鉄仮面の中身
目を覚ますと見慣れた場所にいた。と言っても自分の部屋ではない。真っ白な壁や金属むき出しの器具など普通なら落ち着かないインテリアだが、個人的には心から安らぐ。
ここはかかりつけ病院の処置室――仕切りの配置からして処置室の2番だ。病人という立場からは自分の部屋よりも安心できる。
起きたら腕に点滴の針が刺さっていることも、当然のように遊由がそばにいることにも戸惑いはない。いつもの流れだ。
点滴には狭くなった気管支を元に戻す拡張剤や痰を抑える薬物が入っている。要は日頃錠剤で摂取している成分をダイレクトに血へ送り込んでいるわけだ。
そのおかげで発作はもうほとんど治まっている。点滴が終わっても症状が改善しないようなら入院を勧められるが、この分なら平気そうだ。
「ふん……なるほど、やっぱりお前すげえな」
点滴が尽きるまで動けないので、マラソンで別れたあとの出来事について話してもらっていた。そうしてまず出た感想がそれだ。
「あのふたりを同時にって……じゃあ、片手であしらったのかよ……。もうな、お前には今後とも逆らわないようにするからな」
「あっ、ホラ。またアタシのこと〝筋肉バカ〟みたいに言う」
「言ってはねーよ。いつも喉まで出かかったところで堪えてるっての」
ここへは篠岡が呼んだタクシーで運ばれて、篠岡と笹目先輩は車に乗らなかったそうだ。ふたりのことはもちろん気になるが今は遊由に心配をかけたくない。
「実は気を失う前のことをほとんど憶えてないんだが……俺、なに喋った?」
遊由経由で話をしたことと、なにか伝えようと必死だったことはわかる。しかしそれで実際になにを口にしたかが記憶から抜け落ちていた。
「うーん……。教えるのはいいんだけど」
質問に、遊由は目を閉じて唸る。迷っているらしい。
「でもそれ知ったら、よっちゃん多分照れちゃうんだよね。それで言ったことた取り消されちゃったら、アタシはとってもガッカリするんだよ」
ものすごくふんわりした話で要領を得ない。
「うんうん、つまり?」
「言いたくない……かな」
遠慮がちに、それでもやはり唇は尖らせている。
無理強いすれば聞き出せるかもしれない。しかし処置室で付き添っている間いつもならずっと泣きそうにしている遊由が、今回に関してはなぜだか機嫌が良く目元が笑っている。
(藪をつつくよりほっといたほうがいいか。約束とかだったら守らないといけなくなるし)
自分の発言なのだから当然気にはなるが、「忘れた」と明言しているのだからそれについて責任を求められるようなことはないだろう。
「それじゃアタシ、ちょっとおばさんに電話してくるね。『病院に来てますけど、もう心配ないです』って」
「ああ、頼む」
マメに担ぎ込まれているので病院で見せる遊由の付き添いぶりは熟達している。なにもかも任せてしまって、あとは点滴が枯れるのを待つだけだ。
「あの……ちょっと、いいかしら」
天井を見上げてじっとしていると横から声がかかった。見れば遊由が出ていった戸が薄く開いて、向こう側から笹目先輩の顔が覗いている。
「うぉっ……なんだ、いたのか。入って来いよ。アンタがそんな風にしてるとほぼホラーなんだから。患者の生命力を吸って回る的な和製ホラーな」
「貴方、私をなんだと思っているのよ」
「恐怖の鉄仮面女」
「……まあいいわ。それじゃあ、失礼するわね」
戸を開けて処置室へ入ってくると、笹目先輩体操服のままで軽く汗ばんでいた。
ここへは例によって篠岡が呼んだタクシーで運ばれて、ふたりは乗らなかったというから走って追いかけてきたらしい。マラソンのあとだというのになんて元気な。
そして笹目先輩はひとりだった。篠岡は付いて来ていない。
(ふん、嘘つきの汚名は強力だな)
病人の看護という苦労のしどきを見過ごしている以上、篠岡には相当嫌われていると考えられる。
これからどうしたらいいのかとまいっていたら、笹目先輩がおずおずといった様子で質問してきた。
「篠岡さんから少し聞いただけなのだけれど……病気なの?」
そう言えば篠岡には初対面で見抜かれていたものの、笹目先輩には話していない。進んで触れ回るようなことでもないが。
「ええ、まあ」
機会が訪れた今でも話す気にはならない。
「それじゃあこうなるとわかっていたのに、あんなことをしたの?」
