生きているから赦される

 結論を言えば、なにもわからなかった。綴られている内容は「今日はなにをした」とかとかでほとんど日記と変わらない。

 ただしその内容が凄まじく、記録によると学校の昼休みに開かれる購買に予約制を導入したのも篠岡だそうだ。並の高校生の行動力とは違っていて、生徒会から追放されるのも納得できる。

 満足できるほど苦労できた日は皆無で、大体の最後には「こんなことしかできないのに生きているなんて申し訳ない」という一文で締めくくられている。それとこれから先のことについては一切触れられていない点で、これが遺書だと意識させられる。

 一体どうしてここまで苛烈に自分を追い詰めるのだろう。

 腰かけた縁側で読み終えた遺書を脇に置くと、隣に座る篠岡妹との間にコップが置かれていることに気がついた。麦茶がよく冷えていて、コップに浮き出た水滴が板張りを濡らしている。

「そういや喉が渇いてるな。ありがとう」

 返事の代わりに、また紙が差し出された。今度は1枚きりの便箋だ。

「これが本題。昨日の夜、おねーちゃんが書こうとしたヤツ」

 遺書に衝撃を受けて忘れていたが、そう言えば篠岡が俺を気にしているという証拠にはなっていない。本題というならこれがそうなのだろう。

 クシャクシャに丸めたものを広げたようでシワが残っている。受け取って確かめると、たった数文字書いたところで途切れていた。

『緩居くんって』

 それだけで終わっている。

(なんで……遺書に俺の名前書くんだよ)

 秘密を盗み見たような罪悪感を覚えて便箋から目を離すと、篠岡妹が頭を床に摩り付けていた。

「お願い、おねーちゃんを助けて! デートの支度手伝うなんてフツーの姉妹みたいなことしたの初めてで、昨日の夜は凄く楽しかった。またあんな時間を過ごさせてください」

 最初は誤解してしまったが、どうやら姉想いな妹のようだ。その肩をポンと叩き、腰を上げる。

「任せとけ」

 笹目先輩の考えに賛同するわけではないが、いい加減この姉妹にも報いの時がくるべきだ。



 篠岡妹を廊下に残して部屋に入ると、篠岡は目を覚ましベッドで半身を起こしていた。まだ意識がはっきりしないのか顔をしかめて首を回している。

「遊園地で倒れたから、俺がここまで運んだんだよ」

「えっ、それはそれはご迷惑を……このご恩はすぐにお返しします! さあ、ワタシにしてほしいことはありますか?」

 サッとベッドから下りて拳を握ってみせる、肩に力の入ったいつも通りのテンションだ。だが、顔色に疲れが残り瞳にも力がない。

 この弱々しい笑顔が心からのものに変わるように、今も廊下で妹が祈っていることだろう。その願いが叶えばいいと、それこそ心から思う。

「見返りはいらん。がんばってるクラスメイトを放っておくなんてできないと思ったから運んだだけだ」

「したいことをしただけですか。ワタシと同じですね?」

 全然違う。そう言いたかった。

 善行なんて「良いことした」と自己満足に浸る程度のことで充分で、歯を食いしばって自分を磨り潰すまでやることじゃない。そもそも篠岡の場合は「生きてるからにはがんばらなきゃ」という考えが根底にあるので、あらゆる動機が義務感と直結している。

 だから全然違う。そう言いたかったが、言い出せなかった。

 どう理屈を並べたところで聞き入れるわけがないというのも理由のひとつだが、なにより篠岡がこれまでに味わったどの苦労も否定したくない。

 道端のゴミ、迷子、捨て犬。よっぽど都合に沿う事情がなければ面倒は看ない出来事に篠岡だけは足を止めてもらいたい。世の中にそういう人間がいることで少し安心できる。この期に及んでそんな無責任な想いに囚われてしまった。

