マラソン大会

 マラソン大会。校庭をスタート地点として郊外へ出て、そして戻ってくるという生産性を欠いた不毛な学校行事だ。その悪夢に参加する運動着姿の全校生徒が校庭に集まっている。俺もそのひとりだ。

(うぅ、日曜の朝だってのに……。体力不足とか抜きにしてその時点で辛い)

 せめてもの抵抗としてできるだけ考えないようにしていたのに、非情にも準備は整い開始時間が迫りつつある。

 陰鬱な気持ちで執行時刻を待っていると、遊由が早速心配そうに話しかけてきた。

「よっちゃん元気ない。具合悪いなら棄権したら?」

「具合の良いときなんてねーよ。出席日数危ないから、ちょっとでも内申よくしときたいんだ。『体は弱いけどがんばってる奴』とか思わせて同情買おうとしてるみたいだからホントはやりたかないけどな」

「評価が気になるんだったら、もうちょっと成績……ね?」

「それを言ってはいけない」

 マラソン大会は学年で区別なく参加するので笹目先輩の姿も見つかった。ひとりだけ鉄仮面なのでやたら目立っている。

(あの人、持久走得意なんだろうな……。苦痛に耐えるような競技だし)

 じっと見ていたら、こっちに気が付いて近寄ってくる。

「あの……おはよう」

 様子がおかしい。射抜くような視線の強さがなく、モジモジして落ち着きをなくしている。どうしたのかはわからないが不調なのは好都合だ。

「おはようございます。今日はがんばらないでくださいね」

 できるだけイヤミっぽく言ってやった。これで「わかった」となるなら簡単だが。

「フン、貴方はどうせがんばらないのでしょうね」

 イヤミで返されてしまった。

(まあ……そうなんですけども、がんばりたくてもできないんですよ)

 内心傷ついていたら、隣にいた遊由が笹目先輩に食ってかかった。

「よっちゃんはがんばりたくてもできないことがあるだけで、ホントはすごいんだから!」

「おいやめろ、親バカか。かえって辛い」

「だってこのひと、よっちゃんのことなんにも知らないのに!」

 いきり立つ遊由を下がらせるため、自分で前に出ていくしかない。

 改めて笹目先輩に向き合う。とはいえ心の準備ができていなかったのでこの場で考えながら喋る。

「ええとだな……『がんばり』は誰かが代わってやることはできるけど、『がんばらない』は誰も手伝ってやれないんだ。だからアンタは楽をすることを自分で憶えなくちゃいけない。マラソンだって給水所があるだろ?」

「うまいことを言おうとする姿勢が鼻をつく」

 「そんなつもりはない」と言い返しかけてぐっと言葉を飲み込む。悔しいが、これ以上はムキになってしまう。というかまた傷ついた。

「それより昨日はあれからどうだったのかしら。全部任せてしまったから、あとから気になってはいたのよ」

 焦れた風に笹目先輩が話を切り出すのを聞いて、反射的に篠岡家での出来事が脳裏に思い浮かんだ。

 近い篠岡の顔、触れ合う唇と唇。その熱と柔らかな感触がまだあるかのように錯覚するほど記憶は鮮明に残っている。あのときの分まで緊張して全身から汗が吹き出た。

 正直にあのことまで話すわけにはいかない。

 自分のことだけならどうでもいいが、あの行為をあくまで〝人命救助〟として行なった篠岡の純潔については配慮すべきだ。不誠実な人間と思われたら今後なにかとやりづらい、という理由もある。

「どうだったって、篠岡を家に届けて……それだけ。ホントに」

 平静を装うことに注力する。不自然な態度を見せれば追求されかねない。

「ふうん、じゃあ進展はなかったのね」

「いやいやいや! 進展なんてするつもりないから! まあ結構よかったんだけど、アレは事故みたいなモンで――おっと」

 そういう意味で進展(・・)を聞かれたわけではないと、察したときにはごまかしが利かないほど口走ってしまっていた。昨日のアレが与えた精神的な影響は大きかったと、今になって知っても失言は取り消せない。

「進展するつもりないって……彼女を助けるつもりじゃあなかったの?」

 先輩が怪訝な顔をしている、気がする。

「でも、なんもなかったッス」

 返事は短く留めた。多く口を開けばまた余計なことまで漏れてしまいそうで怖くて目を逸らし、まごまごしていると遊由が間に入ってきた。

「違うんです! よっちゃんはマジメにしてたんです。それでもうちょっとだったのにアタシが邪魔をしたから、ムダになっちゃっただけです。よっちゃんは悪くありません!」

 懸命に俺を庇っている。ついさっき保護者を気取ったかと思えば、今度は仕事の上司のような振る舞いだ。

(気にしてたんだな……。打ち合わせも協力する義務もなかったんだから、別にいいのに)

