篠岡家の庭には奴隷棒がある
電話をかけてきたのは篠岡が社長を務めている会社の従業員だった。事情を説明して駐車場で待っていると、えらくスピードを出したタクシーがやって来た。
目の前で停まったかと思うとすぐに運転席のドアが開き、降りてきた五十過ぎくらいの運転手に胸倉を掴んで凄まれた。
「てめぇ、志乃ちゃんに変なことしてねえだろうな」
あまりに唐突で動転した以上に、体力を使い果たして発作も軽く起きていたので息が切れて反論ができなかった。
呼吸に合わせて喋るタイミングを探る間に、それが篠岡の名前だということに思い当たった。
「なにも……してないッスよ!」
反論しても信じてもらえなかったようで、疑いの視線を向けてくる。篠岡はまだ眠っているので援護もない。
「ホントか? この子を傷つけやがったらテメぇ、一生分乗り物酔いさせてやるぞ」
どうやら篠岡社長はとても大切に想われているらしい。
とにかく篠岡を後部座席に乗せ、隣に乗り込んだ。着ぐるみは篠岡と同時に持ち運べないので仕方なく頭だけ外して着ている。
篠岡の自宅はこの運転手が知っているらしいのでもう任せてしまってもいいが、篠岡が目を覚ましたとき、し損ねた苦労を取り替えそうとする不安がまだ残っている。
移動の車中で運転手から篠岡のことを色々聞かされた。起業までの奔走、路線拡大するに当たっての奔走、従業員への様々なケアの為の奔走。想像通りやたらとがんばっているらしい。
「どういう友達か知らんが、おじさんたちにとって志乃ちゃんは恩人なんだ。大切にしてやってくれよな」
車が社用車であるように、運転手は本来タクシー会社の人間だった。通学サービスに必要な人材として不運な事故や健康の問題で退職した元同僚を紹介したのが彼ということだ。今では本人も空き時間を利用して手伝っているそうだ。
停車するたびに後ろを気にして、料金メーターは回らずに貸切の札が出ている。
自分のことか同僚のことか、「恩人」と言ったのも大袈裟でなく、篠岡に感謝はしているんだろう。ただ、篠岡は感謝で満たされもしなければ低調に扱うことで救われもしない。
(大切にしてないのはお前らだろうが)
篠岡が人手を確保する目的で会社に乗り込んできた時点で、「ガキが出しゃばるな」と一蹴してくれたらよかった。おかげで篠岡がどれだけ思うさま苦労を貪ったことか。
(いや、こいつは諦めないな。だったらとりあえずこれで良かったのか? でもなぁ……)
「最悪ではない」という理由で現状を肯定することを「後ろ向きな考えだ」と嫌えるほど、健やかな生き方はしてきていない。だが、気に入らない。
とは言っても彼らに落ち度があるわけでもない。この場合普通ならそれこそ感謝で済む話が、恩人側のせいでややこしくなっているだけだ。
近道を用意してくれただけよかった。やはりそう評価するべきだろう。なので不満は胸の内に留めることにした。
「心配しなくていいですよ。絶対幸せにしますから」
無視するのもなんなので思い付くことを返すと、急に車体が左右に揺れた。「認めねえぞ」と呟いているが、何について言っているのかはわからない。
(いくら大事にされてたってこいつが自分を大事にしないと、なんにもならないだろ)
嫌な夢でも見ているのか、うなされている篠岡の寝顔を見る。指で引っ張って眉間の皺を伸ばしてやるくらいしか今はしてやれることがない。
篠岡の家に到着し、「あとは結構です」と告げると舌打ちを残してタクシーは走り去って行った。なんだか敵視されているような気がする。篠岡を社長の座から引き摺り下ろしたいという考えが読まれているのだろうか。
ともかく今は篠岡を家の中に運び込まなければならない。が、玄関のインターホンを押しても反応がなかった。二度三度続けて押しても変わらない。
そう言えば篠岡の家族構成を知らない。留守ということもあるのだろうか。
となると鍵が必要になるが、着ぐるみには携帯電話の他に何も入っていなかった。未だ眠っている篠岡の短パンに手を突っ込んでポケットをまさぐるのは気が引ける。