笹目先輩は「信じられない」という顔をしている。怒っているようですらあった。
「ムチャをするな」ならよく聞くもっともな意見だと思うし俺だって言う。しかしマラソン大会は毎年開かれている、珍しくもムチャでもない学校行事だ。
健康な人間なら普通にやれることを当たり前に求められる世の中でどう生きればいいのか。そこまでを聞かせてくれたひとはいないし、それに回答する責任が笹目先輩にあるとも思わない。
なのでここは話を変えて回避しよう。
「もしかして俺がマトモにマラソンやって追いついたと思ってる? いや、そんな体力はねーよ。わざとコースアウトして先輩たちが折り返して来たところに合流しただけさ」
スタート地点とゴール地点が同じ校庭なので、要は俺がスタート近くでモタモタしてる間に先頭の笹目先輩と篠岡はゴール寸前まで迫っていたということだ。しかも予想より速くて先回りするつもりが後ろに回されてしまった。
「そもそも男子と女子じゃ指定されたコースが違うってのに、それ以前のズルをしたんだよ俺は」
普通にマラソンをしても好成績どころか完走すら望めない。なら授業態度としては叱られることになっても、せめて別の収穫を得ようと踏み切った。それで功を奏したかはまだわからない。篠岡に関しては空振りだったようだが。
「ズル……? 私はそうは思わないわ。だって貴方、全然楽をしていないじゃない。私たちのことなんて放っておけばいいのに、どうしてわざわざ大変な想いをするの」
笹目先輩の表情には困惑が浮かんでいる。それでもこうして直接ぶつけてきているから、関心を持たれる程度には引っかかりを得られたらしい。
「先輩、俺は病人なんだよ。苦しかったり辛かったりするのは特別なことじゃないんだ。だから『わざわざ大変な想い』なんて、俺はしてないよ」
今が苦しいのは構わない。この先も苦しいのはうんざりするが平気だ。そもそも薬でムリヤリ長引かせている命で贅沢は言えない。
しかし笹目先輩は違う。幸せになれるひとだ。どこまでも手を伸ばせるひとだ。
なのに――
「『わざわざ大変な想い』をしてるのは、先輩のほうだよ」
しばらく待っても反論が来ない。笹目先輩は気苦しそうに眉を寄せ目を伏せている。
(あれ……? 言い方キツかったかな。傷つけたいわけじゃあないのに。ええと、フォローしないと)
迷って言葉を探す。
「まあホラ、今はアンタが仮面を被ってないだけで満足するさ」
これで間に合うだろうか。以前よりもマトモに話を聞いてくれている気がするし、まるで嘘でもない。
先輩は鉄仮面を取り出ししばらく撫でてから、荷物入れのカゴへ置いた。
「元々この病院では……被らないようにしているだけよ」
「へぇ、先輩もココよく来るんだ?」
救急窓口もある大きなところだから不思議でもないが、かかりつけの病院があるということはなにかしらの持病があるということだ。
もし重いものだったらと考えて聞くに聞けずにいると、少しして笹目先輩は意を決したように頷いた。
「貴方の幼馴染、彼女はすぐに戻ってくるのかしら?」
「遊由ですか……。えっと、親に連絡に行って、多分先に清算を済ませてくると思うんですよ。アイツ俺の診察券も保険証のコピーも持ってて……。ええっと、今日は日曜だから清算ができなくてですね、多めに支払っておいてあとでお釣りを受け取るというシステムになっているんですね」
笹目先輩の考えが読めなくて不安だ。なんだか嫌な予感がしてつらつらと余計な言葉が出た。
一方笹目先輩の眼差しは力強い。
「君に会ってもらいたいひとがいるの。歩けるかしら? 君の幼馴染がいれば反対するだろうから、彼女が戻るまでに済ませたいわ。もし必要なら肩を貸すし、車椅子を貸してもらってきてもいいから」
「それなら、そこの点滴を吊るすヤツ持ってきてもられば充分だけど」
指差すと笹目先輩はすぐに点滴台を運んできた。
車輪が付いた、頭より高い位置に点滴を吊るす為だけの棒。入院中の我が友――点滴台。これさえあればトイレでも売店でも病院内を自由に移動できる。
「それで、俺は誰に会えばいいんだ?」
「私の父よ。ここに入院中なの」
両親に恋人を紹介するといった風な、冗談を挟む余裕もない。
笹目先輩の眼差しは今も確かだが、自らを奮い立たせている――そういうムリを感じた。
