燃やせ怠けソウル
最寄り駅というわけでもないので普段の様子なんて知らないが、週末なせいか駅前は閑散として見える。駅舎そのものもホームがひとつと小規模で各駅停車でしか降りられない。自販機の隣にベンチを見つけたので座れただけよかった。
そんな田舎の駅前で篠岡を待っている。
遊由が無事手に入れてくれた電話番号に連絡したのは今朝だ。学校なら始業前に当たるような早い時間でも篠岡なら絶対に起きていると踏んで電話をかけたら、起きているどころか既に軽く息を切らしていた。想像のうえを行っている。
呼び出しに手こずるなら「とても大変な頼みがある」と持ちかけて苦労を餌におびき出すつもりでいたが、ふたつ返事でOKが出た。
基本的に断らない性格なのだろう。それを利用する連中が面倒ごとを押し付け、当人も苦労ができてWin‐Win――というやり取りまかり通っている。掃除当番がその証だ。
そんなことはもう許さない。
(見てろよ。お前の言う〝怠けソウル〟をたっぷりお見舞いしてやるぜ!)
たっぷり眠ったおかげで疲れが取れて、高揚感も戻ってきた。なにしろやる気を出し慣れていないので意気込み過ぎているかもしれないが、不思議と急かすことなく「きっとできる」と気持ちを前向きにしてくれている。
(……遅いな)
と言ってもまだ約束の時間にはなっていない。なのにそう感じるのは焦っているからでも篠岡が待ち遠しいからでもない。
篠岡のことだからバカみたいに早く来て待っていると思ったのに、三十分前になった今でも一向に現れなかった。
いっそ遅刻してくれたら案外ルーズな性格とわかって今後の説得が楽に――なんて期待は持たない。もし篠岡が遅刻するならそれは面倒に首を突っ込んで時間を取られた結果だ。
(つまり今頃、なにかやってるかもしれないわけだ)
この約束がどの程度重要視されているか。保険に苦労を匂わせておけばよかった。などと思考を巡らせていると、駅から出てきた妊婦がタクシーに乗ろうとしてよろけるのが見えた。
(おっと――)
とっさに前に出ようとした体が、すぐ横をものすごいスピードで抜き去った何かに驚いて固まる。
「大丈夫ですか? さ、どうぞ捕まって。ハイ……よいしょっと。いえいえ置きになさらずに! 元気なお子さんを産んでくださいね~!」
手を貸してテキパキと妊婦をタクシーに乗せると、大きく手を振って出発を見送る。その背中を視線で突き殺すつもりで見つめる。
しばらくすると察したのかビクンと震えたものの、往生際悪く向こうを向いたまま蟹歩きで駅舎の中へ飛び込んでしまった。柱の陰からチラチラと顔を覗かせているのを見ると呆れてものも言えなくなる。
別に遅刻をしたわけでもないのにあんな態度を取っているなら、やはりもっと早くに到着していたんだと思う。理由はこれから聞けばいい。
黙ってポケットに手を入れ、中の物を取り出すなり前に投げた。傷んだアスファルトに落ちた輪は重なって金属の音を立てる。
ほとんど同時に、篠岡がバネで弾かれたみたいにして駅舎から飛び出してきた。
「知恵の輪だぁ!」
狙い通り、彼女は頭を使う苦労も欲しがるようだ。まさかこんなに早く使うことになって、こんなに反応が良いとは思わなかったが、用意しておいてよかった。
「んなっ――? これ、解いてあるじゃないですか!」
拾い上げるなりバラバラになって落ちる輪を見て篠岡は愕然としている。
「バーカ、お前に苦労なんてさせねーよ。なんのために俺が来たと思ってるんだ。これからお前は俺と――どうした?」
知恵の輪ができなくてよほどショックだったのか篠岡は目を丸くして固まっていた。
「ええっ、ああ! いやなんでもないです……。大丈夫! 元の形も知らないし知恵の輪は戻すときのほうが難しかったりするもんですよね? なんだかよくわからないうちに外れちゃって二度と遊べなくなくなったり。大丈夫まだまだ苦労できますよ――ああっ! なにするんですか!」
