ナースコール

 駅前の広場は日曜の正午でピークを外しているというのにかなりの人出だ。さすが地元とは違って街中の駅なだけはある。

 気分がムシャクシャしたのでマラソンが終わったあと家には戻らず制服のまま街へ出てきた。こんなときこそ苦労をして気分を、人生を充実させなければ。

(なのに……あれー?)

 ベンチから動かずにボーっとしている。普段なら毛嫌いする怠惰の中で、焦燥感もなにもなくまったく気持ちが奮い立たない。目の前にはたくさんのひと、苦労の芽があるのに。

 地図を片手に立ち尽くす旅行者、落し物に気付かない通行人、迷子の子供、階段に手こずる老人。なにがあったのか体格の良い男たちに正座をさせて怒鳴り散らすスーツの女。

 どれもいつもなら大喜びで飛んでいく困りごと・揉め事なのに、どういうわけか今はただ眺めている。

 人助けに体が動かないのは気持ちが萎えてしまっているのと、もうひとつ理由がある。

 苦労オーラが見えない。今までなら苦しんでいるひとや困っているひとに様々な形でその符丁が見えた。どれだけ平然として見えるひとでも助けを求めていると見抜けるので、ワタシはなにも考えずにそこへ向かって突撃すればよかった。

 しかし今はそれが見えない。確かにみんな困っているはずなのに、目印の苦労オーラをまったく感じない。彼らが困っているのかがわからない。

(ああでも、子供は助けないと)

 義務感でどうにか腰を上げると、迷子のところへその子の親らしい男女がやって来た。

 苦労し損なった。いつもならそう思う場面だ。

(ほっ、よかったねえ)

 離れていく親子連れを見守り、それから、またどうすればいいかわからなくなった。ベンチに座り直す理由も見つけられない。

 ポケットで携帯電話が鳴った。

(通学サービスの関係からだったら、今は話したくないなあ)

 恐る恐る薄目で画面を見ると、妹からだった。

『おねーちゃん? 今ドコにいるの? また変なコトしてない?』

 妹にはいつも「がんばり過ぎ」と心配をされていたから、このなにもできない状態を歓迎してくれるかもしれない。今のワタシでも誰かを喜ばせられるかもしれない。

「あのね、おねーちゃん……がんばれなくなっちゃったよ」

『おねーちゃん……。今ドコ? すぐ迎えに行くから!』

「わわっ、えっ? 大丈夫だよ。もう帰るとこだからそれじゃあ家でね!」

 大声に驚いて通話を切ってしまった。

 喜んでもらえると思ったのに、怒らせてしまった。悲しい。

 そして、腹が立つ。

(こうなったのも全部全部、緩居くんのせいなんだからね!)

 今の状態でも唯一心が滾る瞬間は、クラスメイトの男子のことを考えたときだ。

 彼にはよりにもよって小さい頃のトラウマをネタにして騙された。それを思い出すと怒りで火を吐けそうな気になる。

 でもそれだって長くは続かない。炎は喉まで出かかったところで萎んでしまう。

 それまではずっと怒っていたのに、今日のマラソンで発作を起こしながら追いかけてきた緩居くんを見たら、「どうしてワタシを」「なんであそこまでして」騙すんだろう――って彼の事情が気になるようになった。

(ううん……どんな理由があったって、許せるわけない)

 もう一度怒りが膨らんで、そして縮む。

「なんか疲れるな……帰ろ」

 呟きの漏れた口を押さえ、駅舎へと体の向きを変える。

 すると遠くからワタシの名前を呼ぶ声が聞こえた。

「篠岡――篠岡さん! 待って!」

 見てみると、同級生がこっちへ走ってきていた。

「あ……不破さん」

 学校の部活をいくつも渡り歩いたけれど、どれも目標を掲げず目指さずの気の抜けた集団ばかりだった。そんな中で唯一本気で向き合ってくれたのが彼女だ。彼女だけはワタシの完全燃焼に付き合ってくれる。

(そうだ。不破さんだったら、ワタシをスッキリさせてくれる)

 このモヤモヤした気分もなにも考えられなくなるまで全力で動けばきっと晴れる。

「ねえ、不破さん――」

 なんでもいいから一試合頼もうと思ったら、目の前まで来た彼女の様子はおかしかった。スタミナのある彼女が膝に手をつくくらい呼吸を乱していて、顔に大粒の汗をかいていた。しかもマラソンのときに別れた格好のままで、体操着姿だ。

