あなたはもうがんばっている

 肌を滑る水滴を追って輪郭を撫ぜた人差し指を顎で留め置き、笹目先輩は頷いた。

「つまりこういうことかしら? 貴方の考えるまっとうな生き方をさせるために私たちを宗旨替えさせると」

「あっ……ああ! そういう意味ですか!」

 顔を真っ赤にしていた篠岡はなにやら全身から力を抜いてぐったりとした。よくわからないが早速脱力させることに成功した。

「ダメですよぉ、緩居くん。女の子にそういうこと言うのは、特別なんですからね」

「なに言ってんだ? お前らは過ぎるくらいに特別だろうが。なにも間違ってねーよ。苦労だ苦痛だなんて考えないでも生きられるようにしてやるってんだ」

 当然の反応として、ふたりはあからさまに不満そうにしている。

「緩居くんこそなに言ってるんです。苦労してこそ人生が充実するんじゃないですか!」

「苦痛の経験なしにどうして幸せを実感できるって言うの」

 揃って強固な態度を見せる。こっちもそう易々と納得させられるとは思っていない。

「そんな哲学も信仰心も無くたって世の中はヌルく生きていけるってことを教えてやる。なにしろ俺がその証明だ」

「じゃあ緩居くんは幸せなんですか?」

「それは――」

 一瞬言葉に詰まった。しかしすぐに陽子さんと、それから遊由の顔が思い浮かぶ。

「ああ、幸せだよ。俺みたいなヤツには分不相応で申し訳ないって思うくらいにな。ただ、幸せってきっとそういうものなんだよ。なにをしててもしてなくても、脈絡なく舞い込んでくるものなんだ」

 或いは分不相応な喜びだからこそ幸せと呼ぶのかもしれない。

「だからなにもするなって言うんですか?」

「黙って運命に翻弄されるのを待つなんて耐えられないわ」

「ムリをしてるのは自分でわかってるだろ?」

 納得しないふたりもこれにはさすがに黙った。そう思っているからこその『苦労』で『苦痛』なのだから自覚が無いはずはない。

「お前らはムリをしてる。だから俺みたいなのが出てきた。そのめんどくさい生き方の埋め合わせが俺だ」

 かといって俺の生き方が自然だとも思わない。自分を疎んで他人を妬んで陽子さんに逃避して、そんな生き方が正しいとも思わない。

 だからこのふたりは、俺にとっての埋め合わせだ。今まで周りに縋ってばかりで、ずっと何もしなかった俺も何がしかの代償を払わなくてはいけない時が来た。そういうことなんだろう。

 少しの沈黙のあと、笹目先輩がため息を吐くようにして口を開いた。

「貴方は自分の意見を押し付けたいだけでしょう。夢見がちな貴方の言葉は聞くだけで苦痛だからそれは構わないけれど、私がなにをしているかも知らないのに否定するつもり? 傲慢ね」