弱って試しにノブに手をかけると、扉は呆気なく開いた。鍵がかかっていない。
「なんだオイ無用心だな……。まあ助かったからいいけど。おじゃましまーす」
一旦下ろした篠岡をそのままにして、大きく扉を開いて固定するものを探す。
「ちょっと、おねーちゃん!」
突然の声に気付いて中を覗くと、少女が仁王立ちで待ち構えていた。見目からして篠岡によく似ている。「おねーちゃん」と呼んだからには妹なのだろうが、背格好はほとんど変わらない。
「ご飯用意していってくれないからお腹空いちゃったじゃん! 早く作ってよね! あとお風呂の用意も急いでね!」
篠岡で手が塞がるので着ぐるみを着ていたから、そのせいで間違われているらしい。
「ああ、俺は篠岡じゃない。ってことはやっぱりコイツこれ着て出かけたのか。凄いな」
着ぐるみの首を外して顔を見せると、篠岡妹はぎょっとした顔で一歩下がった。警戒している。知らない男が姉が着ていた物を身につけて現れたのだからムリもない。
「テメぇ誰だ! おねーちゃんをどうした!」
態度を一転――というより激化させて威勢良く吠える。篠岡の妹としては意外な気性だ。
すぐ後ろで眠っている篠岡とほぼ同じ顔が目の前で険悪に表情を歪めているのを見ているとなんだか不安な気持ちになる。もし「我は篠岡の奔放な精神が乖離した分身である」とか言い出したら信じてしまいそうだ。
「威嚇はやめて落ち着け。疲れて寝ちまったお前の姉を運んできただけだ」
言い残して外へ戻り、篠岡を抱え上げてもう一度玄関へ入り直す。
篠岡の性分は家族なら承知しているはずだ。なのでこれ以上説明は必要ないと思ったら、篠岡妹はますますいきり立った。
「テメぇ、おねーちゃんになにさせた!」
出かけた身内が意識を失うまで疲れ果てているのだから、普通なら何があったか心配でたまらないに違いない。だがコイツは篠岡だ。話はまったく違ってくる。
「俺が何かしなくても勝手に苦労しようとするだろ」
「文句はいいから先におねーちゃんを部屋に運べよ、グズ」
(コイツ……!)
いちいちトゲのある物言いに腹が立つ。
ただ、それが優先なのは事実で、個人的にもそろそろ篠岡を下ろさないと体力的に辛い。ひとまず家の中へ通される程度に信用を得た、と考えて辛抱することにした。
「ホラこっち、サッサとする!」
急かされて土足(着ぐるみなので脱げない)のまま上がり込み、平屋の廊下を奥へ進む。
縁側に出て廊下や庭を見渡した限り敷地は随分広く充分に「屋敷」と呼ぶに値する。かといって金持ちという雰囲気を感じないのは古さが理由だろう。板張りや柱はかなり傷んでいる。
この辺りは古い町で、篠岡家も昔からの住民なのだろう。この近くに親戚が住んでいるのでよくわかる。
なのでどことなく懐かしさを覚えながら廊下を進んでいると、横手の庭に信じられないものを発見した。
(あれはまさか……いや、そんなバカな)
事実としてあまりにも受け入れ難く、目を逸らす。ともかく篠岡を安静にさせるのが先決だと動揺を抑えつつ、篠岡妹のあとについて歩くことに集中した。
「ホラ、ここ。ベッドに置いて」
言われた通り篠岡をベッドに寝かせる。篠岡の部屋は予想の域を出ない質素なものだったが、今はそんなことはどうでもいい。
篠岡妹の背中を押して素早く廊下に出ると部屋の戸を閉じ、庭を指差す。
「オイ、なんだコレは!」
そこにあるのは民家の庭先に据えられるにはこれ以上ないくらい場違いな物だ。地面から生えた柱と、その周りに突き出た出っ張り。
「アレってファンタジーで悪いヤツが村人とかを浚ってきて、目的もわからないの回させる例のアレだろ? 一種の拷問器具がどうしてここにある」
庭に下りて直接触れてみると、かなりの重量があった。体重をかけてもビクともしない。笹目先輩が鉄仮面なら、篠岡の怪力の理由はこの〝奴隷回し〟らしい。
「うっさいわね。目の前で怒鳴んないでよ。昔夏休みの工作で作った、船についてる錨の巻き上げ機の模型、実在したっつーの」
平然としていられることが信じられない。それがどういう意味を持つか、わからないとでも思っているのか。