「お前、すごいな。がんばってるよ」

 何度か深呼吸を繰り返したあと、結局当たり前な感想しか出てこなかった。だが、素直な気持ちだ。

「『偉い』『すごい』ってみんなにも誉められるだろ? 『完全燃焼』とか『命懸け』とかよく聞くけど、実際やってる奴なんていないもんな。誰だって疲れたら休むのに、倒れるまでやるなんて、お前本当にすごいよ」

 こんなことを言ってどんな意味があるのか。むしろ篠岡を調子づかせてますます苦労に没頭させてしまいそうだ。

 まずいことを言ったと反省して、いつの間にか下がっていた視線を持ち上げて篠岡を正視する。

 様子がおかしい。

「……めて――やめて! そんなつもりでしてるわけじゃないから!」

 力みで満ちた肩は凍えるように縮まって震え、表情は泣き顔が引き攣っている。褒められて照れるどころではなく、怯えているようにすら見える。褒められる程度のことでさえ、これほどまで報酬に拒否反応を示すのか。

「ただ苦労がしたかっただけだから、ワタシのしたことに意味なんてないです。緩居くんだって『積み重なるものがない』って言ってたじゃないですか」

 普段なら涙の悲壮な迫力で腰が引けていた。だが今は一気にこみ上げてきた怒りが逃げを認めない。

「意味がない? そんなわけないだろ。俺はわからなかったけど、お前ちゃんと積み上げてきてるんじゃないか!」

 篠岡志乃は崇敬の念に値するほどすごい人間だ。それを否定するなら例え本人だろうと――いや、本人だからこそ腹が立つ。

「ここまで乗せてくれたタクシーのおっさんだって感謝してた。あれは『娘同然』とか思ってるクチだ。お前は他人からそういう風に慕われる、立派な人間なんだよ」

 篠岡の影響力については実感がある。なにしろこの俺自身その熱意に乗せられ、「なにもしない」という自分の信条を捨てて今ここで実るかもわからない説得をしている。

「ワタシはただ……苦労してなきゃ……生きてる価値がないから」

 その言葉を聞いて、やっと納得が言った。

(ああ……お前も同じなんだな)

 やっと篠岡の本心に触れたと確信すると同時に、顔を覆って苦しむ姿が過去に付きまとわれた悩みを思い出す。

 自分の生命に価値があるかどうか。生きていてもいいのか。そのことに自信が持てない。

 それならよかった。俺はその悩みから脱出する方法を知っている。俺には陽子さんからもらった〝魔法の言葉〟がある。

「なあ篠岡、わからないなら俺が教えてやる。聞こえないなら俺が言ってやる。お前は『生きていていい』んだ」

 あの日の陽子さんをマネて、できるだけ優しく語りかける。

 篠岡は後ずさりし壁を背負った。口を動かして何事か呟いているらしいが、声にはなっていない。それが否定の言葉であることは、顔つきを見ればわかる。小さい動きだが首も左右へ反復している。

「届くまで何度だって伝える。お前は生きていていいし、幸せになっていい。楽しいことをいっぱいして、おいしいものをたくさん食べて……大きな声で笑っていい」

 陽子さんの魔法の言葉はこれで全部だ。これがどんな「がんばれ」より力強い応援に、安らぎになった。

 生きていてもいいのか。その疑いから逃れるためには誰かに好かれているという実感が必要になる。特に自分が好きな相手から想われたならそれ以上の保証はない。

 俺にとっては陽子さんがそういう存在になった。あの人がいるなら世の中も正しいと思えるし、あの人が大切にしてくれるなら俺も少しは自分をマシに思える。

 俺が篠岡にとってのそういう存在になれたらと思う。

(お前のこと、ちょっとは好きだしな。親近感も沸いたし)

 もっとも、篠岡には本来俺の好意なんて必要ない。これだけ活躍しているのだから大勢の人間に注目を浴びて尊敬なり憧れなりされているはずだ。だから俺はそれに気づくまでの繋ぎになるだけでいい。

 篠岡は陽子さんに救われたあともいじけた信条を掲げた俺とは違う。何度遊由に助けられても「どうせ恩は返せない」と諦めた俺とは違う。元々桁違いのエネルギーを持っている篠岡なら、同じ魔法の言葉でも違う結果を見せてくれるはずだ。