 言われて、横の滝を見る。体験したうえで否定するというのは効果的だろうが、気は進まない。篠岡も様子を見る限り感想は同じらしい。

「バカね、もう少し気軽なものにしておいてあげるわよ」

 笹目先輩は大判のタオルを肩に羽織り、岩場に置いてあった下駄に足を通した。その横顔は少しだけ愉しんでいるように見えた。


 笹目先輩に案内されてまたしばらく山を歩き、到着したのは寺だった。時折鳥の鳴き声が聞こえても、それすら静寂の一つに感じるような清らかな空間で気分が落ち着く。

 ほぼ閉じた視界で板張りを見つめ、じっと身動きせずに固まっているとより静けさを感じる。

 なにをしているかと言えば。座禅だ。笹目先輩が住職にお願いして体験することになった。普段笹目先輩がしていることを知ろうという提案に乗せられている。

 住職に寄れば笹目先輩は「今時珍しい熱心な若者」ということらしい。生き方自体が修行染みているので、笹目先輩はこうしたひとたちと話が合うのかもしれない。


「なかなかやるわね」

 鐘の音が響いて座禅が終わり、縁側で休憩に入ってすぐに笹目先輩がこぼした感想はそれだった。

「フッ、『なにもしない』でいることに関して言えば俺の右に出る者はいないからな」

 一度も叩かれずに済んで住職にも無の境地に近いと誉められた。

「自慢するようなことではないわね」

 笹目先輩は濡れた装束を着替えて私服になっている。ブラウスに長いスカートは上下が白黒に分かれている、至ってシンプルな装いだ。どこかの制服のようですらある。

「そっちは大丈夫かよ」

 篠岡に声をかけると、だらしなく床にノビたまま痛そうに肩をさすった。あれだけ叩かれればそれは痛むだろう。

「う~……ワタシ、じっとしてるの苦手なんですよね」

「後半の住職、ずっとお前の後ろに待機してたもんな。座禅を満喫した、ってことでいいんじゃないか?」

「こんな独占、嬉しくないですよぅ」

 みっともない泣き顔がおかしくて笑う。

(ああ……こういうのなんか、いいな……)

 縁側から足を投げ出した庭に風が吹き、竹林の笹が揺れて擦れる。穏やかに時間が流れていく。聖域だからだろうか。確かに現世と切り離されたように感じた。

「……って、そうじゃねえよ! 危ねー、悟り開くところだった!」

 目的を思い出せば、こんなことをしている場合ではない。

「大体アンタらがだなあ――」

 立ち上がり、お茶を運んで来ていた坊主に詰め寄って胸倉を掴む。

「宗教家の役割は代わりに祈ったりなんだりして一般人の悩みや苦しみを肩代わりすることだろうが! 『神様仏様に任せとけば大丈夫』って信仰心を代行するのがアンタらの仕事だ! 全然コイツ救えてねえぞ、しっかりしろ! 出しゃばらせて苦行なんてさせてんじゃねえ!」

「なにしてるの、やめなさい!」

「緩居くん落ち着いて!」

 後ろからふたりがかりで引き離された。こっちも元々標的は坊主じゃない。

「『やめろ』『落ち着け』はこっちのセリフだよ。悟りたいわけでもねえのに真似事なんてしてんじゃねえ! もっと俗にまみれてその場限りの楽しみに目を奪われろってんだよ。それは堕落じゃねえ、娯楽だ。世の中は数え切れないくらいの〝楽しいムダ〟で成り立ってる。――そこ、なにか文句あるか!」

 坊主がなにか言いたそうな顔をしていたので睨み飛ばしておいた。好んで隔絶した世界にいるくせに、そこが理想というスタンスからの説教なんて聞きたくない。

「いいえ、違います! みんなが遊び呆けているように見えたとしても、誰もが何かに一生懸命なんです! 世の中を成り立たせているのはそういうがんばりの力です!」

 篠岡はいつものように小脇を締めて、力いっぱい反論してきた。

「娯楽はあくまで一服の清涼剤。浸りきって為になるものじゃありません!」

 坊主がうんうんと頷いて篠岡に同調していたので庭から石を拾って投げ、それからこっちも主張を再開する。

「そう言うからには、一生懸命な奴には会ったことあるんだろうな」

 言うと、篠岡は顎を引いてあからさまにうろたえた。

 あるはずがない。仮にあったとしても真逆の場合のほうが強く印象に残っているはずだ。転々と関わった運動部で怠け、妬み、妨害する――そんな連中とばかり接してきた篠岡の眼に世の中が健全に映るはずがない。全員がふざけた怠け者に見えているはずだ。そうじゃないと言うなら、俺が見せてやる。

「大抵の人間は大業も大願も成就しないどころか、最初から目指しもしないんだよ。学校で言われた勉強だけやって、会社で言われた仕事だけやって、空いた時間はずっとパチンコかレンタル屋で映画だ。でもそれが人生だ」

 そしてそれは篠岡も大して違わない。なにも目指さず危機感に突き動かされてるだけだ。

 篠岡が黙った代わりに笹目先輩が視線に軽蔑を乗せて飛ばしてきた。

「それ、誰の話かしら?」

「うちのオヤジだよ」

 篠岡を矢面に立たせるのは気が進まなかった。

「バカにすんなよ? うちのオヤジはな、俺みたいなお荷物抱えてもめげずに家族養ってんだよ。そんなオヤジに『もっとがんばれ』なんて言えってのか。『全力出せ』って言えってのか!」