もっと大きな声を浴びせてやるべく顔を近づけ、弱い肺活量で精一杯吸い込んだ空気を言葉と同時に吐き出した。
「実在したことに驚いてるわけじゃねーよ! これ、篠岡にさせてんだろ」
それ以外に目的があるとは考えられない。現に柱の周りは地面が円状に削れている。あれは捧を押して歩いたあとだ。一体どれだけ回せばああまで深い溝ができるのか。
家族は当然篠岡を止めようとしていると思っていた。少なくとも悩んでいると思っていた。それがまったく逆で、欲しがるオモチャを与えるようにこんな物を用意している。
「それとさっき、家事も押し付けようとしてたな? 普段から自分の世話焼かせてんのか。『便利な姉がいてラッキー』ってか? フザけんな!」
卑怯な人間にとって篠岡は都合のいい存在と言える。掃除当番を引き受け、教師が見放した問題児に構い、ものぐさな生徒に通学手段を与えて社会に雇用を生んだ。
本当なら賞賛されてもおかしくないことをやっているのに、ただ利用されるだけで当人も疲弊して死んでいくことを望んでいる。
「お前の姉は苦しんでるんだ。一番近くにいるくせにそれをわかってやらないなら、家族だろうと俺はお前らを敵と見なすぞ」
怒りをぶつけるべく睨みつける。すると、篠岡妹の眼から涙がこぼれた。てっきり反発が来ると思っていたので不意を突かれた。
「だって……しょうがないじゃん」
肩が震え、手の甲で顔を拭ったあとには怒りの形相が覗いている。
俺を睨み返しているわけじゃない。これは憤り。覆せない逆境と、なにもできない自分に対する怒りだ。
「おねーちゃん全然言うこと聞いてくれないし、どこでなにしてくるかわかんないんだから、見える所で安全なことしてもらってたほうがいいじゃん」
その考えは身に覚えがある。遊園地で笹目先輩をホラーハウスに連れ込もうとしたとき、動機はまったく同じだった。直前で取り止めはしたものの、かといって最適な答えは今も思い付けないでいる。
「おねーちゃん、することがなかったら一晩中怖がって泣くんだよ? 体動かして疲れさせたら寝ちゃうから、あんな物でもおねーちゃんには必要なの!」
同じところで迷っている。答えを出せずに苦しんでいる。篠岡の家族は卑怯者でも敵でもなかった。
「すまん、俺が悪かった。てっきり家族ぐるみでアイツをこき使――」
「大体アンタはなんなのさ! 期待外れのくせに!」
誤解したことを謝ろうとしたら、その前に食ってかかられた。なにについて責められているのか飲み込めず戸惑っている間も篠岡妹の激情は加熱していく。
「そのうち悪い男に騙されるかもって心配はしてたけど、たった一日で気を失うまでしゃぶり尽くすってどういうこと? このヒモが!」
「しゃぶり尽くすって……ああ、そういうことか」
俺が篠岡を使い潰したと疑われている。とんだ見当違いだが、「ヒモ」という罵声は心にヒビが入るほど強烈だ。陽子さんや遊由から一方的に世話を焼かれている立場なのでとても後ろめたい。
一瞬くらっとするほどのダメージを受けたが、踏み止まって釈明する。
「いや、お前の姉が倒れたのは俺が便利に働かせたからじゃないぞ。いつもの調子で、自分で勝手にやらかしたんだ」
篠岡妹は不思議そうな顔で、首をこてんと横へ倒した。
「デートしてきたんじゃないの?」
「んなもんじゃねえよ」
「そんな、デートだと思ったからいっぱいオシャレさせて出かけさせたのに」
今朝見た篠岡のやたらとめかし込んだ格好を思い出した。あれは妹のプロデュースだったようだ。
「おねーちゃんかわいかったでしょ。普段とイメージ違って驚いたでしょ」
「お、おう」
詰め寄る勢いに圧されて返事を引きずり出された。別に嘘ではないが。
「そういうのちゃんと伝えた?」
「いやいやいや、なんで俺が気の利かないカレシみたいな扱いになってるんだよ。俺はお前の姉の恋人でもその候補でもないんだ」
篠岡の家族としては未来の恋人に期待している部分もあるのだろう。そういう意味では言われた通り〝期待外れ〟ということになる。
だが篠岡妹はまだ納得しない。