 期待して見守っていると、篠岡は全身の力を抜いてその場にへたり込んだ。嗚咽を漏らして泣いている。

「緩居くんはやっぱり……ワタシを放っておいてはくれないんですね」

 涙が跡を残して枯れてもなお作り笑顔は悲しみで溢れ、気を失っていた間よりも生気がなかった。説得が通じていない。突けば砕けそうなほど脆く思えて胸が騒ぐ。

「誰にも――妹にだって話していないことを全部打ち明けたら、そうしたらわかってくれますか……? ワタシが幸せになんかなっちゃいけない人間だって」

 ギシギシに荒んだ表情とは裏腹に落ち着いた声色、それが余計に悪寒を刺激する。しかし秘密を話すと言っている以上聞き逃すわけにはいかない。

「話してみろ、相談に乗ってやる」

 両足を踏ん張って、追い出されるつもりはないと意思を示す。

「じゃあ……話します」

 篠岡は短く息を吐いて、それから二度三度と深呼吸を繰り返した。それからようやく、意を決したように言葉を搾り出す。

「ワタシ――人殺しなんです」


 正直なところ「なに言ってんだコイツは」としか思わなかった。篠岡の言動に対してならお決まりと言っていいほど何度も抱いた感想だが、今度のこれは超ド級だ。

 篠岡は顔色を悪くして見るからに絶望に沈み込んでいる。嘘や悪ふざけを言ったテンションには見えない。ならばこちらも合わせて真剣に応えなければ――とは思うのだが。

「なに言ってんだお前は」

 本音を隠せなかった。そんな話信じられるわけがない。

「どんな事情で殺人なんてやったって言うんだよ。お前の半生にもつれるほどの痴情があったってのか? 嘘こけ」

「そんなの一本だってもつれてませんよ! でもワタシ本当に殺したんです!」

 堂々と大変なことを自白しているわけだが、だからこそ不似合いが際立つ。

「じゃあ、どうやって殺したんだよ。具体的に言ってみろ」

「それは……見殺しを……」

 顔を覆って声を震わせているが、その深刻さにはどうしたって付き合えない。

「ほれ見ろ。見殺しって、お前なにもしてないんじゃないか」

「放っておいたら死ぬってわかってて見捨てたんですよ? 殺人と同じことじゃないですか! 小さかったからって許されることじゃありません!」

 責任感と強い呼ぶべきか自意識が激しいと呼ぶべきか。

 どうやら以前に瀕死の人物と接触し、助けなかったことを後悔しているらしい。そのときのことを思い出し自責の念に駆られてしまうから、「なにもしない」で過ごすことを嫌う。それが篠岡の厄介さの正体だ。

 単なる苦労性。そんな最初の印象とは随分違ってしまった。となると笹目先輩も同じなのだろうか。なにかが起きて「人生は良いこと半分、悪いこと半分」と思い込むようになった、そうなのかもしれない。

 とりあえず今は篠岡のことだ。

「じゃあひとつひとつ確かめていくか。徹底的に論破してやるから覚悟しろ。まず、それはいつのことだ?」

 有無を言わさずに一つ目の質問をすると、篠岡は背筋を伸ばして胸の前で手を組んだ。懺悔のつもりでいるのかもしれない。

「小さい頃で、6才の夏……だったと思います」

「正確には憶えてないのか」

「しばらくは気にしてなかったんです。時間が経ってから振り返って、自分がなにをしたのかわかったんです。しかも大変なことがあったのにもうほとんど忘れてしまっている。ワタシはそういう罪深い人間なんです」

 繰り返し自分の罪について言及する姿勢は、そうやって罪悪感を堅持しなければ自分を赦せなくなっているらしい。自分の善性を信じるなら過去の行いを反省する必要があって、その結果生まれる罪悪感が善性を揺るがす。ネガティブな陶酔が酷い悪循環を生んでいる。

