幸せになっちゃいなよ

 時間が経つと自分がなにをしているのか冷静に考え始め、居たたまれなくなってきた。ろくに知らないクラスメイトの家に上がり込んで庭に火を放ち、ぶっ倒れてからキスをされた。そして今は頭を撫でている。

 振り返ればなにもかもが恥ずかしくてたまらない。

「あー! 帰ります! 俺帰ります! おじゃまと失礼をしました」

 篠岡を脇へ避けて立ち、慌しく敷地外へ逃げる。

 ともかく篠岡の罪悪感を根本から抹消することができた。過労死を望んで苦労を求める、その理由はもう無い。

 やり遂げたと喜んでもいいときのはずだが、今は穴があったら入りたい。悩みに付け込んだような、隙を見せて誘い込んだような、人として最低のことをしてしまった気がする。

「緩居くん? そんな所でなにしてるんですか?」

 声を聞いて振り返ると篠岡が立っている。家を出てすぐの玄関先で屈み込んでいたのであとを追って来たというほどでもない。

 短パンとシャツから今朝見た服に着替えている。同じ格好なのに妙に可愛い、そう見える理由には気づきたくない。

「もしかしてまた発作ですか? ……わかりました!」

 すかさず飛びかかってきたので畳んだ腕でガードして唇の接近を阻む。

「待て待て待て起きてない! 発作起きてない!」

 ぐっと押し退けるとまだ様子を窺っている。呼吸音を聞いているようなのでできるだけ浅く呼吸するよう努めた。発作はまだ軽く居座っているので気配を悟られたら終わりだ。

「大丈夫みたいですね。でも心配だから送っていきますよ」

「お前ね、自分がさっきぶっ倒れたこと憶えてないのかよ。自分の心配をしろ」

「ワタシは大丈夫、倒れ慣れてますから」

「お前の妹は慣れてねーぞ。心配かけてるんだから、罪悪感とか義務感で生きるのはもうやめろよ」

「ハイ! 今まで迷惑かけた分、恩返ししないといけませんね!」

「あ、ダメだコイツ全然変わってねえ」

 罪悪感がなくなっても十年付き合った生き方は性格として染み付いてしまっているのかもしれない。そうだとしたらお手上げだ。

「いえ、変わりましたよ」

 篠岡の微笑を見上げる。そこには今までと違い安らいでいる雰囲気があって、肩から力も抜けていた。

 これを手応えに感じていいものか悩みながら、差し出された手を取り立ち上がった。


 二人で表通りまで歩き、バスに乗った。てっきりバス停までと思っていたら篠岡はしっかり家まで送り届けるつもりでいるようだ。

 こうなるとなるべく早く解放してやるしかなさそうだ。時間は既に夕暮れ、それほど距離はないので寄り道しなければ陽が落ちる前には篠岡も家に戻れる。

「お前さ、今後はもっとワガママに生きろよ。世の中そんな人間いくらでもいるんだから、お前ひとりが我慢したりがんばったりしなくてもいいんだからな」

 移動中の車内は必然的に説教タイムとなった。

 篠岡はにこにこしながら頷いている。断言するが絶対にわかっていない。

 それにしても妙に体が近い。横並びの二人掛けにしても密着し過ぎている。

「それからさ、さっきみたいなこともうすんなよ」

「さっきみたいなって……人工呼吸?」

 顔を紅潮させて下を向いてしまった。これは人工呼吸とは思っていない顔だ。

「そこで照れるなよ、こっちまで恥ずかしくなるだろ。……別にあんなことしなくても、ほっておけば自然に治ったんだよ」

「だって、死んじゃうと思ったんですもん」

「そう思っても普通は躊躇するんだよ」

「十年前なら……知っててもしなかったと思いますよ」

 罪悪感に育まれる以前ならそれは当然そうだろう。篠岡は気まずそうにしているが、それはちっとも悪いことじゃない。

「ああ言うのは好きな相手にだけ――」

 と、言いかけたところで思い当たった。

 篠岡は遊由とはタイプが違うが同じく活発で明るい。見た目も愛嬌があってかなり可愛く、意外に肉付きがいいこともさっき知った。誰かに惚れられたことくらいあるはずだ。

「お前、カレシとかいないのか?」

「いません! いませんよ!」

 返事が妙に張り切って、顔が輝いている。

「いやホラ、お前頼まれごと断らないだろ? 今まで『付き合って下さい』とか言われなかったのか?」

 面食らいつつ質問すると篠岡の顔が曇った。唇を尖らせる表情はどうしても遊由を思い出させる。

「ああ……そういう興味ですか。ええ、いましたよ。ワタシ、これでも結構モテるんです。……けどあんまり続いたことないんですよね。すぐ『ついてけない』とか言われちゃって」