「わかった。こんな病人が助けになるんなら、いいんだけどな」
寝台から足を下ろして立つ瞬間、震える声で「助けて」と聞こえた。驚いて見上げれば、笹目先輩は涙目で強く唇を噛んでいた。
「任せとけ。俺はなんでもできるらしいから」
移動は急ぎ足になった。
笹目先輩に案内される形で後ろについたが、ここの入院病棟なら知っている。しかも行き先は同じ内科だ。
(うおっ、個室だ……。そういや入ったことないな)
笹目先輩が前で止まった病室で静かに驚く。そんなことを口に出せる雰囲気じゃあない。
病室の番号の下に「笹目保生」の札。面会謝絶の注意書きはなし。入室前に手を消毒する用意もされていない。
重症というわけでもないのなら、金を持っているから個室を選んだだけというパターンの患者だろうか。もしそうならいけ好かない。
ノックも声かけもなく、笹目先輩は戸を開けて中へ入った。
遠慮しながらあとへ続くと、中の様子はTVで見るような成金趣味丸出しな内装の個室ではなく、ひとり部屋という以外は他の大部屋となにも違わなかった。
「お父さん、蘭子です」
笹目先輩はベッドに寝ている人物に声をかけた。点滴で繋がれたひどく痩せた男。笹目先輩の鋭さには見合わない柔和な顔をしている。娘が見舞いに来たというのに目を閉じて動かない。
(なんだ……眠ってるのか)
顔色は悪くない。点滴も内容はわからないが1本で、仰々しい設備もない。本人を見ても重病という印象はまったくつかない。
「今日はね、マラソン大会があったんです。でも途中で抜けることになってしまって、まだ私、体操服を着ているんですよ」
「え、先輩? お父さんは眠って――」
意識のない相手に一方的に話し始めた笹目先輩に驚いて言いかけた、その途中で悟った。
「父は……目覚めないのよ。もう半年になるわ」
「それじゃ、ノックも必要ないわけだ。……一体どうして?」
事故なら外科だ。昏睡が長く続くなら移されるかもしれない。ただ、もし大きな事故なら治療の名残りが見当たりそうなものだが、一切ない。
「半年前のことだわ。……宝くじの一等が当たった父さんは、びっくりして意識を失ってからずっと――」
宝くじ当選→びっくり→半年昏睡。耳を疑いたくなるが、改めて整理しなければならないほど複雑な事情でもない。
「ぶふっ――なんだそりゃあ!」
思わず吹き出してしまって笹目先輩から睨まれた。
会う相手は入院していると言うし、篠岡と同じく思い込みで殺人者を自称するんじゃないかとひやひやしていたら、コレだ。
「いや『なんだそりゃあ』だろ、こんなもん。アンタもそのオッサンも気が小さ過ぎるんだよ。『宝くじ当選! これで大金持ちだ! やったぁ!』『親が倒れた! これで自由だ! やったぁ!』――くらいの感想で丁度いいんだよ」
病室で騒ぐのは非常識だが、そんなことに構っていられないくらいに馬鹿馬鹿しい。「そこで寝ているのは病人じゃない」という屁理屈が正当に思えるくらいふざけた状況だ。
緊迫の空気がさっぱりなくなった。気を取り直してこの先の話をマジメに聞くなんてできやしない。 それが笹目先輩には不満なようだった。
「ちょっと、部外者には滑稽に見えるかもしれないけれど、うちは父子家庭なの。父が唯一の家族なの。きっかけがどうであれ私にとっては絶望だということを考慮してもらいたいわね」
「受け止め方で違ってくるものを絶望なんて呼ぶんじゃない。アンタも俺も、絶望なんてまだ知らないんだ」
「なにもわからない部外者のくせに――」
「いいやわかるさ。アンタの言う『人生は良いこと半分、悪いこと半分』ってのは、これが原因だろ」
笹目先輩は遮られた言葉と一緒に唾を飲み込んだ。
(図星だな。まあ宝くじが当たったっていう幸運と父親が倒れたっていう不幸、これが揃えば誰にだってわかるさ。だからこそ先輩はその安直な答えに嵌り込んだんだ)
緊張が解けて気持ちが軽くなったからか、脳が冴え渡って次々にヒラメキを起こしていく。今なら遊由の本音だって見抜けそうだ。
「アンタは父親がこうなっているのに自分だけが無事でいることを罪に感じた。そして自分が不幸になれば父親が目を覚ますと信じた。他にできることもないから、せめてそうしなければいられなくなったんだ。つまり『完璧な幸福』ってのは父親が意識を取り戻すことだ。どうだ! どんどんわかってきたぞ!」
