曲がりくねった道を走っている。とっくに山奥へ入り充分に人里離れているので、どこかに到着しなくてもそこらの崖下へ突き落とされそうだ。

 いよいよ時間がなくなってきた。

「おい、アンタも苦労オーラ出せ。おじさんとツインでいけば篠岡がマッハで到着するかもしれない」

 せっついても笹目先輩は相変わらず気の抜けた微笑を浮かべている。

「ムリよ。私にそういうことはできないわ」

「いやできるって、めんどくせーこと考えるの得意だろ? アンタにとってはいつもの感じでいいんだよ。……それともなにか、もう死ぬつもりだからこれ以上苦痛を欲しがる気にはなれないってか」

 完璧な幸福を手に入れるための完璧な不幸。笹目先輩がそれを〝死〟に見つけたとしてもおかしくはなくて、そう考えるとこの微笑も死を結論にした人間の達観に見えた。

 なにか尋ねて先輩が答えれば俺にはどうすることもできない覚悟が明らかになりそうで、怖くてなにも言えない。それでも先輩が進んで話そう唇が動き出すのを黙って見ていた。

「私ね、貴方のことが好きなのよ」

 呆気に取られた。

「貴方がさっき言った通り私は面倒くさいことを考えてしまうのよね。その結果、そういうことになったのよ。このままだと殺されてしまうってわかっているのに、貴方といるとどうしても、苦痛を感じないのね?」