 その理由はよくわかる。過労死目指して完全燃焼で生きている人間と付き合っていくのは、普通の人間なら不可能だ。生徒会を追放された事情とあまり変わらないのだろう。

「あの……緩居くんも、ワタシに『ついてけない』と思います?」

「うん」

 今後の参考にするつもりなら正直に答えるべきだ。篠岡は大いに落ち込んでいる。この調子で将来に不安を覚えて振る舞いを改めてほしい。

「まあとにかく、俺が死にかけてるのを見かけても、もうああいうことはするなよ」

「でも誰かが助けないと緩居くん死んじゃうじゃないですか」

 釘を刺しても効果はなく、篠岡はしつこく食らいついてくる。

「十年前だってそう思って、でも俺生きてるだろ? 心配し過ぎなんだよ」

「それは……そうですけど」

 明らかに不満げで、納得していない。コイツは本当にもうどうしたらいいのか。

 窓の外へ目をやると、遊由がいた。またどこぞの部活を手伝った帰りのようで、学校指定のジャージで歩道を走っている背中をバスが追い越していく。

(遊由……そうだ、遊由が説明すれば効果高いよな)

 良いことを思いついた。長年俺のことを知っている立場から遊由に「心配ない」と証言してもらえば、篠岡からは疑いようがなくなる。今後篠岡の前では発作を起こせなくなるが、昨日今日と疎かにしてしまった「なにもしない」の信条をもう一度高く掲げて生きていけば済む話だ。

「なあ篠岡、実は十年前にお前が帰ったあとで俺のところに来たヤツがいるんだが」

「なるほどっ。その方に助けられたから無事帰って来れたわけですね」

 うんうん頷きを繰り返すしたり顔が腹立たしいので思い切り鼻先に指を突き付ける。

「違う! 俺は自力で帰ったんだ」

 実際は遊由に背負われて下山したのでこれは嘘だ。バレているのか篠岡は不審げに眉を曲げている。

「フフン、意地を張っていられるのも今のうちだ。こっちには証言者がいるんだからな。ここで降りるぞ」

 丁度停まったバスを降りる。目的のバス停よりいくつか手前だが、ここで遊由を待つ方が早い。

 バスが発車すると、ほとんど待たず遊由の姿が遠くに現れた。部活で体を動かしたあとだろうに規則正しく締まった手足が躍動し、それでいて体幹は安定した美しいフォームだ。そして速い

 あのペースなら大して待たされないどころか、途中下車しなかったとしてもすぐに追いついて来たことだろう。

「部活で何度も顔は合わせてるんだろうから、改めて紹介はしないからな」

「あ……あれ、不破さん? あ――そうだ、そうですよ! ワタシと同じくらい一生懸命なひとなら、色んな部活でがんばってる不破さんがいるじゃないですか!」

 篠岡がはしゃいで遊由を指差す。

「えー? もう終わった話をまたするのかよ。それに遊由ががんばってるのは確かだが、お前と同じくらいっていうのはさすがにムリがあるだろ」

 自分でブレーキを踏める遊由は助っ人として引っ張りだこで、炎上爆散するまでエンジンを回すつもりでいる篠岡は追放された。こうして結果に違いが表れている。

「不破さんだけはちゃんと本気でワタシの相手をしてくれたんですよね……。ああ、なんでもいいから、また対戦してみたいです」

 そのときのことを思い出しているようで、篠岡は目を閉じて陶酔に浸った。

 今の篠岡は全身に漲っていた力みが抜け、笑顔も似合う可愛らしさを身に着けている。遊由だって個人的に見慣れてはいるものの注文を付ける点が見当たらない。二人とも間違いなく美少女だ。