「気になったから『どうかしたの?』って聞いたら『同じクラスの男子から呼び出された』って言うじゃん? そのせいだよ! おかーさんも『好きな人ができたら変わるかも』って言ってたし」
こうして他人の口を通して聞かされると勘違いが起きても無理はないように思える。ただしそれはどこまでいっても外野の感想レベルの話だ。事実とは違う。
そもそもそう解釈するには篠岡が俺を意識しているという前提条件が付いてくる。しかしながら篠岡にとっての俺は〝休日デートに誘った同じクラスの男子〟ではなく、〝念願を妨害する邪魔者〟でしかない。
「あ……なんだな。アイツはいつもおかしいだろ」
わざわざ「嫌われている」という話をするのも虚しいのでもうひとつの確実な間違いを否定しておいた。昨日知り合ったばかりでも断言できる。
「違う! そうじゃなくて、おかしかったんだってば」
篠岡妹は食い下がった。説明こそできていないものの、真剣そのものの気迫が溢れている。意地だけで言っているわけでもなさそうだ。となると根拠が気になる。
「おかしかったって、具体的になにをしてたんだよ」
「なにもしてなかったの」
聞く姿勢を見せた途端にあっさりそんなことを言うのでガックリきた。理解されようという意欲があるのか疑わしい。
「ねえねえ、変な顔してないでちゃんと聞いてってば!」
「ああもう! わかったから話せよ、もうマイペースでいいから!」
胸倉を掴んでガックンガックン揺さぶられ、すべてを諦めた。こいつはこいつでめんどくさいやつで、やはり篠岡の妹と納得するしかなさそうだ。
「昨日の夜、おねーちゃんなんにもしなかったの。いつもは夜になったらアレぐるぐる回してるのに、なにもしないでボーっとしてたの」
さっき聞いた「なにもしてなかった」というのはそういうことらしい。
「確かに変だな。怠惰に過ごすなんて、普段のあいつなら絶対落ち着かないはずだ」
「でしょ? 不発弾の処理を手伝いに行って、しつこいから警察に捕まったあのおねーちゃんがだよ? 青信号のときに音楽流すスピーカーが壊れてたから代わりに横断歩道で一日歌ってた、あのおねーちゃんがだよ?」
聞く限り完全に怪人だ。さすがずっとそばで見てきた身内だけあって知らない情報がザクザク出てくる。
ただ、肝心な部分の説明にはなっていない。
「確かにおかしいが、その原因が俺だっていうことにはならないだろ。この際言ってしまうが、俺は嫌われてるぞ」
「そんなわけない。だってアンタ〝緩居くん〟でしょ?」
名前を言い当てられて一瞬虚を突かれたが、昨日のうちに話を聞いていればわかることだ。危うく乗せられるところだ。
そういう考えが顔に出ていたらしく、篠岡妹は気に入らない風にフンと鼻を鳴らした。
「いいよ。それじゃもう証拠見せるから」
そう言うの篠岡の部屋とは違う隣の戸を開け中へ入り、すぐに出てきた。封筒の束を抱えている。
「これ読んで。アンタ腹立つけど、大変なのにおねーちゃんの相手してるってことは助けたいんだよね? そこだけ信じるから」
頷いて封筒を受け取る。
よくある茶封筒だが、郵便物ではないと一目でわかった。表に大きく「遺書」と書かれている。こんな凄まじいものを用意したのが誰か、想像は付く。
(篠岡お前……どこまでも本気なんだな)
いつ過労死の望みが叶って死んでもいいように準備しているのだろう。しかもこの数だ。定期的に更新して、古いものを篠岡妹が保管していたようだ。
言葉を失っていると嘆息が聞こえた。続く声は暗い。
「アンタがおねーちゃんのことどこまで知ってるか知らないけど……。おねーちゃん、死のうとしてるんだ」
家族の遺書を拾い集めるなんて、どれほど荒んだ気分になることだろう。それを他人の俺に託す意味は重く受け止めたい。
「……読むぞ」
この世に残していくものならきっとこの遺書には篠岡の心そのものが刻まれているはずだ。そこに触れると思うと指が震えた。
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