 話すうちに段々と顔が赤くなって、モジモジし始めた。どうやら本気らしい。

 反応に困っているとおじさんが笹目先輩に深刻な顔を近づけた。

「蘭子ちゃん、相手はもっと慎重に選んだ方がいい。おじさんも色々よくしてくれた女の人がいたんだけど、結婚の前になると急にいなくなってしまったんだ」

「アンタに言われたかねーよ! 結婚詐欺もバッチリ引っかかってんじゃねーか!」

「いや、彼女はいつか戻ってくると――」

 突然、車に急ブレーキがかかりタイヤの擦れる嫌な音が強く鼓膜を刺した。

 慣性で前のシートに体を固定されながら見たのは、篠岡の姿だった。逆さでフロントガラスに張り付き、笑っている。

「見つけましたよ緩居くん! 十年かかりましたけど、今度はちゃんと助けますから!」

 その口ぶりだと誤解は解けたらしい。ひとまずそれは置いといて、助けが来たことにほっとする。

「よし、篠岡と先輩の戦闘力ならなんとかなるだろ。おじさんは囮、俺は数に入れないという作戦でこのピンチを脱出するぞ」

「でも私、鉄仮面が無いから大したことはできないのだけど」

「その分はきっとおじさんががんばってくれるさ」

「それなら」

 頷きと納得しない顔を確認したところでヤクザたちの動転が治まった。

「テメぇらコラ、助かったと思ってんじゃねえぞ!」

「助かったと思ってるさ。だって筋肉バカが来たからな」

 がなりたてる言葉に余裕で返す。

 篠岡の誤解は解けていた。事実がきちんと伝わったということだ。そしてそれを知る人間はひとりしかいない。つまり遊由が来ている。

「先輩もおじさんももうなにおしなくていいから。あとは――」

 忘れ物に気を付けてゆっくり帰ろう。そう言いかけた言葉は衝撃で遮られた。急ブレーキのときよりも遥かに強く、シートに磔になる。

「気を付けて緩居くん、先輩! あと悪者のみなさんも! ああっ、ちょっと不破さんダメぇっ!」

 続けて何度も衝突を受けて、車が横転を繰り返すたびに壁も天井もなくぶつかった。車の中はもうグチャグチャでヤクザが悲鳴を上げている。

「一体なにが起こっているの?」

 笹目先輩はおじさんが体を張って庇っている。ちょっと見直した。

「助けが来たんだよ!」

「とてもそうは思えないのだけれど!」

 一際強い力で吹き飛ばされ、車が宙に浮く。

「座席に着いてシートベルト、舌は奥に引っ込めろ!」

 支持すると、全員が浮遊感に抵抗してどうにか着席すると衝撃に備えた。ヤクザまでが従っている。

 落下の衝撃。うまくタイヤで着地できたが、それでもかなりのものだった。状況がわからないでいるヤクザは放心している。逃げるなら今だ。

「ちょっと待って、腰が抜けちゃって……。もうジェットコースターは楽しめそうにないわね」

 笹目先輩は顔面蒼白だが、そんなことを言える余裕があるなら大丈夫そうだ。

 スライドドアを開けて車から出ると生き返った心地がした。なんのピンチに見舞われていたかもうわからない。

 見回すと倉庫のようだった。倉庫の、中だ。天井に穴が空いているので屋根を突き破って落ちて来たらしい。

 周囲にどこからか現れた男たちがゾロゾロと集まってくる。風体はまだ車の中にいる連中と大差なく、同僚に違いない。

「どうやら目的地に着いてしまったようね」

 おじさんに肩を借りて笹目先輩も車を降りた。言う通りここで俺たちは殺されるはずだったのだろう。今のところ彼らの計画は崩れていない。

「先輩を離せ、この悪党! やーっ!」

 走ってやって来た篠岡が笹目先輩を支えていたおじさんを平手で殴った。

「なにをするの! 彼は私の身内よ!」

「えっ、そうなんですか? そう言えば悪い人にしては苦労オーラが出過ぎているような」

「うぅ……いいんだ。殴られる身に憶えはあるから」

 おじさんが反省している内にすっかり囲まれてしまった。

「おじさんと貴方だけでも逃がさないといけないわね。仮面がないのは不安だけれど」

 着地の衝撃から回復した笹目先輩が平然と髪をかき上げる。五十人はいそうなヤクザを前に見栄を切れる精神性は、実力に自信があるというより苦痛を歓迎する趣味からだろう。

「大丈夫です! ワタシが全力でお手伝いしますから!」

 篠岡が勇ましく、頬を叩いて張り切って見せた。

 武道系も含む各運動部が持て余す、常軌を逸したそのポテンシャルなら並の男が束になっても敵わないに違いない。だがこの人数はさすがに手に余りそうだ。

 それでも、心配は要らない。

「お前らわかってねーな。俺たちが手を出す必要なんてねーよ。だって――」

 次の瞬間、さっきまで乗っていた車が忽然と消失した。派手な破壊音を聞いて横手へ目をやればその車が工場の壁に突き刺さっている。もし脱出が遅れていたら、と考えるとゾッとする。

「よっちゃん……よっちゃんどこ……」

 車のあった場所には遊由がいた。戦闘態勢の前傾で髪は逆立ち目を血走らせている。

(ちょっと、いやかなり怖ぇ……)