 俺自身は引き摺っていない。まして最初から無関係の笹目先輩は、こんなことを言い出されても困るだろう。

 と思ったら、本当に困っていた。

「え、ええと、その――落ち着いて、ね? と言うより、貴方は誰?」

 対応に窮してオロオロしている。鉄仮面が形無しの狼狽ぶりだ。

「よっちゃんはこれからマラソンがあるんです。罰ならアタシが受けます!」

 見当外れの謝罪であっても、こう直情に吹き付けると受け流すのは難しい。遊由の押しの強さは発作時の介抱の件で俺も根負けしているからよくわかる。

「マラソンだったら貴方も……。ああもう! 私はただ彼がまだあの子に構うのかを――」

 とうとう遊由の圧力に負け、モゴモゴ言いながら退散していった。外見が呪わしいので清浄な存在に弱い、と判断できそうな光景だ。遊由でこうなので陽子さんに会えば即蒸発することだろう。

 とりあえず今は昨日のことを気にやんでいる遊由をなんとかしたい。

「あのな、どうして俺のことでお前が謝るんだよ。飼い主のつもりか? 調子に乗るなよ、お前は俺の主治医だ」

 遊由がなにか言おうとしたところを、上下から首を押さえて顎を封じた。すかさず唇がより尖ったが、気にせずに続ける。

「大体な、お前は『邪魔をした』って気にしてるけど、ちょっと邪魔されたくらいで俺は何もできなくなるような、その程度の男なのか?」

 他人が言えば殺したくなるような主張に鳥肌が立つ。

 周囲の生徒たちもきっと同じ感想を持っただろうが、遊由を説得するにはこれが一番効果的なはずなので白眼視に耐えるしかない。

「ううん、そんなことない! よっちゃんならなんだってできるよ!」

 瞳を輝かせた遊由は口を閉じる腕を振り払って堂々全面肯定した。

 周囲からの視線がどんどん刺々しくなっていく。ただでさえ居場所のない学校が益々辛い環境になりそうで、遊由の反応を「狙い通り」と素直には喜べない。

「そうだろ……? 俺は、すごいんだ……ううっ」

「すごいのに、なんか泣きそうだよ? 大丈夫、アタシも手伝うから」

 遊由の明るさがくすまない。周りが見えていないようで羨ましい。

「ええと……お前は俺に協力する義務も責任もないんだぞ? 自由なんだから、俺の邪魔をしたっていいんだ。ひとは生きるうえで他人の足を引っ張ってもいい、それが人生だ」

 うろたえて薄暗い思想が漏れてしまった。本心から外れてはいないが。

「そんな……部外者みたいに言われるのは寂しいよ。アタシにもなにかできる、よね?」

 遊由は下を向いて背中を丸め、所在なさげに体操服の裾を延ばして弄んでいる。こんな風にむしろ頼み込むように言われたら、負担をかけるのは尚更躊躇う。

「あー……いや、別にお前の能力を疑っているわけじゃなくて……」

 思わず歯切れが悪くなった。

(さて、どう言ったもんか)

 気まずくてつい目を逸らした先に、篠岡を見つけた。普段は浮いているハチマキ頭も体育会系の雰囲気が充満したこの中なら悪目立ちはしていない。

 していない、が。

(また肩に力が入ってやがる……校内行事にその気合いは、いき過ぎだろ)

 今日も今日とて過労死目指し、手加減抜きで労力を浪費するつもりらしい。マラソンがなかったとしても過ごし方としては同じだったろう。

 視線に気が付いてこっちを見たかと思うとプイと他所を向かれてしまった。直前に口の形が「嘘つき」と動いていた。

 昨日のことで敵視されているのなら遊由に証言をやり直させれば、その直前までの状態まで復帰するかもしれない。

(けど……それは、できないんだよな)

 過労死志望を取り下げたあと、篠岡にはまず一番に友達が必要だ。目標を失った日々を楽しく過ごすパートナーなら遊由は適任で、篠岡も部活での好敵手と見なしていた。きっとうまく付き合えるはずだ。

 となると今ここで遊由を「嘘つき」にするのは得策でない。

「そうだな……。遊由、お前に頼みたいことがある」

「うん! なんでも言って!」

 張り切って返事をした遊由の声に、マラソンスタート直前の号令が被さった。



 かけ声のあと、号砲で集団が一斉に動き出す。

 男女でコースが分かれている以外は完全に3学年いっしょくたになっているのでかなりの人数だ。集会などで見慣れていて学校の敷地内ならなにも問題は感じなくとも、これが一度に溢れ出してしまえば地域に迷惑がかかるのではないだろうか。