矢継ぎ早に話して少し息が切れ始めた。このままでは興奮で発作が再発して入院させられてしまいそうだ。だが止まれない。
「けどこんなことになってるのはこのオッサンが『肝っ玉ちっちゃいヤツ』っていう以上の意味なんてねえんだよ。なのにそんな方法は間違ってるからだからもうやめろ」
「お父さんの悪口はやめて!」
今度は笹目先輩が大声を出した。完全に激昂している。
「なにがわかるって言うの? 今日ほんの少し知っただけの貴方に、私のなにがわかるって言うの!」
荒れた声を聞きながら、思い知った。
気持ちを口に出すことは大切だ。そうしなければこんなことさえ伝わらない。
「わかる。アンタが俺をここに呼んだのは自分のことをわかってほしいからだって、わかる」
宝くじの当選なんて口外すれば面倒が起きるとわかり切っている。なのにこうして打ち明けたのは、俺たちの間に崩れない信頼があるからではない。笹目先輩が自分で見つけた結論を疑い始めたからだ。俺が破ると期待があるからだ。
(任せとけ、期待に応え……うん?)
いつからか、騒ぎを聞きつけたらしいナースが戸を薄く開いてこっちを見ていた。何度も入院しているからよく知っている、この病棟の婦長だ。
どうして騒いでいるかを飲み込んでくれたようで、婦長は頷きと同時に親指を立てた。「任せる」と眼が語っている。
ああして騒ぎを見逃すどころか応援する姿勢が出るとなると、笹目先輩の厄介さは病院側にも筒抜けと考えてよさそうだ。彼らもまた笹目先輩が救われることを望んでいる。
(期待が増えた――っていうか、そもそも本人が望んでるんだからな)
必ず叶えてやらなくては、と決意が強まる。
「そんなこと、言ったって……どうしろって……言うのよ」
笹目先輩は俯き、声のトーンを落として雨垂れのようにぽつぽつと言葉を溢した。興奮が落ち着いたというより消沈して見える。今にもすすり泣きに変わりそうだ。
「私は……どう過ごせば……いいの」
惑う笹目先輩に、かける言葉はもう決めてある。できるだけ勇気づけられるように、精一杯声に力を込めた。
「幸せになればいい」
これは昨日、俺が遊由に言われたセリフだ。他人の状況に当て嵌めて考えればそれがどんなに正しいかよくわかる。
「お父さんが目を覚ましたときに先輩が不幸だったら、お父さんは自分を責める。『自分がふがいないから娘が苦しんだ』って自分を赦せなくなる。それは多分、今の先輩がお父さんに対して抱いている引け目と同じ辛さだ」
笹目先輩の体が力んで、唇が細く白くなった。
「そんなことは承知の上よ。でもお父さんに元気になってほしくて、それ以外のことなんて考えられないわ!」
意地の悪い言い方をしてしまったかもしれない。笹目先輩の表情に窺えるのは単なる怒りではない。傷ついている。
でも今は〝否定〟が必要なときだ。二度と同じ道を選ばせないために徹底して論破する。
「考えなくちゃダメだろ! 先輩の言い分じゃ次はお父さんが苦痛を肩代わりしてもらった幸運を支払わなくちゃいけなくなる。そうしたらそれもまた引き受けるつもりか? そんなことしてたら永遠に誰も幸せになれない! だからもし運命を望み通りにできるとしても、そんなやり方は選んじゃいけないんだ!」
これで先輩が篠岡のように俺を嫌うとしても構わない。「伝われ、伝われ」と願いを込めた。
「同じように格言を信じるなら他にいいのがあるだろ。『笑う門には福来たる』なんてどうだ? 先輩が欲しい〝完璧な幸福〟が来るまで笑ってればいい。だから、アンタはずっと笑ってろよ!」
初めて会ったとき、ベンチで話したときにはもっと楽しそうにしていた。あれから色々あって先輩も事情を打ち明けてくれて、確かに進展しているはずだ。それなのに今、笹目先輩は怒りながら涙を流している。
「笑えるわけ……ないじゃない! 私が笑わないから、それでお父さんが目を覚まさないとでも言うつもり?」
「いや、アンタ結構笑ってるから! ただもう小難しく考えないでフツーに生きてればいいんだよ。……オイ、大丈夫か?」
怒りのあまり、なのか足がフラついている。椅子に座らせようとしたら差し伸べた手を払われた。キッと睨まれただけでもう反論さえ来ない。
(なんだよ……。俺が関わってもこのひとを苦しめるだけなのか?)