 時期があやふやなのは気になるが、だからといって「夢かマボロシだ」と主張するのも虚しいので次へ移ることにした。

「お前6才だったんだろ。そのとき重大さに気づいたって、なにかできたと思うか?」

 瀕死が事実なら篠岡に責任はない。子供の手に負える問題じゃあないからだ。

「でも、大人を呼びに行くくらいはできましたよ」

「ん、んー……そうだな」

 そうする義務はなかったと付け加えたところで篠岡の罪悪感は消せない。あやふやな部分を突くのではなく、ハッキリした論拠を示さなければ納得させるのは不可能だろう。

 そのためにはしっかり話を聞なければならない。そう想いを新たに耳を傾ける。

「そうです。ワタシが助けを呼びに行かなかったから死んでしまったんです――きっと」

「ちょっと待て! 今『きっと』って言ったか? それってもう空想だろ? やっぱりお前が勝手に『死んだ』って思い込んでるだけのことだろ?」

 さすがに抑えていられなくなって食いつくと、篠岡は腕を振り上げた。

「状況を考えればそういう結論になるんですよ! 山の中であんなに苦しんでたんだから死ぬに決まってるじゃないですか! もう、いいからちゃんと最後まで聞いてください!」

 メチャクチャを言いながら机をバンバンと叩き、さっきまで青白くしていた顔を赤くして怒っている。元気になっている。

 篠岡はどうやら怒るときも完全燃焼らしい。眼尻の端から眉の先までピクピク動かして抗議してくる。だからといって凄みを出すには顔の造作からして無理があり、身長の低さも相まって足元で吠え立てる仔犬のような愛嬌がある。

「なにをニヤニヤしてるんですか!」

 言われて驚き、自分で触って確かめてみると頬が持ち上がっていた。篠岡が大声を出せるくらいには気分を持ち直していることで嬉しくなってしまって、まだなにも解決していないのに安心感が出てきたせいだ。

 本来の目標さえオボロゲになりつつある。篠岡の悩みの解決、それとも目障りな努力家の排除、どっちをしようとしていたのか。

 そんなことを気にするよりも今は、叱られるんでもいいから篠岡と話していたい気分だ。

「いやスマン。ちゃんと聞くから話してくれ。山で毒キノコ食って泡吹いてる奴を見つけたとこの続きからだな」

「そんなもの食べてませんでしたよ!」

 小声で「多分」と付け足したのは聞かなかったことにして、話の続きを聞く。

「この近くの山でどんぐりを探していたら、倒れているのを見つけたんです。話しかけても返事がなかったから事情がわからなくて……。気にしないで帰っちゃったんですけど、あれは具合が悪かったんだって気づいたときにはもう何日も経っていました」

 心の中で頷く。急病人の状況としては実体験を通じてよく理解できる話だ。

 重度の発作なら呼吸すらうまくいかないので質問をされても返事ができない。電話で居場所を伝えて助けを求めることすらできない。軽度の発作なら喋ることはできても、同情はまっぴらなので助けてもらいたくない。

「お父さんは『きっと誰かが助けた』って言うんですけど、あんな所誰も通らないんです。道もないのにワタシのあと誰かが来るなんて考えられません」

 また心の中で頷く。確かにこの辺りの山は観光スポットということもなく見所はなにもない。

 年に何度か親戚を訪ねるとき、歳の近いイトコもいないので毎回暇を持て余してこの近所を散策する。なのである程度この辺りの地理は知っているし山にも入った憶えがある。

 誰も立ち入らないような山中で死にかけているなんて、それこそ原因が毒キノコでもない限り犯罪の臭いがする。篠岡に責任はないと明言してもらうためにその〝瀕死さん当人〟を捜す案も視野に入れていたが、不審者となればお近づきは避けたいところだ。