往生際悪くカチャカチャやり始めたので取り上げて復元してやった。そしてよく見えるように外して見せる。
「ハイ! これで元の形もわかったし外し方もわかりましたね? ざまあみろ!」
「ああ~、なんてことするんですか……」
バカみたいに落ち込む後頭部を見下ろす。
「なんてこともなにも、俺はこれをしに来たんだよ。徹底的にお前の邪魔をしてやるんだからな!」
「ええっ? そんなこと頼んでないですよぉ」
立ち上がってため息をつく篠岡を見て、複雑な気分になった。
予定通り篠岡の苦労を邪魔できてはいるが、苦労の象徴のようなため息を聞かされてはうまくいっているのかどうかわからなくなる。
一体どうすればいいのか、と改めて篠岡を観察して、妙にめかしこんでいることに気が付いた。
全体に白くてふわふわしたかわいらしい格好で、特に髪留めやペンダントまでしている。なんというか、篠岡らしくない。自分を飾るなんてストイックな苦労マシーンには不似合いだ。
「お前、いっつもそんな感じの格好なのか?」
「あ、これ妹に借りたんですよ。『休日に男子と会うなら気合い入れなきゃ』って言われて、カワイイは作れるそうですし、折角だから苦労してみました。でもなんだか来る途中で恥ずかしくなって……ンヒィ、あんまり見ないでください」
それで待ち合わせ場所に着いていながらなかなか顔を出さなかったらしい。
確かにカワイイ。立派に作れている。が、感想は胸の内に留めておく。
「そんなところでがんばるんじゃない。俺が呼び出したのが逆効果になっちまうだろうが」
余計な口出しをしてくれた妹に受付窓口があるならモンスタークレーマーと化して苦情を申し立てたいところだ。
「まあなんだ。デートだと思ってノコノコ出てきてくれたこと悪いが――」
「別に思ってません!」
顔を真っ赤にしての反論を無視する。
「さっきも言ったが俺はお前に苦労をさせないためにここにいる。だから用事もないしこれからもなにもしない。敢えてプランを立てるならどこか公園にでも行って一日中ダラダラするとかそんなとこだ。そういうのもありだろ? デートプランならさ」
「だから! デートだなんて思ってません!」
「とにかく今日一日怠け切って過ごしてもらうからな、覚悟しろ」
方針はもう決まっているので問答は無用だ。と言うより篠岡の希望はろくでもないに違いないので徹底的に却下するつもりでいる。
「ワタシ、そんなこと頼んでません!」
「俺はお前の心の声を聞いたのさ。お前は心の底では怠けたいと思っていて、怠けのプロである俺に憧れて話しかけたんだ。お前は!」
「お前」に強いアクセントを置いて洗脳するつもりで語りかけた。
「ワタシが……? そんな!」
思い込みが強いだけあって篠岡は早速影響を受け始めている。
「そうなんだよ~、お前はそういう女なんだ~」
「でも……そうだ! ワタシより笹目先輩をなんとかしてあげましょうよ!」
追い討ちをかけようとすると生贄を差し出してきた。往生際が悪い。
「そんなこと言ったって連絡取れないんだから仕方ないだろ」
笹目先輩の場合は呼んでも出てきそうにない。
「ハイ! ワタシ、笹目先輩の居所知ってます! 週末は山にいるって聞きました!」
ペラペラ喋る口と同様にその情報までが軽くて役には立たない。
「〝山〟ってだけじゃ捜しようがないだろ? さあ、諦めて俺と公園に行こう。しりとりでもしようじゃないか。何度でも同じ言葉を言っていいルールでな」
「ヒィっ! そんなの難易度がミクロもないじゃないですか! それより、笹目先輩なら見つけられますよ? ワタシには苦労オーラが見えるんですから! ホラ、あそこの中腹! あんなに禍々しい感じを出してるのはきっと笹目先輩です」