嫌われる覚悟はしていたつもりだ。しかしこうして実際に憎しみをぶつけられると、つい怯んでしまう。どうしたらいいのかもうわからない。
言葉に迷っていると不意に出入り口の戸が開いた。
振り向くと見知らぬ中年男が立っている。俺を見て少し驚いてから、笹目先輩へ目を移しホッとしたように笑いかけた。
「蘭ちゃん……やっぱり来てたのか」
「おじさん。お見舞い、来てくれたのね」
笹目先輩の親戚らしい。よく見ればベッドで寝ている笹目先輩の父親によく似ている。やつれているところまでそっくりだが、眼の下にクマがある分むしろ不健康にすら見えた。
「あー、お友達? ちょっと話があったんだけど……ムリかな」
視線がこっちを向いたので、掌を見せて促す。
「俺のことはお構いなく。でも……まだ先輩と話したいから、ロビーで待ってていいかな」
自分が笹目先輩になにができるかはわからない。得になる自信もない。だからと言って引き下がるつもりはない。
(もう楽に結論出して逃げねえぞ。俺はちゃんと悩むって決めたんだ)
色んな場面で散々と飽きるくらいに諦めた。そんな腐った生き方を終わらせた決心を早々に手放してたまるものか。
「そう……。それじゃあ、またあとで」
笹目先輩は頷きと幾らか柔らかい声で応じてくれた。
事情を打ち明けてくれたのだから俺を遠ざける意思がないことはわかっている。
(不愉快な存在を身近に置いて苦痛を味わいたい、っていう線も捨てきれないんだよな)
真意が読み取れないことで気持ちは焦るが、急いでもきっと答えは出ない。約束できたのだから、ここは待つべきだ。
「それじゃ」
逸る気持ちを抑えて軽く手を上げて挨拶を返し、笹目先輩の父親とおじさんには頭を下げて病室を出た。
(親戚のおじさんか……仲は悪くない感じだったな。先輩のこと、わかってるのかな)
点滴台を押し入院病棟を出てロビーへ移動した。日曜で通常の外来診療もないのでガランと空いている。
椅子に腰を下ろしてから、思いついてすぐにまた立ち上った。ロビーのもう半分を横切って外へ出るとポケットから携帯電話を取り出す。
マラソンを途中で抜けたので未だに体操着だが、本当にいつ死にかけるかわからないので連絡手段は常に手放さないようにしている。教師には秘密だ。
選ぶ呼び出し番号は通話回数最多の遊由、ではなく通話時間最長の陽子さんだ。声を聞いて折れそうな心を癒したい。
『はぁい、由総くん。おねーさんですよ?』
コール音が鳴ったかもわからない一瞬のタイミングで通話が繋がって早速声が聞こえた。その慌しさの割に声色はまったく落ち着いている。
陽子さんに電話をかけるといつもこうだ。まるで待っていてくれたように感じられるからつい遠慮を忘れてしまう。
『なんだか久しぶりな気がするね。連絡待ってたのよ?』
一昨日の夜に会っているから「久しぶり」なわけがないのにこう言われてしまう。それくらい頻繁に縋ってきた。陽子さんの声じゃなかったら嫌味と受け取ってしまうところだ。
「いや、うーん……実は俺、もうあんまり陽子さんに頼らないようにしたくって」
『ヱ』
蛙が潰れたみたいな、変な音が鳴った。受話口からは更に遠くで崩れるような物音や、がなり散らす低い声が続いて聞こえる。
「あれ、陽子さん? もしかして取り込んでた? ――うおっ」
なにかわらかない内に一際大きな、ドスの利いた高音が轟いて思わず電話を耳から離した。電波越しでも直接殴りつけられたような迫力だ。
「ええっと……陽子さん」
恐る恐る受話口を耳に戻すと、静かになっている。
『由総くん、ゴメンネ。ええっと……今映画館にいるのよ。まだロビーなんだけど、上映中のところから音が響いていたのね。でももう離れたから大丈夫』