 そんなふたりがぶつかり合って汗を流す光景をそばで見ていたら、かなりの栄養価を吸収できそうだ。病気も治るかもしれない。

 しかしそんな目的で篠岡を遊由に引き合わせるわけではない。

「あのな、アイツが本気なんて……まあそれはいいか。それより――」

 遊由がもう来る。こっちに気が付いて一層加速し、近くまで来てから立ち止ったときには怪訝な顔をしていた。

「よっちゃん……と、篠岡さん」

 篠岡がここにいるのを不自然に思うのはムリもない。だがそれについて説明するとなると、わざと発作を起こしたくだりにまで言及しなければならなくなる。それを遊由に聞かせると面倒なので、ひとまずこっちの話を先に進めることにした。

「これが俺の喚問する証人。十年前お前が俺を置いていった、そのあとのことを全部知っている目撃者だ」

 腕を大仰に動かして紹介し、それから遊由に向きを変える。

「なあ遊由。昔、俺が山で発作起こしたことあったろ? 実は篠岡もあのときそこにいたらしいんだよ」

「え……? じゃあ、よっちゃんは篠岡さんと高校で十年ぶりに再会した……ってこと?」

 驚くのもムリはない。が、感想は思わないものだった。

「あ? まあ、そういうことになるか」

「ふーん……」

 遊由はなにか言いたげで、いつも以上に唇が尖って見える。なんだか様子がおかしい。

 しかし計画はもう止められない。

「それでコイツ、俺のこと『見殺しにした』って勘違いして悔やんでるらしいんだ。だからお前からも言ってやってくれ」

 ポンと肩を叩くと篠岡は不満そうに頬を膨らませた。小声で「ワタシが分からず屋みたいじゃないですか」とこぼすのを無視する。

「俺の病気はそんなに心配しなくてもいいって教えてやってくれ。あのときだって俺は自力で歩いて帰ったんだ。……そうだろ?」

 助けは必要なかったとわかれば篠岡の罪悪感は軽くなる。それを遊由に証言してもらうのが狙いだ。打ち合わせ抜きでも付き合いの長い遊由なら察してくれる期待は高い。

 過剰な努力家というだけで目障りなのに、そうなった原因を作ったのが自分と知っては尚更いたたまれない。そもそも本当に俺が見殺しにされたとしても、俺の命は篠岡の人生を狂わせるほどの価値はない。

 間違いを終わらせる、その正念場が今だ。

(もう一歩なんだ。お前の一言で篠岡を苦しみから救ってやれる)

 精一杯「伝われ」と渾身の念を視線に込めて遊由を見つめた。

「心配――しなくていいって?」

 遊由は俯いて、顔が見えなくなった。声のトーンには怒りが滲んでいる。

 不気味な反応だが、なにより質問の答えが聞けていない。

「なあ、あのとき俺すぐ元気に――」

「知らない」

 不意打ちに返ってきた言葉は固く強い拒絶の意思に満ちている。雲行きが怪しい。

「そんなこと知らない! 山なんて行ってない!」

 続いた叫びで暗雲から一気に雷が落ちた。説得が失敗する。

「はあ……そうですか、嘘ですか」

 恐る恐る、見ると篠岡は含みのある微笑みを浮かべていた。眼は笑っていない。

「たまたま似た症状の病気だから騙せると思ってあんなことしたんですか。へえ、感心します。他人のために死にかけるなんてワタシはまだやったことがありません。それともあれも演技ですか? 苦労オーラを見る限り、確かに肺が悪いはずなんですが」

「いや嘘じゃなくて、あのな――」

「聞きたくありません!」

 大声で話を遮り、篠岡は背中を向けると地面を蹴飛ばすようにして歩いていく。どんな言葉で追いかけても今は聞き入れてもらえなさそうだ。

 これはもう、遊由に文句を言わずにはいられない。

「なんてことしてくれたんだ! もう一歩のところまで来てたのに――」

 ところが、遊由は泣いていた。気勢を削がれて怒鳴り声が萎む。

「ひどい、よっちゃんひどいよ」

 泣きじゃくり手の甲で顔をこすりながら、遊由は涙声で話す。

「よっちゃんが誰かとデートするのも、篠岡さんがオシャレするのも自由だよ。でもアタシがよっちゃんを心配したこと、なかったことにするなんて絶対ダメなの! だってあのときのよっちゃん、本当に死んじゃいそうだったもん! アタシすっごく心配したもん!」