指差す方を見ても紅葉する山肌に季節を感じるだけだが、篠岡の顔つきは確信に満ちている。そこにある何かをしかと捉えている。
「さあ、笹目先輩に会いに行きましょう! そして更生させるのです。笹目先輩だけを! ワタシのことは忘れて!」
篠岡は早速鼻息を荒くした。笹目先輩の相手をするとなればそれはそれは苦労することだろう。だがその興奮には付き合えない。
「篠岡よぅ。お前が変態的無償奉仕女だってことはもう充分わかったけどよ、その苦労オーラってのまでは信じられねーわ」
それが真実にしろ虚言にしろ「イタイ奴」と思っていることは黙っておく。
篠岡はよほど言われ慣れているのか平然としている。山を指差していた手の形を平手に変え、こっちへ向けてくる。何かと思えば掌で胸の当たりを示しているらしい。
「肺が悪い」
短い言葉で刺されたように錯覚した。
「緩居くんの場合は全体的に煙状なんですけど、それが胸の辺りから喉にかけた縦の線を芯にしてモクモク出ています。息苦しそうな感じです」
かなりハッキリしたところを突いて来ている。
だが易々と信じるほど純朴でもない。なにしろトリックの仕込みに心当たりがある。
「俺の病気、遊由から聞いたんだろ。昨日俺を追いかけてきたときに」
「ゆーゆ? ああ、不破さんのことですか。聞いてませんよ! 昨日は緩居くんに構わないようにお願いされただけです。それとは別に今よく見てみたからわかったことです」
常にそうだが今も篠岡の顔つきは真剣みしかなく、誤魔化しがあるようには感じない。それに、遊由が俺の病気について言いふらすようなこともないだろう。できることなら知られずにおきたい、それを理解してくれているはずだ。
「それじゃなにか……? 本気で……他人の苦労が見えるって言うのか?」
篠岡は胸を反らして大きく頷いた。
「物でも人でも苦労があればわかりますよ。不動産の曰く付き物件とか、美術品でも価値は置いといて――こだわりのポイントを見抜いたりとかできます。ただ、プロがサラっと作った物よりアマチュアが四苦八苦しながら作った物のほうに惹かれちゃいますけど。あと、かくれんぼの鬼役は大得意です!」
特殊能力を誇ってにんまり笑っている。その真偽を確かめるには笹目先輩を捜してみるしかない。
(んー……どうするかなあ……)
いっそもの凄く遠ければ諦めもついたが、案外近そうだ。それほど山深くも見えない。
なにより、笹目先輩があんな山中でなにをしているのかと気になってしまった。それは放っておいてもいいようなことなんだろうか。好き好んで不幸でいようとするバカを止めなくていいんだろうか。
「それじゃあ……今日のデートはハイキングに変更するぞ。案内してくれ」
「だから! デートじゃ! ありませんってば!」
オシャレ着を揺らし飛び跳ねて抗議する篠岡は無視し、笹目先輩のオーラが出ているという山の方へととりあえず歩き出す。
陽子さんならどうするか。それを考えれば取るべき行動は決まっていた。
表通りから山側へ道を曲がる。麓は民家がひしめいていたが、勾配を登るうちに段々と畑が増えぽつぽつと家屋が見える程度に変わってきた。
坂を歩き続けて息が乱れてはいるが、空気がいいおかげで発作は起きずに済んでいる。
移動を始めてから三十分したところで山道へ入った。石とコンクリートで階段状に整えられた遊歩道を篠岡と登る。
道に沿って進むしかなく、笹目先輩がいるというオーラの出所へまっすぐに進めるわけではない。山林で見失いがちになるかと思われたが、篠岡はそのオーラとやらを眼で見るだけでなく気配としても察することができるらしい。つくづく人外の感覚と言える。
「今更こんなこと言うのもなんだが、今日予定とかなかったのか?」