(なにかトラブルがあったんだ。ワタシ、苦労オーラが見えないとそんなこともわからないんだなあ……)

 よっぽどのことみたいで、不破さんは息が整わないうちから話し始めた。

「よっちゃん見かけなかった? 緩居由総!」

 そう言えば彼女は彼の幼馴染らしい。

 顔が思い浮かんで苛立ちが起こるはずなのに、どうしてかそうはならなかった。寂しいような、焦るような。どっちにしても落ち着かない。

「不破さんが病院に連れて行ったときから、見てませんけど」

 様子からして居場所がわからなくなったんだと思う。犬猫じゃあるまいし、男子高校生にする心配じゃない。彼のことだからきっとどこかで怠惰に過ごしているに決まっている。

「病院からいなくなっちゃったの! まだ発作起きてたのに、点滴だけ置いてどこか行っちゃうなんて普通じゃない。きっとなにかあったんだよ」

 探すのを手伝うよう頼まれたら断ろうと言葉を準備していたのに、予想外の話を聞かされて困惑した。

(緩居くん、病院とか好きそうだけどな。ベッドから動かなくていいし、ごはん出るし、喜んで入院しそう)

 そんな彼が病院から姿を消した。もし本人にとって不利な事件に巻き込まれたのなら、今の彼からは苦労オーラが出ている。いつものワタシなら見つけられる。

「ごめんなさい。今のワタシじゃ、力になれないから」

 自分の無力が恨めしい。

 いたたまれなくてこの場を離れようとしたら腕を掴まれた。

「篠岡さんアタシ、篠岡さんに謝らないといけないの」

 目に涙が浮かんでいる。不破さんは追い詰められて混乱しているみたいだった。

「篠岡さんに嘘をついた。十年前によっちゃんと篠岡さんが会ってたのが嫌で、アタシ嘘をついたの」

「えっ、それじゃ――」

 十年前に男の子を見殺しにしたトラウマ。その男の子を騙って緩居くんはワタシを騙そうとした。そうとわかったのはこの不破さんが証言で暴いてくれたからだった。

「でも本当はそれが……嘘? じゃああのときの男の子は――」

「よっちゃんは十年前に山で死にそうになってた。篠岡さんが見たのはよっちゃんだよ!」

 不破さんが嘘をついていたのなら、緩居くんが話したことは事実だ。

「ああ、よかった。そうだったんだ」

 深く吐いた息と一緒に悪いものが全部出ていったみたいに胸のモヤモヤが晴れた。感覚も今目覚めたみたいに鋭くなって、周囲の異変に気が付く。

 どこを向いても夥しい数の白い帯がたなびいている。はためく勢いと乱れぶりはとてつもなく激しく、現実にはありえないと思えるほどだ。

(現実じゃない……? ああこれ、苦労オーラだ)

 帯はワタシを中心に渦を巻き、見下ろせばと首と手足に結びついていた。つまりワタシの苦労オーラってことになる。長いハチマキの形をしたそれは、見ているうちに急速に薄まると消えてなくなった。

 視界が晴れ、あちこちでは様々な形の苦労オーラが蠢くのが見える。みんなの苦労が見える、いつもの光景だ。

(そっか……ワタシから出てたから、外のオーラがわからなかったんだ)

 納得していると目の前で頭が下がった。身長差があるのにワタシの顔よりうんと低い。

「お願い! よっちゃんを探すの手伝って!」

 頷く不破さんの手にはコードが巻きついて見えた。垂れた線の片側がちぎれ、もう片側には掌に乗るサイズのスイッチが付いている。それがどういう意味合いを持つのかはわからないけれど、それが彼女の苦労オーラみたいだ。

「わかりました。その代わり、全力ですよ。完全燃焼で緩居くんを探しますから、付いて来てください」

 ポケットから実体のハチマキを取り出して額に当てる。ぐっと力を入れて巻くと自分の芯が定まったような気がした。

 焦燥でも義務でもなく、胸に燃えるかつてないエネルギー。その由来は自覚している。

 あのときの男の子が生きていて、トラウマが解決したということだけで喜んでいるんじゃない。これでもう緩居くんを「嘘つき」と憎まなくてもよくなった。それが一番嬉しい。

(そっか……緩居くんを嫌うのは、ワタシにとって苦労だったんだ)

 だったら逆のことを思えば、いくらでも力が湧いてくるような気がした。

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