 そう言えば、遊由は普段からふてくされている割に激しい感情を表に出したことはなかったかもしれない。それが今は完全に癇癪を起こしていて、喋り方まで子供っぽくなってしまっている。

 紙おむつを分け合った幼馴染が見せる初めての一面に戸惑い、「死んじゃいそうだった」という今のセリフが篠岡に聞こえてはいないかが気になった。しかしこの状況で篠岡へ注意を逸らすのはマズいと本能が訴えている。

 なにより遊由を泣かせたままでいるのは嫌だった。

「おーし、一旦落ち着こうか! お前が泣いたら俺どうしていいかわからない! いつもみたいに動物映画見て泣いてるんだったら、ひたすらからかってればいいけど」

「それだってひどいよう」


 とりあえず遊由をバス停のベンチに座らせたあとはずっと周りであたふたしていた。きちんと話すにもムリヤリ笑わせるにも動揺しているせいでまったく考えがまとまらない。

「はぁ……困らせてゴメン」

 結局遊由は自力で泣き止んだ。自分を不甲斐なく思わないわけではないが、それでもホッとした気持ちのほうが大きい。

「アタシあのときよっちゃんのこと助けたのに、いなかったことみたいにされるのがイヤだったの。アタシ、よっちゃんと一緒にいたよ。ずうっと心配してるよ」

 ハンカチを押し付けているのは涙のためか、それとも恥ずかしいからか。その辺はわからない。

 なんでも知っていると思っていた。自分の顔より見慣れた顔が突然泣き出したせいで幼馴染にも未知の部分があると突きつけられた。

(そりゃ……そうだよな。俺だって話してないことあるんだし)

 いつも助けられていることにはもちろん感謝している。ただし同時に負い目も感じることは話していない。助けられる度、心配される度、自分が弱者であると思い知らされる辛さには慣れない。

 それを言えば離れていってしまいそうな気がするから、できない。

「別にさ……お前の行動を否定したかったわけじゃないんだ。篠岡に俺を助ける義務なんてなかったって、わからせたかったんだよ」

「うん。それはアタシの義務だもん」

「いやお前のでもねーし」

 すかさずビシっと肩を突いてツッコむ。内心は複雑な心境だった。

(ああ……やっぱり義務と思ってやってるのか)

 俺にとって遊由は恩人だが、遊由にとっての俺は「可哀想なひと」に過ぎないのかもしれない。

 それを寂しいと残念がる気持ちはある。しかし現状ですら分不相応なのだから、この上贅沢を言うつもりはない。

 漏れそうになった嘆息を抑えたとき、遊由が不意に微笑んだ。

「そうだね。義務じゃなくて、好きでやってることだね。よっちゃんが苦しんでるの、ヤだから」

 瞬間、顔が熱を持った。

 人はエゴで繋がっている。遊園地で笹目先輩にそんなことを言った。今の遊由の発言もその枠を出ていないはずだが、どうしてこう印象が違うのか。自分の至らなさが恥ずかしくなってくる。

(俺よりコイツが相手したほうが、あの二人も早く楽になれるんだろうな。ならいっそ……いやいや、それは無責任過ぎるだろ)

 考え込んでいると、いつの間にか遊由ががっくりうな垂れていた。

「どうしよう……。篠岡さんに嘘ついちゃった。アタシ、酷いことした」

 深刻に落ち込む様子がおかしくて吹き出してしまい、わき腹をつねられた。謝りながら、それでも笑いを抑えられない。

(こんな人間に偽証させようとしていたんだから、最初からムリのある計画だったんだな)

 心のどこかで「遊由ならなんでも協力してくれる」と高をくくっていたのかもしれない。迷惑をかけるのは嫌なくせに甘えていた。身勝手でつくづく自分が嫌になる。

「次会ったとき正直に言えばいいさ。死にかけてる俺を助けたって」

「えっ? でもそれじゃ、よっちゃんが困るんでしょ? 篠岡さんの後悔をなくしたいのに、アタシが邪魔しなければうまくいってたのに……」

「それじゃあ俺は『疲れて歩きたくないから死にかけてるフリをしてた』ってことにするさ。つまり仮病だ。俺は病気の振りをして散々楽に甘んじてきた卑劣な男なのだ、フフフ」