「同じ年くらいの男の子――子供だったんですよ? 具合が悪いのにあんな所からひとりで、無事に帰れるはずがありません」

 確かに、と心の中で頷く。具合が悪い・小さな子供が・あんな所から。ひとつも漏らさず体験しているからよくわかる。

 あれは俺が6才の頃、例によってこの近所の親戚の家に飽きて外へ出たときのことだ。

 見慣れない道に興奮して歩いていたら発作を起こした。自動車の排気ガスを避けて休もうと考え空気のよさそうな山へ入ったものの、それが裏目に出て野焼きの煙が直撃し自力で動けないほど重症化してしまった。あれを超える苦しさを味わったことは未だない。

 嫌な記憶を反芻している間に妙な違和感に囚われた。

「はて……? この近くの山の中で、死にかけてた、篠岡と同い年くらいの男……?」

 完全に一致している。

「あ、それ俺だ!」

 そう言えば出張して救助に来た遊由の前に、誰かが近付いて来た気がする。意識が朦朧としていたのでそれも遊由だと思っていたが、篠岡だとしたら辻褄が合う。

「あの子は死んだ! ワタシが殺したんです!」

 聞こえていなかったようでベッドに顔を押し付けて嘆き悲しんでいる篠岡の首をガッと掴んで持ち上げる。

「いやいやいや、死んでないない。それ、俺だ俺」

「え……? 気休めを言わないでください! 緩居くんなわけないじゃないですか」

「親戚がこの近所に住んでるんだよ。俺にとっては日常茶飯事だから気にならなかったが、普通瀕死の人間なんてそうそういないだろ。俺だよ」

「どうして、緩居くんが死にかけるんです」

 それについては実際に見せた方が早い。と言うよりそうでもしなければ納得しないだろう。幸い――なわけはないが、「日常茶飯事」と言ったように死にかけることなら得意中の得意だ。

「証明してやるから、ちょっとこっち来い。篠岡妹! ライターでもマッチでもいいから火を持ってこい!」

 篠岡を引っ張って廊下へ連れ出す。声掛けは部屋の中からだったが、がっつり立ち聞きしていたようで篠岡妹は既に背中を向けて走り出している。協力的で結構なことだ。

「あっ! これ……。えっ? もしかして読んだんですか?」

 足元に散乱している紙束を指して篠岡が騒ぐ。

「ああ読んだぞ。遺書にひとの名前なんて書くんじゃねえよ。もしタイミングよくお前が過労死したらもの凄く後味悪いだろ。俺のきっと短い人生に重いもの背負わせようとするのはやめろ」

「きっ――昨日のも見たんですか? アレは遺書じゃ……」

「うん? 遺書じゃないならなんだって言うんだ」

 これだけ書きこなしておいて今更トボけられると思っているのか。じっと見つめていると段々顔が赤くなっていった。

「もう! いいじゃないですか、なんか違うと思って最後まで書かなかったんですから! それよりあのときの男の子が緩居くんだっていう証拠はどこなんですか? 早く見せてくださいよ。そんなものがあるならですけどね!」

「そうやって頑固でいられるのも今のうちだ。吠え面をかかせてやるぞ」

 丁度篠岡妹が戻ってきた。視線は困惑しているが、説明はしてやらない。馬鹿なことをやろうとしていると自分でも思うので口に出したくはない。

「納得したらもうこんなもの書くなよ! ウジウジ悩まなきゃいけないような過去なんてお前にはないんだ」

 床の遺書を残らず庭へ蹴り落とし、足で一箇所へ集めて火をつける。すかさず屈んで火元に顔を近づけ、立ち始めた煙を思い切り吸い込んだ。

 途端に肺が反発して咽そうになる。堪えて、回転棒のところへ駆け寄って手を置いた。力を込めると、石臼のような音が鳴り響いた。

「ウソ……お父さんにも回せないのに」

「おねーちゃんだって、あんなに速くはできないよ!」

 そこからは腰を押し当てて一気に回した。音が大きくなって他になにも聞こえなくなる。

 自慢じゃないが、体力はからっきしでも筋力はかなりある。健康な人間より力んで生きているからと自分ではそんな風に考えているが、発作時は特に全身張り詰めるので的外れでもないと思う。