 篠岡を傷つけたいわけじゃあない。そのつもりだったのに、話しているうちに腹が立って意地の悪いことを言っしまった。篠岡は肩を落として俯いている。

 彼女がオヤジに文句を言ったわけではないので謝りたい気持ちはあるものの、今までで一番効果的だったように思えたせいで素直にはなれなかった。オヤジのおかげで説得がうまくいったかもしれない。

 期待して様子を見ていると、落とした肩の先で拳が固く結ばれ、俯く顔は涙目でこっちを睨んでいた。

 効果があり過ぎたらしい。怒っている。

「いますもん……必死で、一生懸命なひといますもん」

 声が小さく聞こえづらかったので近づこうとすると急に手を突き出してきた。殴られるかと思えば、人差し指が伸びてこっちを向いている。

 少しの間意味がわからなかった。

「ハァ? ……俺か?」

 酷い人選ミスだ。怠けの伝道師を「一生懸命」の例に上げるなんて。

「緩居くん、がんばってますよね? 『がんばってる』って言ってください!」

 手を握られ上下に揺さぶられる。焦りの表情は否定したら絶望してしまいそうなほど追い詰められている。

 これで決着するかもしれない。そう思えば手は抜けなかった。

「バカめ、俺はなんの努力も――」

「一生懸命ワタシのこと説得しようとがんばってるじゃないですか!」

 トドメになるはずの言葉を遮られた。それでももう一度言い直そうとして――気付く。その行動こそが「一生懸命に説得しようとがんばる」の一環になってしまう。

「あ、うう……うぐぐ」

 何も言えなくなって、とりあえずその場に横になってだらけて見せた。が、これで進展はしそうにない。

(つまり、がんばらずに説得しなきゃいけないのか? なんだその縛りプレイ。意味わかんねえ! こうなったらえーと……一生懸命じゃなく意味のない努力を否定する方向に切り替えればいいのか? でもコイツ、目的持ったって絶対ムチャクチャやるんだろ?)

 考えるほどに段々と混乱が増していく。

(大体、正しい生き方なんて自分だって知らない。陽子さんに繋ぎ止めてもらってどうにかしているような毎日で――)

 自分の原点に立ち返ったところでハタと気が付いた。

「あっ、俺、間違ってる」

 陽子さんが赦してくれるから俺は生きていられる。それを思い出して気付いた。

 ふたりにとって陽子さんのような存在になってやりたいなら、ふたりの生き方を肯定するところから始めなければいけなかった。それなのに、自分の考えを捨てずにムリヤリ更生しようとしていた。そんなことを陽子さんならするはずがない。

「そうだな。俺はがんばってるな。でも間違えてたんだ」

 立ち上がって深呼吸をする。なんだか気分が軽く、肩が軽くなったような気がした。

 きょとんとしている篠岡を見つめる。その頬はまだ濡れていた。

 幸せになれるよう導いてやると宣言したのに、頬を涙で濡らしているようではダメだ。

「生まれたからには頑張らなきゃいけない。だから苦労してないと自分を赦せない。お前の主張はそういうことだろ?」

 篠岡の問題は苦労を求めることではなく、そうしなければ落ち着かないところにある。

「それは俺にもわかるよ。でも、ただ苦労を続けても積み重なるものがないだろ? 自分を豊かにしない結論なんて絶対に間違ってる。苦労には『し甲斐』ってものがあるんだ。それは夢中になれるものの中にある」

「うーん、でもワタシ、特別熱中できることとかないですし……」

 篠岡は渋い顔をしている。本音を引き出して話せているから、とりあえず順調だ。

「それを探すためにまずは楽しまないと、だろ? 俺も手伝うからさ」

「えと、それなら……お願いします」

 篠岡は小さな声で呟いて、もっと小さく頷いた。

 苦労を求める奴が「お願いします」と言った。ガッツポーズは心の中に留めた。

「じゃあ篠岡については話がまとまったところで、次へ行くぞ」

 あとに控えていた難題は腕組みで胸を反らしていて、頑なに拒絶する意思が姿勢が伝わってくる。鉄仮面を被っているのか被っていないのかさえ見分けが付かなくなりそうほど強固な態度だ。