 俺の秘められた演技力が突然開花する可能性はともかく、相手があの篠岡なので思いっきり騙されそうな点には期待が持てる。

 しかしそうなると必然的に今日のことも芝居だったということになる。報復されると覚悟しておいたほうがよさそうだ。

 遊由は呆れ顔で、器用に唇だけは非難がましく尖らせる。

「なにそれ? そんなのよっちゃんに全然似合わないよ。大体今度死にかけたらバレちゃうのに」

「うるせぃやい。そんなしょっちゅう死にかけてるみたいな言い方は……そのときは宜しくお願いしますけども」

「謹んでお引き受け致しますけども。……なにこのやり取り。それよりもっと良い方法、アタシ知ってるよ」

「なんだと、それは俺が殴られずに済む方法か?」

「えっ、よっちゃんこそどんなことしよ――よっちゃん近い! 鼻息が熱い!」

 勢い込んでつい接近した首がぐいと押し戻されておかしな方向へ曲がりそうになる。

「ええい、俺の貴重な肺活量を浴びせたんだ。いいからそのナイスアイディアを聞かせろ」

 離れると、遊由がぴっと指を立てた。

「簡単だよ。よっちゃんが幸せになればいいの。昔苦しかったことなんてどうでもよさそうに見えたら、篠岡さんだって『もういいんだ』って思うよきっと」

「それは……」

 ムリだ、と反射的に言いかけた言葉を呑み込む。

 確かに手助けの必要を感じさせないほど満ち足りていれば、篠岡もお節介を差し挟む余地は見つけられないはずだ。

(幸せって……。そりゃ、俺にはムリだよ。とっくに諦めてるんだから)

 これからもずっと頻繁に死にかける窮屈な未来はそう遠くないところで途切れる。そういう確信がある。

 小さな発作ならほとんど常に起きている健康状態では血液中の酸素濃度が低くなる。そのバランスを取るために心臓は過剰に働き、肥大化して弱っていく。喘息患者なら珍しくない早死にコンボだ。大体三十歳くらいまでにそれが起こるらしい。

(俺もきっとそうやって死ぬ。なんて言ったら、コイツ泣くよな)

 本当にそのときが来たら泣いてほしい。そう願うのは罪だろうか。自分が生きた証に涙を流させるなんて、勝手だろうか。

(ダメだ。黙るな。なにか返事しないと)

 狼狽を抑え、震えを悟らせまいと固めていた拳がそっと握られた。

 遊由の手は温かく、運動部で酷使されている割には意外なほど柔らかい。

「大丈夫、なれるよ。よっちゃんはなんだってできるもん。幸せになるくらい楽勝だよ」

 微笑みは励ますように優しく、自分が今どんな顔をしているか知れてたまらなく恥ずかしい。

 ずっと色んなことを病気のせいにして性格を捻じ曲げてしまった。幸せはもっと健やかな人間が掴むもので、自分のところには寄り付かない。そんな気がしてしまう。

「んーん、絶対なれるよ」

 まるで心を見透かしたようなタイミングで首を振る。遊由ならそれができたとしても不思議には思わない。強がりも弱音も知っているから、いつもどこまでも躊躇なく踏み込んでくる。俺が進んで願わないものを与えてくれる。

「なれるってば。よっちゃんはびっくりするくらい幸せになれるよ」

 そうだろうか。「なにもしない」なんてふざけた人生論を掲げた、そんな人間が幸せになっていいものだろうか。

「生きててよかったー! って飛び跳ねちゃうよ」

 こんなことを言われてどう返事をしたらいいのか。どうしても答えが出ずに捜す気すらなくなった。多分、それで正しいんだろう。遊由は言葉なんて望んでいない。黙っていても遊由が正解にしてくれる。

「ホラ、もう帰ろ? アタシお腹空いちゃった」

 手を引かれ、家に向かって歩く。子供扱いされているようで少しこそばゆい。

「なあ遊由」

「んー?」

「今、振り返らないでくれよ。さすがに泣き顔までは知られたくない」

「よっちゃんはバカだね。そんなのもう知ってるよ」

 これはもう、逆立ちしても敵わない。

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