「ああ、なるほど。すごい迫力のアクション映画なんだろうね」
そう言えば銃撃らしき音も聞こえていて、音だけでもものすごい臨場感だった。ちょっと興味があるのであとで調べてみよう。
「じゃあこれから映画観るところだったんだね。ゴメン、お休みなのに電話しちゃって」
デートかどうかは答え次第で傷つくので知りたくない。陽子さんは女神なので俺だけの特別なひとにはできないが、そういう話を聞かされると思うと微妙な気分になる。
考えてみれば笹目先輩のことを陽子さんに相談はできない。いくら非常識で馬鹿馬鹿しくても悩みは悩みだ。安易に話を広めていいわけがなかった。
『ううん! ちょっと仕事で出てきてるだけだから』
映画館に用事とは、一体どういう仕事をしているんだろう。
陽子さんの仕事については、今まで尋ねたことはあるが、毎度はぐらかされてきた。
『それよりさっきの……私に頼らないようにしたいって、一体どういうこと? もしかして……気づいちゃったかな』
陽子さんが仕事の話をしたがらないのは、きっと内容を知れば俺が忙しさを気にしてしまうと心配しているからだ。これは俺が陽子さんから自立して対等な関係に近づかない限りは変わらない。
「いや、俺まだ知らないよ。でもそのことも普通に話せるようになりたいんだ。だからあんまり頼らないようにしようって、そう決めたんだ」
『その事情ならなにかしなくてもね? 由総くんが高校を卒業したら合法――じゃなくて、ええと、と、とにかく会って話そうよ! 今すぐ……はムリだから今夜……もちょっと遅くなるかもしれないけど、由総くんの家の近くでいいから!』
陽子さんがテンパっている。珍しく、というより初めてかもしれない。
(女神さまでも慌てることがあるんだなあ……)
なんにしても陽子さんのほうから会いたいと言ってくれるなんて嬉しいことだ。
「うん、わかった。連絡待ってるね。でも仕事忙しいならムリしなくていいよ」
『由総くんに会うのがムリなんてこと、おねーさんにはないんだよ。それじゃあね!』
通話の終わり際はいつもならもっとゆったりしていて「そっちから先に切ってよ」の応酬になるところが、今回は慌ただしく切れた。また映画の喧騒が聞こえていたからやっぱり本当は忙しいんだと思う。
(日曜まで働いてるなんて大変だな。なるべく早く休んでもらうには駅の近くで待機しといたほうがいいか……。さてと)
通話が終わったのでロビーに戻り、椅子に寝そべった。
気分よく陽子さんに会いに行くためにはこちらの問題も片づけておかなければならない。というほど片手間で済ませられるほど事態は簡単でもない。
(笹目先輩を救うにはお父さんが目を覚ますのが一番だけど、それは俺にどうにかできることじゃない。『お前の娘の乳を揉んだぞ!』とか耳元で言えば飛び起きるか? いや……マジメに考えよう)
深呼吸を挟んで、目を閉じ思考に没頭する。考えなければならない違和感がある。
(変なんだよな……。『宝くじに当たったせいで不幸が起こった』っていう思い込みが始まりなら、まず当選金を手放せばいいじゃないか。自分で苦痛を稼ぐよりそっちが先だろ)
それにその前提は父親と大金の価値を同等と見なしていなければ成立しない。
(先輩はそういう風に思うひとじゃない。もしそうなら自分で苦痛を味わってまで助けようなんてしないはずなんだから)
なにかしらの理由で当選金を手放せない理由がある。大金が必要な理由がある。
(宝くじの当選……親戚……。あっ――)
座面を突っ張って体を起こし、勢いが付き過ぎてよろめきながら椅子から立ち上がる。
(成功すると親類縁者が増えるって、よくある話じゃねえか!)