「まあ、どんな苦痛をくれるのかしら」

 ありもしない「幸せ預金」が満期を迎える時を待って、現在の楽しみを拒絶する生き方を否定せずに習性する。これは厳しい。一度理解を示しておきながら裏切ったと思われているから警戒心も強い。

 だが、手がないわけでもない。

「笹目先輩、甘いもの食べに行きましょうか」

「――! ……貴方たちだけで食べたらいいじゃない。私は見ているだけで満足だわ」

 ツンとそっぽを向く、その寸前に顔が綻んだのを見逃さなかった。

「ムリするなよ。好きなんだろ、甘いもの。腹が減ってないなら他の楽しいことでもいい」

 笹目先輩がわざわざ苦痛を求めるのは、世の中が喜びで溢れているからだ。生きることがそもそも苦痛で退屈なら鉄仮面には用がない。だから笹目先輩は新しくなにか探す必要はない。

「なにをやったって将来に〝完璧な幸せ〟が保証されることなんてない。ショートケーキの苺をあとの楽しみに残しておくようなことはできないんだよ。すぐ食え。そういう一瞬一瞬の至福が人生を支えるんだ」

 笹目先輩の姿勢は崩れず、横を向いたまま反論が来た。

「それは〝逃避〟でしょう? 夜明け前に死ぬ人間もいるんだから〝永遠の不幸〟も〝やまない雨〟もあるのよ。なのに〝完璧な幸せ〟は無いって言うの? そんなのおかしいじゃない。さっきから偉そうだけれど、貴方は語れるほど人生を送っているのかしら」

 さすがにカチンときた。まだまだ陽子さんのようにはなれない。

「あーもう、この頑固モンが! 聞く耳くらい持てよ!」

「聞く耳を持つだけ苦痛だわ。歓迎すべきことね」

「なら聞けよ!」

 笹目先輩の視界に入るべく逃げ続ける首の動きを追ってグルグル回っていると、急に横から進路を塞がれた。篠岡が手を挙げている。

「あのー、楽しいコトならワタシに提案があるんですけど! おふたりともこれからの予定は空いてますか? 一緒に行ってほしいところがあるんですけど」

「嫌な予感しかしない」

 反射的に口が滑って、篠岡は憤慨した。

「まだ話してないじゃないですか! 遊園地、遊園地に行くんですよ!」

 遊園地といえばせいぜい待ち時間が暇なくらいのレジャー施設だ。あんなところで苦労と苦痛が味わえるわけがない、と信じたい。

「遊園地……遊園地」

 繰り返して呟く笹目先輩の、その口元が緩んでいた。

「あっ! おい、見ろ篠岡、コイツ喜んでやがるぞ!」

「わ――私は別に!」

 勢いよく否定したってムダだ。

「今までもちょいちょい喜んでただろ、見てたんだからな! やーい! なんだい俺よりよっぽど幸せなんじゃないかバーカ!」

 からかうと笹目先輩の顔色がぐんぐん赤くなっていった。そうしていたほうが鉄仮面よりよっぽど人間らしい。

「篠岡! 俺は行くぞ。遊園地」

「そうしてもらえると助かります」

 返事だけ確認して、すぐさま笹目先輩に向き直る。

「アンタも来いよ。俺と一緒にいるのが〝最大の不幸〟なんだろ? 俺は遊園地に行くからついて来い」

「そういうことなら……仕方ないわね。今更他の苦痛じゃ満足できないもの。これは仕方がないことだわ」

 これは案外チョロいかもしれない。

(っていうか、これもう解決してね?)

 しかし楽観はすぐに終わって、急に胸騒ぎが起こった。なにか見落としている気がする。

「あれ……? 篠岡、今お前『助かる』って言ったか? なにを助けさせるつもりだ? お前なにか苦労するつもりだろ!」

「ハイ! 一緒にがんばりましょうね!」

 答える篠岡は満面の笑みだった。やはり一筋縄ではいかない。

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