 早く正気に戻さなければ、おじさんがもう一度殴られて兄弟揃って意識不明で入院する事態に陥ってしまう。

「おーい……? よっちゃんはここですよー」

 恐る恐る呼びかけると、なんと飛びかかってきたので反射的に身構えてしまった。しかし遊由が俺に敵意を持つはずもなく、そんなことで抵抗できるはずもない。

「よっちゃん大丈夫? ケガは? 発作起きてない?」

 組み付くなり胸に耳を当てて呼吸音を聞かれる。

「発作なら病院の時点でもう治ってたよ。それよりお前、見境なくし過ぎだろ」

「だってだって! 病院に点滴だけ残ってて、よっちゃんいなくなるんだもん。なにかあったと思うじゃん!」

 涙目で相当心配をかけたらしいことはわかるが、それで車が吹き飛ぶのは遊由ならではだ。だがまだ同じことをしてもらわないといけないので追及するのはやめておいた。

「遊由、ここを脱出するから突破口を開いてほしい。できるか?」

 聞くなり遊由は駆け出し、手近なところへ接近してヤクザの囲いをボウリングのピンのように吹き飛ばした。

「できたよっ」

 先週の日曜日にホットケーキを届けに来たときと同じ笑顔で手を振っている。

「篠岡、お前本気のアイツと〝また〟対戦したいとか言ってたけど、アイツがお前相手に本気を出したことなんて……多分ないぞ」

「はい。もう充分わかりました。次こそは本気でやりたいですね!」

 ぐっとガッツポーズで闘志を漲らせている。まるでめげていない。

「うん。やっぱりお前もスゲーわ。っていうかここまでも走って来たんだろ? 車はともかく、遊由を追い抜くなんてメチャクチャだな」

「いや、車も『ともかく』じゃあないでしょう? それにマラソンのあとなのに……」

 笹目先輩も呆れている。共感できる人間らしさを持っているのがこのひとというところがもう事態のひどい異常性を表している。

 遊由の暴れっぷりを目の当たりにしたヤクザたちは完全に怖気づいてシンと静まり返っていた。ムリもない。

(誰だって壁には刺さりたくないからな……しょうがない)

 と考えている間に、遊由はひとりを蹴り飛ばして壁飾りにした。

「さぁ! 今のうちに早く!」

「いや、『今のうち』じゃないだろ。お前がいる限り永遠にチャンスは続くって」

 出口は大型車もそのまま入れるサイズの扉で、幸いなことに薄く開いている。

「よし、とりあえずあそこまで走るぞ!」

 あとは奪えるなら車を奪って逃走する。できなくとも、この分なら追っては来なさそうだ。警察への通報はこの場所がどこかわかるまで難しい。

「あっ、そうだ俺ケータイ取られたままだ。遊由、ついて来てくれ。他3人は出口の確保な」

 車の方へ進むとヤクザの囲いが解けて離れていった。遊由が与えた恐怖心は半端じゃなさそうだ。

(どうなることかと思ったが、なんとかなったな……)

 そう確信したとき、後ろから悲鳴が聞こえた。

 振り向くと出口の手前で大きな男が片手ずつで笹目先輩と篠岡を吊り上げている。

「邪魔が入らねえようにこれだけ人数出しといて、おっさんとガキさらって殺すだけのつまんねえ仕事も満足に出せねえのか。ああん?」

 他とは体格が違い三回りは大きく、レスラーのようだ。スキンヘッドで迫力もあり、ひと目でわかる荒くれ者だ。

「遊由!」

 声をかけると弾丸のように走り出した頼もしい背中は、大男の前で砲撃みたいな衝突音と共に停止した。大男のほうも動じていない。

「えらく元気なねえちゃんだな。そこいらの奴の手には負えねえわけだ。……邪魔だな」

 大男が両手を回して無造作に、笹目先輩と篠岡が放り投げられ宙を舞う。

 篠岡はうまく着地して靴底を滑らせ、笹目先輩は遊由が受け止めた。俺は遅れて飛んできたおじさんに押し潰された。

「よっちゃん、大丈夫?」

「平気だけど……こりゃケータイは諦めたほうがいいかな」

 登録したアドレス帳からヤクザに連絡先を知られるとあとあと面倒が起こりそうだが、笹目先輩は既にその状態だ。自分だけ気にしている場合でもない。

「テメぇらこんなガキどもになにビビッってんだ! 引いたヤツはあとで殺すぞ! こいつらを大人しくさせるのと、あとで俺様に殺されるのと、どっちがいいか考えて決めろ!」