笹目先輩から離れたのは失敗だった。あのおじさんの目的は見舞いではなく〝たかり〟だ。
急いで病室へ戻ろうとしたところで、背後で玄関の自動ドアが動く音がした。
なんだかとても嫌な予感がした。完全に勘だ。ここで振り返らなければあとあと後悔することになると確信が生まれる。
笹目先輩がいた。大きな箱型の車に乗り込むところで、ドライバーもさっきのおじさんとは違う柄の悪そうなスーツの男だ。一瞬見えた笹目先輩の横顔は笑っていた。恍惚とした、不運を歓迎する表情だ。
「ホラ見ろ、直感ドンピシャだよ!」
手の甲に張り付いた管をむしり取って注射針を引き抜き、全速力で走った。
「ちょーっと待ったぁ、フザケんな! また性懲りもなく苦痛味わおうとしやがって!」
閉まりかけたスライドドアに張り付くと、既に中に座っていた笹目先輩は目を白黒させた。その隣でおじさんも同じく驚いている。
「先輩、そのオッサンに当選金巻き上げられたんだろ? また来たってことは全部渡したわけじゃなかったんだ。それで――」
話しながら笹目先輩の腕を掴んだ。引き摺り下ろすべく力を込めるその寸前、後頭部に衝撃を感じた。
「ぐっ――なんだ?」
一瞬意識が飛んで、動転している間に車の最後部に押し込まれた。ポケットから携帯電話も抜き取られる。
そうしている間に車はもう走り出して車道に出た。これはマズイ。
「強引な連れ去りかと思ったら、もう完全に誘拐じゃねえか。気付かれたらやめるだろフツー」
ぶつけて痛む体のあちこちをさすりながら、車内の様子を確認する。
知らない男が3人。運転席と助手席にひとりずつ、もうひとりは3列シートの最前でナイフをひらひらさせながらこっちを見張っている。派手な服装はともかく、人相はどう考えても〝カタギ〟には見えない。
おじさんが彼らとグル、というわけではないことは彼の様子を見ればわかった。なにしろひとつ前の座席で当人が手を合わせて涙ながらに「ごめん蘭ちゃん」と繰り返している。
だが、悪人でなければ巻き込まれてもいい、とはならない。
「なあ、このオッサンが借金こさえたんならこのオッサンだけさらえよ! このひとを人質にしたって父親は意識不明なんだよ。身代金なんて取れねーぞ!」
前へ出ながら呼びかけると、返事は靴底と一緒に帰ってきた。
「っせぇな! 大人しく座ってろ! 家族構成なんてとっくに調査済みなんだよ。それに嬢ちゃんは人質じゃねえ。なにしろ宝くじを当てたの本人なんだからな」
未成年者でも当選金の受け取りはできる、と入院中にワイドショーで聞いたことがある。
とは言え借金を回収するために未成年を車で連れ去るなんてムチャクチャが、悪の道から見れば良案になるとは思えない。
(過激にならざるを得ない状況に追い詰められてるとしたら……。詳しく知りたいような、知りたくないような)
最悪の予感に迷いながら運転席と助手席の会話に耳を傾ける。
「なあオイ。言われてない奴まで積んじまって、よかったのか?」
「いいんだよ。恋人役を混ぜたほうが自然だろ。そのオッサンは姪とそのカレシを乗せた運転中に不幸な出来事に見舞われるわけだ。自分で借りたレンタカーでな」
「そうだな。吉沢のアニキの計画のまんまじゃオッサンと女子高生の心中みたいになるもんな」
物騒な話を聞いて頭を抱える。
どうやらこのドライブは誘拐から殺害への通過点らしい。聞く限り俺も数に含まれている。
「なるほど、とにかく関係者を潰してオヤジさんが意識不明の間に金引っ張ろうって魂胆か。ならこれから人気のない所へ連れて行かれてそこで……。本格的にヤバイやつだこれ!」
冷や汗が脇を伝う。
しかしバッドエンドと決めつけるのはまだ早い。彼らの発言は脅しで演技しているだけ、という可能性も充分に考えられる。
なにしろ殺人ともなると罪を犯す側のリスクも相当高いはずだ。それも3人なんて、果たして宝くじで見合うものだろうか。
「……あの、先輩。当選したのって、1等? 連番で前後賞つき? あれ……先輩?」
自分たちは一体いくらのために殺されようとしているのか。それを確かめたくて尋ねたのに、返答がない。ただ呆然と俺の顔を見ている。
思い返せば俺がこの車に張り付いたときからずっと驚き顔で固まっていた。こんな状況なので平静でいられなくてもムリはないが。
続けて何度目かの呼びかけで先輩はやっと気がついた。
「当選? それなら一等というか、数字が全部当たったのよ。7つ」
「ああ、宝くじってそっちのほうですか」
数字を当てる新しいルールの宝くじ。獲得できる賞金が従来よりも多い代わりに、参加者が数字を指定する都合上当選者が複数出てしまうとその分賞金が減る欠点がある。