 3周もすると息が続かなくなってきた。ずるりと手が滑って成す術なく地面に落ちた。

(どうだ? お前が見たのはこれだろ)

 狭まった喉からヒュウヒュウと音がして視界が涙で滲む。表情までは確認できないが、立ち尽くしているところを見ると計画は成功したようだ。

「あ……ああ、同じです! そうです。息切れみたいな音を出してて……。でも、どうしてこんな馬鹿なことを!」

 瀕死を実践して見せた。本当に自分でも馬鹿だと思う。だが、誇らしくもある。

「お前に……価値が、あるから」

 駆け寄ってきた篠岡に精一杯の肺活量で伝える。

 例えここで死んでしまっても、今後篠岡が自分のために時間と労力を使うようになるならコストパフォーマンスとしては上出来と言える。コイツはそれだけのエネルギーを抱えている。

 今日何度か挑戦してみて、俺は陽子さんにはなれないとよくわかった。

 だが、ダメな見本になることはできる。〝死〟というものはこういうことだと見せ、それを見ていることしかできない者の気持ちを味わわせることはできる。

「おねーちゃん、このひと多分喘息だよ」

「それってどういうの? ワタシ病気したことないからわかんない!」

 篠岡姉妹が騒ぐ声が遠くに聞こえ始めた。意識が閉じて、自分のことしか感じなくなっていく。思いの外重症化しそうだ。

 大体の場合はじっとしていれば遊由が良いように計らってくれるが、今ここでああまで熟達した対応は期待できない。口で指示することもできないし、世話を焼いてもらうのも申し訳ない。

「調べたら息が吸えなくなるんだって」

「息? それなら――」

 慌てふためいている気配を察すると、改めて馬鹿なことをしたと思う。同情も心配もかけられたくないのに、眼前にある篠岡の顔にはそれだけしかない。これだけ間近だと無視することもできない。涙もはっきりと見える。息で鼻の頭が湿るほどに近づいている。

(近づいて――ちか、ちかっ!?)

 唇が触れ合っている。つまりはキスだ。いくら心配だからといって、陽子さんも遊由もこんな距離まで来たことはない。当然だ。そんな必要はない。

(なに考えてるんだコイツ!)

 完全に発作どころではなくなった。逃れようともがいたが、両腕を回してガッチリ後頭部から押さえられていて動けない。しなだれかかるようにしてくっ付いているのであちこち柔らかくてたまらない。

「動かないでください」

 重なった唇を擦って篠岡が喋る。一体なにを、と考える暇もなく驚くべきことが起きた。

「ぷぅっ」

 篠岡の口から息が吹き込まれた。肺が広がり、身体を窮屈にする痛みが失せていく。血液に酸素が戻っていくのがわかった。

 気管が狭まり空気を吸い込めなくなってはいても、肺の機能までが弱っているわけではない。だったらこうしてムリヤリ押し込んで、強引にでも肺を膨らませてやれば呼吸は回復する。

(人工……呼吸か……)

 考えたこともなかった。発作が起きれば当然苦しいと、その先のことはとっくに諦めていた。さすが篠岡と感心するしかない。

 強く短く呼吸を繰り返す篠岡はすぐ顔が真っ赤になって汗をかき始めた。入ってくる空気も増して生温かく感じる。これを同情と見るには熱を持ち過ぎて、身じろぎをする隙間もないから捻くれた受け止めかたもできない。

 体は随分と楽になった。もう充分だ。唇にほんの少し力を込めて押し返し、悪戯心が働いて篠岡の下唇を軽く食む。それから頭の上に手を乗せて髪を撫ぜた。

「ありがとうな。十年前の分も合わせて、助けてもらったよ」

 もちろん貸しがあったとは毛ほども考えてはいない。ただそうしておくことで篠岡が過去をやり直したつもりになり後悔を消せるのならと、そう願いを込めた。

「ふぐっ……生きててくれて、ありがとう……」

 尻の痒くなることを言って、篠岡はわんわん泣き始めた。泣き止むまでその頭を撫でていた。そうしたいから撫でていた。

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