 迫力のある銅鑼声が響き、他のヤクザに震えが走った。乱れていた列が整って囲いができあがる。遊由が与えたよりも強い恐怖心で統率が取られている。

 あの大男に遊由のパワーが通じない以上完全に形勢を逆転されてしまった。さっきまでよりも出口を遠くに感じる。

 しかし力技が通用しなくてもやりようはある。

「怖い上司に不法な仕事! そんな生活いつまで続ける? だったら俺がアンタらに新しい就職口を用意してやる!」

 この手下たちが恐怖心で支配されているなら、それから解放してやればいい。あの大男から逃げられる新しい生活を与えることだ。

「なにを隠そうここにいるコイツはこの年で経営者だ! お前たちに仕事を用意してくれるぞ!」

 大げさな身振りで紹介すると、篠岡は小さく飛び上がってポカンとした。

「え……ワタシですか? ヤクザの再就職先って、ひどいムチャ振りしますね? いいですよ、考えます。し甲斐のある苦労です。うふふ」

 早速腕組みで楽しそうに悩み始めている。コイツはコイツで頼もしい。

 何人かが迷っている風に見えるので、これはなんとかなるかもしれない。そう思っていたら、大男がいきり立った。

「ふざけんじゃねえぞ! 極道が今更他の仕事なんかできるかってんだ! テメーら、ソイツの口車に乗ったら俺様がどこまでも追い込んでやるからな」

 ボスの一声で手下たちは全員が攻撃的な顔つきになった。口々に脅し文句を吐きながら襲いかかってくる。

「あーっクソ! なんて横暴な上司だ!」

 遊由が迎撃に出て何人かを吹き飛ばし、落とした鉄パイプや木刀をこっちへ投げてよこした。それを拾っておじさんや笹目先輩に配る。

「この人数! キリがないですよ!」

 篠岡はアウトボクシングスタイルで善戦はしている。しかし一撃で戦闘不能にできるほどの力はない。

「お前は時間を稼いでくれたらそれでいい! ムリはするなよ」

 篠岡に守ってもらっている間に遊由が手下を一掃し、大男は無視して逃げる。この調子ならそれもできるかもしれない。

 だが、そう甘くはなかった。

「その元気なねえちゃんは俺にやらせろよ!」

 大男が遊由に迫った。側転してかわした拳が空を切る。見たところ全力だ。

 事故に見せかけて殺す予定でいるはずなのに、不自然なケガをさせれば偽装が難しくなることなんて考えていなさそうだ。あと先を忘れた人間ほど恐ろしいものはない。

「クッ……コイツ一体なんなの?」

 遊由の拳や蹴りは間違いなく命中し、その度に鈍い音が聞こえている。だが大男にはまるで効いた様子がない。さすがの遊由もこんなときまでは手を抜くはずがないのに。

「ああ、もう邪魔! よっちゃん、ゴメン。これちょっと持ってて!」

 遊由が投げたものを受け止める。

 なにかと思えば遊由がいつも持ち歩いているポシェットだ。保険証のコピーを始め、俺が発作を起こしたときに必要な道具が入っている。しかしそれだけにしては重い。

「キャッ! 離して!」

 悲鳴を聞いたかと思えば、笹目先輩が捕まっていた。二人がかりで羽交い絞めにされている。腕力があるとはいえ元々は大人しいひとだから、ああなったらどうしようもない。

「今助ける!」

「よっちゃんはいいから、アタシが――ぐっ」

 気を取られた遊由の腕を大男が掴み、振り回して地面に叩き付けた。遊由の体が人形のように跳ねる。すぐに起き上がるが、明らかに動きが悪くなっている。ダメージは深い。

「遊由もうやめろ! あとは任せて……って、こっちもか」

 静かだと思ったら篠岡も大勢に圧し掛かられて身動きを封じられていた。期待してはいなかったがおじさんも取り押さえられている。

 残るは俺だけ。つまり絶体絶命だ。

「終わりだな。まあ、面白かったぜ」

 大男が勝利を確信して笑う。その笑みを粉砕する手段がない。

(こうなったらもうできるだけ抵抗し続けて、偶然警察でもやってくることを期待するしかないじゃねえか)

 遊由から預かったポシェットが妙に重量感があるので、振り回せば立派な武器になる。

(とりあえずあの大男は絶対殴るぞ。遊由に痛い思いさせやがって)

 身構えてポシェットを手先からぶら下げると、チャックが少し開いていた。これではぶつかる衝撃で中身がこぼれて攻撃力が落ちてしまう。

(ん……? これって)