黙々と歩き続けるのもなんなので、会話を振ってみた。
「笹目先輩に会えるんなら全然構わないですよ。あの人をどうにかしたい気持ちはワタシも同じですし。今日はお見舞いに行くつもりだったんですけど、別に急ぎじゃありませんから」
「お見舞い……?」
家族が事故か病気か、いずれにしろ質問はしづらい。
「うちの従業員のひとりが腰を痛めまして。その分補充もしないといけないのでスカウトの用事もありましたね」
なんだかおかしなことを言い始めた。
「うちの従業員? お前の家、なにか商売してるのか」
「ああ、言ってなかったですね。ワタシ、起業してるんですよ。学校送迎のサービスをやってまして――名刺は持ち歩く習慣が身に付かなくって、今は無いんですけど」
振り返って照れ笑いしている。
「起業? なんだよお前、社長かよ。スゲーな!」
「いやあ、成り行きでそうなっただけでして……」
詳しく聞いてみると、きっかけはひとりの生徒の遅刻癖だったらしい。
家が遠く乗り継ぐバスが予定時間よりも早く通過してしまうことがあって、置き去りにされると次のバスを待つ間に遅刻してしまう――というその生徒の主張を教師は「自分で工夫しろ」と切り捨てた。
俺も教師と感想は同じだ。1本早いバスにすればいいだけの話にしか聞こえない。
だが篠岡は違った。
職員室に入り浸り苦労のネタを嗅ぎまわっていた篠岡はその話を聞きつけ、他にも似たような事情を抱える生徒がいることを知って解決に乗り出した。
当初は保護者でグループを作って送迎することを考えたそうだが、保護者が均等に協力できるわけもなく、体調や用事でどうしても都合が悪くなると急には対応できない。
「元々素人だけじゃムリがあったんですよね。運転してくれた保護者さんにはガソリン代とちょっとくらいのおこづかいを支払うつもりでいたんですけど、それを商売と見なされたら普通の運転免許だけじゃ違法になっちゃうってわかったんです。それで困って市に相談したらタクシー会社を紹介されまして、業務委託契約としてなら手伝ってもらえることになりました」
さらっと話してはいるが、何人もの大人と交渉や説得をしたはずだ。普通の高校生が積めるような経験ではない。
「途中で会社っていう形が必要になって、その流れでワタシが代表……ということになりまして。だから別にワタシが偉いっていうわけじゃないんですよ。専属の従業員も最初は会計の川上さんしかいませんでしたし」
「いや、お前偉いよ」
地域に雇用を生んでいる。素直な誉め言葉しか出てこない。
「大人に相談に行っただけでも凄い。それにしても、ちゃんと取り合ってくれる相手に巡り合えてよかったよな。そういう相談窓口って市役所にあるのか?」
望みがあるなら排気ガス撲滅のために自家用車を廃止するよう訴えたいところだ。
「実はワタシ、市にちょっとツテがありまして。前に週末街に出かけて観光名所で勝手に観光案内してたことがあったんですよ。『ガイドします』っていう看板持って、無料で」
尊敬しかけていただけにイタイ話を聞かされて余計げんなりしてしまった。やっぱりこいつは変な奴だ。
「外国の方も多かったから、おかげで3ヶ国語くらいやり取りできるようになりました」
いや、やっぱりすごいやつだ。
「でも評判になっちゃったせいですぐ公式に市で観光案内を始めることになって、ワタシお払い箱になったんです。そのときから市の観光課の客員主任っていうことになってます。あ、お給料は貰ってませんよ? 仲良くしていた地元の商業組合から不満が出たから仕方なく、っていう建前だけなので。でも時々顔は出してるから、そこで相談してみたんです」
