謝罪と決心
篠岡と笹目先輩の厄介なあの性分をどうにかする。難題だが決意が固まってしまえば気分は前向きになれた。陽子さんに宣言してしまったからにはあとには引けない。
明日から週末に入るが、マラソン大会があるので日曜に会うことはできる。
(マラソン大会……いや今は忘れろ!)
どんなに手を抜いてもきっとまた死にかけることになる。当日を想像して気が滅入りそうになったが、どうにか持ち直す。スタート前に話すチャンスくらいはあるはずだ。
それに日曜まで待つつもりもない。
(だから……これは必要なことなんだ)
自分の部屋でウロウロするのをやめ、窓に向かう。カーテンを開くと隣家の2階に明かりが灯っていた。遊由の部屋だ。
スマホを取り出して一番近い履歴から電話をかける。発作を起こして動けなくなった場合にSOSをかけるので同じ学校で隣に住んでいるのに通話もメールもする機会は多い。
『はい……どうかした?』
少し時間があって聞こえた声は萎んでいた。別れ際に怒ったから気にしているんだろう。
「俺が悪かった。お前は気にしなくていい」
カーテンが開いて遊由の顔が覗いた。間に庭があるのでそれなりに距離は開いていて、見通しの聞かない夜では表情までは見えないが、驚いているようだ。
「それでちょっと話したいと思って――うわぁっ!」
話している間に遊由は窓を開いたかと思うと突然飛び出し、庭の物干しを踏み台にして高く跳んだ。こっちに向かってくる。
「お前、ムチャクチャするなよな!」
なにをしようとしているのか理解してこちらも窓を開くと同時に遊由の体が文字通り部屋に転がり込んできた。さすが体育会系ワイルドカードだけあって受身もバッチリだ。
「アタシこそゴメン!」
落ち着く間もなく、遊由は正座で床に伏せた。土下座だ。
「アタシがバカなせいでよっちゃんを傷つけちゃった。よっちゃんがサボってるなんて思ってないのに、そんな風に言っちゃった。アタシただよっちゃんがまたなにかするのが嬉しくて――うひゃひゃひゃ!」
脇をくすぐってやると遊由は大声で笑い始めた。昔からこれに弱いことも、こうでもしなければ顔を上げないことも知っている。
「なにするのぉ、アタシ謝ってるのに」
「そんなことよりお前が説明しなくちゃいけないのは今の行動だ。なに考えてんだバカ!」
「だってすぐ謝りたかったし、いくらよっちゃんのとこだからってこんな時間に出かけるのは非常識だってお父さんに叱られるかなって」
人差し指をつつき合わせてのいじけた主張は正しい。もう十時を回っていて現に遊由もパジャマに着替えが済んでいる。あとは眠るだけだったのだろう。
「物干し竿をジャンプ台にして飛び移るのは常識的とでも言うのかよ。この筋肉バカが!」
「あっあっ! ホラぁ、今よっちゃんアタシのことバカにしたよ! おちおち膝枕もできないよ!」
「うるせえ! 俺に悪いことしたと思ってるなら罰だとでも思っとけ!」
勢いで怒鳴ってすぐに、余計なことを言ったと反省した。遊由もしゅんとして正座に戻ってしまっている。
「あー……あのときはもう怒ってないから。そりゃ遊由から見たら俺はサボってると思われても仕方ないし――」
話の途中で遊由がいきなり立ち上がった。
「違う! よっちゃんがなにかするのが嬉しかっただけ! だってよっちゃんががんばれば、すごいことできるんだもん。一番とってくれたもん!」
「お前……まだそれ言ってんのかよ」
小学校の運動会でのことだ。クラス対抗リレーの最中に転んで順位を落とした遊由は顰蹙を買ってしまい、当人もひどく落ち込んだ。だがそのあと1位に返り咲いたというだけの話だ。
「1位になったのはアンカーだろ。俺は関係ねーよ」
「よっちゃんが挽回してくれたからだよ。ムリしたら発作起きるってわかってたのに、がんばってくれたからだよ」
体力が壊滅的なだけで運動自体は苦手じゃない。器械体操や跳び箱ならむしろ得意なくらいで、昔から足も速いほうだ。全速力だと十秒と持たないが。
その日も確かに最下位からトップまで全員抜き去って、そしてその日の夜には病院送りになって入院した。ただし大きな原因はその全力走ではなく、発作を起こしているのに病人扱いを嫌ってそのまま運動会に参加し続けたことだ。ムリというならそれがムリだった。
それに、その入院で陽子さんと知り合ったので今となっては感謝すらできる出来事だ。
「あのなあ、あのときも今日のこともお前が責任感じる必要なんかないんだよ。今日のことはな、お前にサボってるって言われたと思ったから怒ったわけじゃなくて……お前にだけは俺のことわかっておいてほしいから、違うこと言われて悲しかったんだよ」
なにしろ死にかけているところをずっと見られてきた相手だ。なのにどうして、という不満は強かった。口に出すだけで無様な身勝手な期待だということは自覚している。
「アタシに……だけ?」
遊由はぽかんと口を開けていて、聞く側も恥ずかしかったのかだんだんと顔を赤くしていく。
「ホラ見ろ、なんだこの空気! 変なこと言っちゃうからもう蒸し返すなよ!」
今度は俺が窓から飛び出したい気分だ。さすがに遊由のような運動神経はないのでどれくらい庭を耕すか、という風にしか期待できない。
「ところで、発作はもう平気?」
話題が切り替わってホッとした。
「平気」と答える前に、遊由が膝を擦って近づいてくるのを見て緊張する。
たとえ調子が悪くても正直には答えないと見抜かれて以来、遊由は直接確認しないと納得しなくなった。