 と言った批判を今更してもなにも解決しない。

 今俺が取り組むべき問題は進路の遥か先にいる。他を引き離し飛び出していったトップふたり――篠岡と笹目先輩。スタートから次第にほぐれて縦に伸びた集団の後方からすら、無様にズルズル下がっている俺では追いつくことは不可能だ。

 なのでここは任せるしかない。

「遊由、あれに追いつけるか?」

 集団に遮られなくてももうふたりの姿は見えなくなっている。

 だが遊由はあっさり頷いた。

「うん。追いつけるよ。今思うとアタシが普段から鍛えてたのはこのときのためみたいな運命を感じ――」

「いいからはよ行け! あのふたりが無茶をしないよう止めるんだ!」

 大声で急かすと、遊由は一際唇を尖らせて加速した。混み合う集団の隙間を、くるくる身体を回しながらステップですり抜けて前へ出て行く。流れるように優雅だ。

 姿は見えなくなったが、前の方から聞こえた歓声からして相当なスピードで追い上げ始めたらしい。

(やっぱ、アイツすげえな……)

 一方俺のほうは絶不調だ。発作が起こり酸素が入っていかずに肺が膨らまなくなってきた。胸がギリギリと傷む。体が足を止めろと危険信号を出している。

 一応はこうして参加しているのだから、今日は出席扱いにしてもらえるだろう。

 そんな風に自分のことだけを考えて大人しくしておく。そんなのは絶対にゴメンだ。



 後方集団からも外れてしまった俺に先頭の事情はわからないので、ここからはあとで遊由から聞いた話になる。

 遊由が追いついたとき、篠岡と笹目先輩のふたりは凄まじいデッドヒートを繰り広げていた。ほとんど全速力に見えたらしい。

 篠岡はゴミ袋を持っていたそうだが、どういう経緯かは確かめなくてもわかる。道のゴミを拾いつつ走っていたのだろう。やりそうなことだ。

 ふたりは肩をぶつけて押し合いながら、大声でわめき合っていた。

「そういうの、もうやめてください!」

「余裕綽綽でついて来ているくせに、私がムリをしているって言うの? 何様のつもりかしら」

 先を争っているにしては様子がおかしいことに気がついて、遊由は後ろでふたりの様子を見ることにした。実にらしい判断だ。俺としては遊由に任せたのだから、その判断に常に賛同する。

 それに、不自然は俺も最初から感じていた。

 そもそも笹目先輩は篠岡や遊由とは体の酷使の仕方が違う。鉄仮面で筋力は培われているかもしれないが、体力面でふたりと拮抗できるとは思えない。ただ苦痛に耐える根性だけで競っていたはずだ。

 だからこそ篠岡にはゴミを拾う余裕があって、本当なら笹目先輩と先頭を争っているはずがない。それでもぶつかり合っているように見えたのなら、もしかすると遊由に頼むまでもなかったのかもしれないと、予感が働いていた。

「先輩だって緩居くんに説得されたでしょう? なにも感じなかったんですか?」

「ええ、口やかましくされたわよ。だからどうだって言うの」

「緩居くんは一生懸命だったじゃないですか! その努力は評価されるべきです! それは、ワタシに嘘はつきましたけど……あれだって思い余ってのことだと思います。先輩は嘘をつかれていないのならもっと彼の言葉に耳を傾けるべきです!」

「もう充分に傾けているわ。彼の存在は私にとって歓迎すべき苦痛だもの」

「そういうのをやめろって言ってるんですよこの分からず屋!」

 見守っているうちに、ゴールの校庭が見えたところで取っ組み合いに発展した。つかみ合い路上を転がるのを見て駆けつけた教員がふたりを引き離そうとするが、興奮して手がつけられなかった。

「先輩なんて、自分からはなにもしないで子供みたいに誰かが助けてくれるのを待ってるだけじゃない。気を引きたいだけのお姫さま気取り!」

「そちらこそ、自分だけが聖者のつもりで優越感に浸りたいだけでしょう? 潔癖症のナルシスト!」

 傍観していられなくなった遊由は、間に割って入って力づくでふたりを制圧した。片手ずつでふたりを路面に押さえ込んで身動きを封じる。

「なにを言ってるのかはよくわかんないけど……。よっちゃんがあそこまでしてる理由が、アンタたちにもわからないって言うんだったら、アタシ赦さないからね!」

 遊由の叫ぶ信じられないくらいの大声、俺がそこへ到着したのはそのときだった。



 足の動きは鈍く息も絶え絶え。いつ肺が潰れるかと不安で、気を紛らわせてくれるのは痛みしかなかった。

 こんな状態で追い付けるはずがなかった。しかし現に遊由はそこにいて、篠岡と笹目先輩も一緒だ。どういう事態かは意識が飛びかけていて判然としない。他にも何人かいる気がするのは幻覚だろうか。