 開いたところからはみ出た中身。取り出してみると、鉄仮面だった。笹目先輩が処置室に置き去りにしたのを回収していたらしい。

「さすが、遊由。律儀な奴だ。これでなんとかなるぞ。……先輩!」

 まっすぐ笹目先輩に向かって走る。その進路をヤクザに塞がれた。さっきまで遊由に怯えていたくせに、すっかり勝ち気になっている。

「邪魔だどけ!」

 鼻っ柱を鉄仮面で叩いて先へ進もうとしたら、後ろから服を掴まれ地面に引き倒された。地面に胸をぶつけた弾みで指から鉄仮面がこぼれて、笹目先輩の足元に転がった。

「クソ、鎖さえ使えればなんとかなると思ったのに……」

 最期の希望が潰えた。しかし、笹目先輩は鉄仮面を見下ろし恍惚とした表情で微笑んでいる。

 そして驚くべきことが起こった。

「ありがとう。これで私も戦える。――さあ、おいで」

 主の声に応えて鉄仮面から独りでに鎖が伸び、笹目先輩の首に巻き付いて移動する。

「えっ、なんだ? 今の……」

 目撃したことを疑って目を擦っている間にすっかり装着は終わっている。

 マスク・ド・ランコの復活だ。おじさんは知らなかったようであんぐりと口を開けて言葉を失っている。

「さあ、苦痛の時間よ」

 鎖が蛇のようにうねり、笹目先輩を捕まえていたふたりを引き剥がした。更には篠岡とおじさんを解放してヤクザを残らず拘束してしまった。すべてあっという間だ。

「一件落着、ね」

 縦横に渡り壁や天井と繋がった、蜘蛛よりも複雑な鎖の巣の中心で笹目先輩が宣言するのを見上げていると、鉄仮面が自分から動いた件なんてどうでもよくなった。

(うん……こいつらが普通じゃない点を追求するだけ虚しいか)

 フロントガラスに張り付くサイコ・ホラーの篠岡。

 車を追跡して破壊するモンスター・パニックの遊由。

 鎖を生き物のように扱うオカルト・スリラーの笹目先輩。

 三者三様、立派に恐怖映画の主役を張れるインパクトを持っている。

(でも生憎、今回の題材は怪獣映画なんだよな)

 唸り声が轟き、鎖の巣が千切れて笹目先輩が体勢を崩す。

「調子に乗るなガキども!」

 拘束の鎖を砕いて大男が暴れ始めた。遊由のパワーを凌駕するのなら、これくらいはやるだろう。

「よし! アイツは無視して逃げるぞ! 篠岡、遊由に肩を貸してやってくれ」

 手を叩くと、我に返った様子で動き出す。

「待てやコラ! 殺すぞ!」

 安直な脅し文句に従うはずがない4つの背中が出口へ向かう。そのひとつが扉の向こうへ消える寸前で振り返った。

「え……よっちゃん? なにしてるの!」

 声だけかけて自分は走らず動かずにいることを遊由に気付かれてしまった。

「いいから、お前たちだけ逃げろ」

 俺が残るのは車に残した携帯電話が惜しいからではない。体力がないからだ。

 歩いて逃げられるはずもなく、ここから走れば敷地を出る辺りで発作が起こる。自分で動けもしない足手まといがいては追っ手に対応できない。

「へえ、アンちゃんが相手してくれるってのかい?」

 余裕綽々の表情で大男が近づいてくる。

「いいねえ! 自己犠牲に酔ってるバカを命乞いするよう改心させるの、大好きなんだよ。あっちのオッサンみたいにな」

 大男の視線は逃げていくおじさんの背中を指している。

 当選金のことをヤクザに明かしたこと、病院で笹目先輩が誘拐されるよう手引きしたこと。それらに納得がいった。当人も相当痛い目を見たらしい。

(じゃあ篠岡に殴られたのは、余計だったな)