「偶然、当選者が他にいなくて」
「オッケェ、わかった」
全部的中を独占したということだ。それなら相当な金額になる。
「偶然、キャリーオーバーが限界まで溜まっていて」
「もう聞きたくない。やめろ」
要するにこれ以上ない金額が手に入ったらしい。テレビをぼんやり眺めた記憶ではたしか8億で、一方平均的な生涯報酬は2億だ。人生4人分の金と考えればここで3人殺してもお釣りがくる。
(うわぁ……マジかよ。俺、死ぬのか。病人はちゃんと病気で死なないと、今まで苦しんだのはなんだったのかわからなくなるのに)
死の危険が現実味を帯びてきてため息を抑えられないでいると、不意に肩をぽんと叩かれた。首を振って見やるとおじさんが鎮痛の面持ちで頷いている。
「君、巻き込んでしまってすまないね。こんなことになったのも私が――」
「うるせぇ! 今更理由なんてどうでもいいんだよ。助かる方法を考えろ! 俺はこのままじゃ演出のために死ぬハメになるんだよ!」
不幸語りを始めようとした口を軽いアッパーで塞ぐと、笹目先輩が見かねて間に入ってくる。こんなでも親戚は大切らしい。
「あの……私がお金を手放せば済むことだから」
なにもかも諦めた気弱な笑顔でそんなことを言う。命乞いをするなら最も妥当で、幸運を避ける笹目先輩らしいふざけた決断だ。大いに気に入らない。
「あのなあ、それで済むんならとっくにそうしてたはずだろ。父親が倒れて親戚にタカられて、厄介な信仰に目覚めて苦痛味わって、それで今度は金を手放すってのか? そんなんでホントに納得できるのかよ。自分を痛めつけたほうが楽だったくせに、覚悟した振りしてんじゃねーぞ!」
一喝しても、笹目先輩にはまったく堪えた様子がなかった。
「貴方は本当に……なんでもわかってしまうのね」
これから殺されるかもしれないというのに、顔つきは恐怖に引きつるのではなく弛緩している。
「嫌だったわよ。たった一度の幸運でなにもかも変わってしまったら、これまでの人生はなんだったのかわからなくなるでしょう? だから当選金なんて使わずに今までと同じ暮らしを続けたいって――こだわっていたのだけれど……なんだかもう……どうでもよくなってしまったわ。変ね、疲れたのかしら」
放っておけばドンドン不幸になっていく女が、とうとうなにもかも諦めてしまった。
(ここで放って……おけるわけねーだろ)
すっと息を吸い、吐く。気持ちは一気に落ち着いた。
「するなするな、我慢なんてするな。泣くほどならその悔しさ大事に取っとけよ。こんな奴らになにひとつ渡すことない。金も命もな。……よし、逃げる準備をするぞ」
前の座席の背もたれに体を預け、声を潜めて話すと笹目先輩もおじさんも揃って「はぁ?」という顔をした。
「逃げるって……。ムリでしょう」
出入り口のドアは見張り役に近過ぎて、無事外に出られたとしても他に仲間の車が付いてきているとしたら、少なくとも俺は逃げ切れない。
「確かにここから脱出するのは困難で、俺たちには助けを呼ぶ手段もない」
こっちがこそこそ話しているというのに見張り役はニヤついている始末だ。逃げられないと完全にタカをくくっている。
だがその余裕は必ず後悔することになるだろう。今相談しているのはそれくらい強力な一手だ。
なにしろ俺も実行する前から既にちょっと後悔している。こんな手段、思いつかなければよかった。
「助けは呼べないが、厄介を呼び寄せる材料ならここに揃ってる」
おじさんに顔を向け、渾身の演技力で気の毒そうに表情を作る。
「ねえ、おじさん。一体どうして借金なんてしたんです? 事情を話してくださいよ。できるだけ詳しく」
「君、さっきは聞きたくないって」
「急に聞きたくなったんです」
笹目先輩は「どうしてこんなときに」とでも言いたそうだが、今はこれが必要だ。
「その、友人の会社が危ないって聞かされて……そいつ、昔から知ってる奴だったから大丈夫だと思って――」
話すおじさんの顔は悲壮感に染まって、口調に疲れが滲んだ。そのときのことを思い出していることだろう。今この窮地へと続く苦労のすべてを。
その全身からは俺には見えない例のオーラが立ち上っているはずだ。
(巻き込んだことはあとで死ぬほど謝る。頼むから見つけてくれよ!)
連絡手段がなくても俺のことを「嘘つき」と嫌っていても、ここに苦労がある限りもうひとりの〝厄介〟は必ずここに現れる。
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