「お前らに……言う……ことが」

 息が苦しく言葉が続かない。いつの間にか足が止まって、体が遊由に抱えられていた。

「今横にするからね、とにかく休んで」

 自分で支える力もなくされるがままに寝かされる。呼吸に合わせて気合を入れ、そこまでしてようやく首を振った。

(休んでたら、なんのためにここまで来たかわからない)

 しかし朦朧としてどうするつもりだったか思い出せなかった。それでも宙ぶらりんの使命感に急き立てられる。

 ただ、気持ちは逸っても体は動かない。なら言葉で訴えようにも呼吸困難で息が続かず、単語ひとつを口の中でこぼすだけで限界だった。

(うわ、やっぱり俺……ダメじゃん)

 己の無力を感じて諦めかけたとき突然、視界が塞がった。遂に意識が暗転したかと思えば、違う。

 目の前にあるのは喉だ。遊由が逆さまに首を傾けて俺の口に耳を寄せているらしい。

 さっきからやかましく鳴っている呼吸音をわざわざそうしてまで聞きたいわけもあるまいし、一体どういうつもりか、と考えてすぐに思い当たった。

 吐く息がぶつかって返る位置に遊由の耳がある。今の俺でも声が届く所にだ。

「もうよっちゃんの邪魔はしないよ。今度こそちゃんと手伝うからね」

 声を聞いて代わりに伝えてくれるつもりのようだ。

 意図を理解し、精一杯の呼吸を繰り返して途切れ途切れに言葉を預ける。

「よっちゃん――緩居くんは、『俺は俺の苦しみしか知らないけど、多分お前たちも同じところで間違えてるんだと思う』って言ってる」

 遊由との意思の疎通はこれ以上がないとは言っても、どうしても言葉足らずにはなる。

 これで篠岡と笹目先輩に伝わるかは疑問だ。しかしふたりの反応を確かめる余裕も、どう伝わってほしいという狙いもない。

「失敗……っていうのは」

 説得のために用意したものではなく、ただ考えなしに思いつくことを遊由に伝える。

「うん、うん。もっとゆっくりでいいよ。アタシちゃんと聞いてるから」

 伝言に時間がかかるせいで後続に追いつかれたらしい。近くを走り抜けていく足音が聞こえた。あのふたりはまだそこにいるだろうか。ちゃんと待ってくれているだろうか。

「『俺の――いや、俺〝たち〟の失敗はおかしな思想を持ったことじゃなく、結論を出したことだ。早く――』

 だんだんと思考にかかる靄が濃くなっていき、次第に遊由が喋っているのか自分が喋っているのかわからなくなった。すべての感覚が息苦しさと一緒くたに遠ざかりつつある。

「早く安心するために、目に付いた結論に飛びついたんだ。それが自分を追い詰め、孤独にするものだとわかっていても『こうすれば救われる』と、とにかく安心したかった」

 普通の健康なひとが持っているものや努力で獲得するものには手が届かないと知って苦しかった。だから諦めればいい、そんな風に思った。

「後悔すると今まで過ごした時間を無駄にするような気がして嫌だけど、それでもちゃんと考えよう。悩みなんだから、ちゃんと悩まないといけなかったんだ」

 頬になにか落ちてきたと思えば、涙だ。遊由が泣いている。後悔を代弁させるなんて嫌な役を押し付けてしまった。

(あとで埋め合わせしないとな。コイツが好きなのは体を動かすことだから……俺が付き合うのは大変だ)

 ウォーキングくらいで我慢してもらおう。それ以上の運動となるとまた発作を起こして介抱されるので永遠に借りが増え続ける。

 ぼんやり考え込んでしまっていたようで、気が付けば遊由に顔を覗き込まれていた。伝言が止まっている。

(ああ、なにか次を言わなきゃ……伝えたいこと)

 つらつらと思うことを喋っていただけなので、いざ頭を働かせても出てこない。

(伝えなきゃ……いけないこと。ああ、コレでいいか)

 空っぽの胸の奥、心の底にずっと触らずにいた気持ちを見つけた。

 視界が塞がっているのは瞼が閉じているからなのか、自分でもわからないくらい朦朧としている。どのみち伝言はこれで最後になりそうだ。

 呼吸に合わせ、三度に分けて言葉を送る。

「俺、結構、幸せだ」

 こればかりは伝達してもらいたいわけじゃないとわかってほしい。

 そう願いながら、次第に意識を失っていった。

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