嘆息してベッドに仰向けに寝て瞼を閉じると、すぐにシャツが捲り上げられて胸に重みがかかった。遊由が裸の胸に頭を乗せている。
ぴったりと耳を合わせているのは呼吸の音を聞くためだ。
「うん……静かだね」
発作が起こると呼吸をする度に狭まった気管がヒュウヒュウと音を鳴らす。喘鳴音(ぜんめいおん)というやつで、それが聞こえるかどうかで発作の状態を確かめる立派な聴診という方法だが、普通は聴診器を使う。
しかし発作をごまかすコツがあって、意識して長く深く腹式呼吸することである程度隠すことができる。現に今も発作はほんの少し起きているが、遊由は気づいていない。不誠実だが完全に発作が起きていないという状態はほとんどないのでこのくらいは認めてもらわないと、いちいち正直に打ち明けていたら今よりもっと多く入院させられ、出席日数不足からの留年が確実になっている。
「心臓の鼓動って好き。なんか落ち着くんだよね」
聞こえるならその音だけでも充分にうるさく騒いでいるはずだ。こちらとしてはまったく落ち着かないのだから。
(夜更けに高校生の男女が二人きりで……って)
しかも遊由はパジャマで「襲ってくれ」と言われているとしか思えない。だが欲望を叶えようにも体力との相談がうまくいかない。1分もあれば抵抗を押さえていられなくなるだろう。
第一にここまで迷惑をかけているお人好しを傷つけたいとは思わない。
「あー……ところで聞きたいことがあるんだが」
気を紛らわせたいのもあって、本題を切り出すことにした。
「カレシならいませんケド」
「知ってるわい。そうじゃなくてお前篠岡の電話番号とか知らないか?」
遊由が首を動かして胸を擦った。顎を引いて下を向いてみると目が合う。膝枕よりもずっと近い距離に照れが出てつい目を逸らしそうになるが、一方的に意識していると思われてもなんだか癪だ。
遊由はまったく気にならないらしく、にんまり笑った。
「やっぱり、なにか始めるんだね?」
「ああ。あんな生き方をするやつが近くにいたら、俺が間違ってるみたいな気がして目障りだからやめさせてやるんだ」
「うん! よっちゃんならなんだってできるよ!」
「なんなんだよ、その信頼」
「学校のみんななんてよっちゃんのことただの虚弱体質だと思ってるんだから、見返してやろうよ!」
「そういうこと本人に伝えても悲しみが生まれるだけだからね、やめなさいね」
夏休みも終わった今の時期でも転校生に間違われることがあるほど欠席が多い。定着するイメージがあるだけありがたいとさえ思える。
「アタシ、なにか手伝うことある?」
「おう、電話番号を教えてくれ」
「知らないけど……でも部長さんに聞けばわかるかも」
「部長? ああ……運動部の部長か」
そう言えば篠岡は運動部をたらい回しにされたと聞いていた。部のまとめ役なら部員の連絡先も聞いているだろう。すべての運動部と繋がりがある遊由なら、篠岡の連絡先も掴めるかもしれない。なんて頼もしい情報源だ。
「陸上部の部長さんならまだ登録残してるんじゃないかな。やめてほしくないみたいだったし。今でも時々言うんだよね。大会だけでも出てくれないかなーって」
なるほど篠岡は長距離走が得意に違いない。「苦労万歳!」と叫んで延々走り続ける光景が目に浮かぶ。明後日のマラソン大会も大活躍することだろう。
「部屋に戻ったら誰かに聞くから、わかったらメールで送るね」
「おう、頼む」
これで篠岡を捕まえる目処が立った。明日一日を決意だけ抱えて悶々と過ごさずに済みそうだ。笹目先輩のことを忘れているわけではないが、先に篠岡をなんとかしないと笹目先輩の周りをチョロチョロして邪魔になりそうだ。
これで前進できる。できるはずなのに、事態は少しも進展しなかった。
遊由が動かない。部屋に戻って篠岡の連絡先を手に入れてもらいたいのに、いつまでも胸の上で寝ている。
顔を見てみれば目を閉じていた。まさかこのまま本当に眠ろうというつもりではないだろうが、そうでないなら、なにを考えているのかはいよいよわからない。
(夜更けに高校生の男女が……二人きり)
避けたはずの悶々が襲い掛かってきた。
(こいつだってわからないはずはないし、なにか考えてるなら……そうなのか?)
思わぬことが進展しようとしている。そういう状況にしか思えない。
「遊由――!」
「よし! それじゃ帰るね!」
がばっと起き上がって抱きしめようとした腕が空を切って交差する。遊由は既に窓枠に足をかけたところで、首を傾げていた。
「どうしたの?」
「あー! 急に体操したくなってきたな! なにしろ俺って物心ついてからこのかた運動不足だからさ!」
「夜は発作起きやすいんだし明日にしたほうがよくない? アタシも付き合うし」
どうやらごまかせたのはよかったが、煩悩に負けた己がただひたすらに恥ずかしい。遊由の眼差しが無垢な分余計に辛い。
「いいっていいって! お前明日はまたどっかの運動部を手伝うんだろ?」
「うん。それじゃ行くね。電話するのあんまり遅くなったら悪いし。アタシのいないとこでムリしないでよ?」
そう言い残して遊由は窓から姿を消した。覗いてみると、庭の物干しが反動でまだ揺れている。
なんだかどっと疲れて、しばらくして着信音を鳴らしたスマホで電話番号を確認しても、明日篠岡の相手をすると考えたら憂鬱な気分になってしまった。
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