 この大男がおじさんになにをしたにしても、もう過ぎてしまった痛みについてできることは限られている。仇討ちという、第三者の自己満足だ。

「おぉーい! いいのかあ? 『よっちゃん』がいぢめられっちまうぞお」

 大男が遊由たちの方へ呼びかけてニマニマ笑う。

 その横っ面を、渾身の力で殴りつけた。

 肉を叩く手応えは肩まで抜けて、地面でバウンドした大男の体は回転して壁のほうへ飛んでいく。そのザマを、縛られてもがいている手下どもまでがポカンと見つめた。

 すぐに発作が起きてしまうから運動は苦手だ。自由に動けるのはせいぜい三十秒程度しかない。ただし、その三十秒なら俺は自由だ。その時間に限れば遊由にも負けない。

 ビリビリと痺れる拳を解いて3本指を立て、こっちへ走り出しかけていた遊由によく見えるよう高く掲げる。

「三十秒! 三十秒で逃げる支度を整えてくれ。車を奪って出発できるようになったら迎えに来い! それまでこいつらは俺がここで引き受ける」

「でも!」

「『よっちゃんならできる』――だろ?」

 得意のセリフを返してやると、目が丸く広がりそれから口の端が持ち上がった。場違いなくらいに満面の笑みだ。

「うん、できるよ! それじゃあ、三十秒後に迎えに来るから」

 朗らかに返事をする、態度の急変に戸惑う周りを急かして外へと出ていく。

「えっ? 緩居くんは置いていっていいんですか?」

「大丈夫! よっちゃんは三十秒の間だけなら無敵なんだから!」

 派手にネタバレしていきやがった。

 とは言え秘密にしたところで長くは保てない優位だ。敵の立場からすれば対策を立てるほどのことでもない。

(できるだけ長引かせないとな……)

 緊張で先走る心拍数が落ち着くよう意識しながら長く息を吐き、頷く。まずは喋りだ。

「さて……。あいつらを捕まえなきゃいけないアンタらの都合はわかる。でも極道なら都合よりメンツを大切にすべきだろ? 挑発を無視して女の尻追いかけるって言うんなら好きにすればいい。ただし二度といきがったことはするなよ? ここでこんなガキから逃げた奴がどこかで恐い顔して誰かを脅かすなんて、俺は笑うからな」

 縛られていた手下たちが次々と鎖を振り解いて立ち上がる。摩擦も弱く伸縮性のない金属ではほんの少しズレるだけで拘束力を失う。いつまでも封じていられるわけもなかった。

 見たところ挑発に乗せられてカッカしているのは半分ほどだ。まだ足りない。

「それともメンツにこだわるなんて今更か? こんだけ寄ってたかってガキ殺して昏睡状態のオヤジから金巻き上げる計画に参加してるんだもんな。分け前はいくらだ? それがアンタらのプライドの値段だよ」

 少し増えたが、全体の意識となって少数派を飲み込み誘導するにはもっと欲しい。

(ああもう、あとは童心に返させるくらいしかないぞ! ええと、『君たちはこんな大人になりたかったのか?』……)

 焦って役に立ちそうにない考えを働かせている間にふと気が付いた。復活した大男が近づいてくる。

「あっ、そうだ! ここに残ればあのハゲがボコボコにされるところを見られるぞ!」

 相当に人望がなさそうなのでこれで食いつく奴もいそうだ。

 そんな期待を持って指差した手が、寒気で反射的に引っ込む。大男が放つ凄味に気圧された。

 言葉もなく、たっぷりあった余裕がすっかり消えた顔つきは憤怒で赤く険しく煮えたぎっている。あれだけ派手に吹っ飛んだのに足取りはしっかりと確かだ。鼻血も出ているしダメージはそれなりにあってほしいものの、どちらかというとアドレナリンがかえって手に負えないバケモノにしている気がする。

(こりゃナメ過ぎたかな……初めて、恐ぇ)

 しかしどんなに恐ろしくとも、この大男を倒さない限り危機を脱することはできない。もっと言えば、倒したところで笹目先輩はきっとまた狙われる。

(でもここで俺がたっぷり恨みを買えば、負担は分散するかもしれないからな)

 それが叶うなら俺はもうここで、絶対絶命で構わない。そのつもりで残った。

 どうせいつかロクでもなく苦しんで死ぬだけとわかっている人生が少しでも意味のある終わりかたをできるなら、もうそれで構わない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る