苦労を求める信条自体は間違っていると思う。しかし篠岡の行動は間違いなく社会の役に立っていて、しかも今の話なら将来の就職先が決まっていると考えてもいいんじゃないだろうか。そうでないとしてもこれだけ情熱に溢れた人間ならどんな組織でも欲しがるはずだ。
「お前凄まじいな……ホント偉いよ」
自分と比べると落ち込んでしまいそうになる。そんな俺がそんな彼女をこれから説得して生き方を変えさせようとしている。冗談としか思えない。
「いえ、ワタシは別に……がんばっているみなさんと同じ所にいるだけですから……」
前を歩く篠岡の様子がおかしい。普通なら振り返るだけでぐったりするような苦労話も、彼女にとっては楽しい思い出のはずだ。それなのに声は暗く肩を落とし、見るからに気持ちが沈んでいる。
「送迎サービスはもう中型バスで3路線運行してるんですよ。うちの学校以外でも送迎してほしい、みたいな要望も届いていたりどんどん事業拡大中です。でも自分で運転してるわけじゃないんです。最初はリヤカーに乗せて運ぼうとしたのに誰も乗ってくれないし」
そりゃあそうだろう。俺だって朝からドナドナ気分を味わいたくはない。時々遊由に運ばれるだけで充分だ。
「最近じゃ保護者の方がお客を乗せられる免許を取ったり、事情でリタイヤした元運転手の方を紹介されたりで、ワタシが関わらない部分がどんどん増えているんです。このままじゃ観光案内のときみたいにまた――ワタシの仕事取られちゃう!」
篠岡が突然屈み込んでガタガタ震え始めた。市が介入して苦労を奪われたことが余程のトラウマになっているようだ。
慌てて背中をさすって励ます。
「よーしわかった! お前の気持ちはわかったから気をしっかり持て! ダイジョーブ! ほら見ろ、お前の苦労ならそこにあるだろ?」
この近くには笹目先輩がいるはずだ。そのオーラを見せて落ち着かせようとしたら、テキトーに指差した腕の向きを修正された。
「こっちです。フゥ……すいません。少々取り乱しました。ワタシにはまだまだするべき苦労がある。ああ、なんとありがたいことでしょう」
篠岡は正気を取り戻して元の力強い眼差しに戻った。
改めて考えれば少々取り乱していたのは俺のほうだった。行動の結果がどうであろうと篠岡の思想は厄介そのものだ。
「いやなにもありがたくねえよ! なにが送迎サービスだ、観光案内だ。観光地で迷子になったって良い思い出だって笑えよ! 遅刻くらいさせとけ! それくらいの失敗は認める世の中でないとダメだろ」
「おおっと、なにか良いこと言ってるぽいですが、緩居くんの口車には乗せられませんよ! 『甘えるためになんて社会が寛容であるべき』なんて考えは間違ってます! どうにかできることは努力すべきに決まってるじゃないですか」
篠岡は耳を塞いで階段を駆け上がり始めた。その背中を追う。
「努力は目的あっての建前でなきゃいけないんだよ。お前が起業して大儲けしよう、無償奉仕から公務員に滑り込もうっていう魂胆なら俺はなんも言わねーよ? でも苦労するだけでお前の手に何も残らないんなら俺は止める!」
「目的なんかいらないですよ! 人生は努力するからこそ実りがあるんです。幸せになれるんです!」
「努力して得られる幸せなんて幸せじゃねえ、ただの報酬だ! がんばって手に入れたものに満足できるのは一瞬だけで、すぐ『じゃあ次は』ってなるんだよ。そんな永遠に満たされない人生が幸せなはずねえだろが! 大事なのは欲しいものに手を伸ばすことじゃなくて、今持っているものをありがたがることだ!」
「それは努力が足りないだけです!」
「てめぇこの――」
追いかけるうちに息が苦しくなってきた。喉の奥が狭まっているのを感じる。曲がりくねった山道でペースを落とせば篠岡を見失うとわかってはいても足は鈍った。
案の定、道にせり出した木の陰に入って篠岡の姿が見えなくなった。急いでそこへ駆けつける体力はもう残っていない。
(ええいクソ、この先一本道なんだろうな。俺には苦労オーラなんて見えねえんだぞ)
こんな山の中で孤立した。かと思ったが、少し先で篠岡は立ち止まっていた。なにやら眉を曲げて困惑顔をしている。
「緩居くんは変な男の子ですね。そんなに努力が嫌なら、ワタシのことなんて放っておけばいいじゃないですか。生徒会も運動部のみんなも『付き合ってられない』『めんどくさい』って離れていったのに……緩居くんはどうしてそうしないんですか?」
篠岡が苦労することで心から安心できるのなら、それでいいと思う。だが実際は今当人が話したように孤独を味わっている。それは笹目先輩も同じはずだ。
陽子さんが俺にしてくれたように、その寂しさから彼女たちを救いたい。
「なにがめんどくさいかは俺が決める」
足元がふらつかないようにしっかりと地面を踏み、喉からぜいひゅう音が漏れないように深く呼吸しながら篠岡に近づく。体力はなくても病人の意地は残っている。
「お前みたいなのがいたら、世の中が息苦しいからだ。怠け者のルールで社会が回れば、それ以上楽なことはないだろ。だからお前にも従ってもらう」
言い終わると、篠岡は目を伏せて嘆息気味にふうと息をついた。こっちは不調を悟られないよう喋るだけでも必死だというのに、山道に疲れた様子がまったくない。
「うん。それが緩居くんの努力ならワタシとしては称賛するしかありませんね」
「は? この怠けの妖精に向かってなんだって?」
抗議を取り合わず、篠岡は横手を指差す。
「着きましたよ」
そこには山間の谷が広がっていて、木々に囲まれたホールのようになっていた。激しい水の流れが岩場で砕けながらごうごうと音を立てて下っていく。
篠岡の指先が捉えているのはその川の始まり、滝に打たれる白装束姿だった。滝の飛沫で姿はおぼろげだが、鉄仮面を被っていることはわかる。
「笹目先輩? アンタそんなとこでなにやって――って、ああ、聞くまでもないか」
苦痛を求めての滝行だ。女子高生が週末に山へ入り込んで滝に打たれている。そんなバカを大真面目にやる女だアレは。
「無作法に大きな声で騒いで。ずうっと聞こえていたわよ」
「滝の中まで? 集中できないなら向いてないんじゃないですかね。やめとけば?」
遊歩道の分岐を進んで谷底へと下りると、笹目先輩も滝から離れて仮面を脱いだ。
濡れた髪が張り付く肌は体温が下がって人形のように白く、妖しい色気につい見惚れてしまう。
「私、貴方といることにするわ。時間が許す限り貴方と私は一緒に過ごすの」
唐突の宣言で凍り付いたのは、それがロマンチックな意味ではないと瞬間的に理解できたからだ。微笑んではいても瞳は暗く、視線で鎖に巻き取られたような錯覚を起こした。
「貴方は私にとって最大の苦痛。今まで通りの苦痛ではとても満足できないように私を変えた貴方には、今の私に相応しい苦痛を与える責任がある。拒否権は許さないわ」
笑顔が少しも友好的な意思に基づいていないと空気からも感じる。怒りと嫌悪と侮蔑と、そういう悪感情しかそこにはない。
だが、怯んではいられない。変わったのは俺も同じだ。
「好都合だぜ。身近にいればしょうもない苦行に励まないよう見張っていられるもんな」
とにかく篠岡と笹目先輩が揃った。あとは行動あるのみで、方針はもう決まっている。
「よく聞け。これが俺からお前たちへの宣戦布告であり約束だ。俺がお前たちを――幸せにしてやる!」
大きく吸い込んだ空気と共に吐き出した宣言が山林にこだまする。
この厄介な女どものおかしな生き方を変えさせて孤独から救う。そのための手段はそれきりひとつしかない。
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