彼女は癒しの女神様

 自己嫌悪に浸る。

(どうして俺はこう、自分の中で済ませておけばいいものをぶち撒けちまうのかな)

 公園でのやり取りはどう考えても遊由に落ち度はなかった。複数の運動部に参加して好成績を出すあいつからすれば、それはもう全然がんばっていないように見えるはずだ。

 事実、病気持ちであることにいじけてなにもしていない。体育でも自分だけ発作でギブアップするときには健康を羨み、己を呪うことで思考が埋まりがちだ。

 人並みに追いつくまでに相当な努力を要する。治療に使っている薬は集中力を落とす副作用があるらしいので運動以外でも阻害される。仮に困難を乗り越え超人的な体力を身につけたとしても発作とは無関係なので、横を自動車が走り抜けただけで呼吸困難に陥る。どこまでやっても健康な人間には劣る。

 そんな風にどこからでも出て来る言い訳に囚われ、努力に価値を感じられない。ハンディキャップに苦しみながら努力している人間が世の中にいくらでもいると聞いても、心強く感じるどころかますます自分を惨めに思うだけだ。

 自分は病気だからダメなのではなくて、ダメだからこういう運命を与えられたのだという風に考えてしまうこともあった。

 気分が落ち込む結論ばかり思い浮かんでそのたび疲れていくうちに「なにもしないで生きる」と目標が決まった。なんであれ他の誰かがやったほうが効率が良いという諦観であり、劣っていることを確かめて傷つきたくないという自己保存でもあった。

 入院でベッドから動かない生活に慣れがあるからか退屈は辛くなかった。なにもせず平穏に過ごす。発作を起こさないためにはそれが一番だ。

 だが、まだ徹し切れていない。曖昧に笑ってひたすら鈍感に徹することで無敵になるはずが、今日も遊由を傷つけてそのことを悔やんでいる。

 それはそうだ。本当はそんな生き方嫌なんだから。消去法で傷つかない道を選んだに過ぎない。

「もうすぐできるから、お皿用意してくれる?」

 話し掛けられて鬱屈した思考から覚めた。

 顔を上げてキッチンを見るとこっちに笑顔が向けられていた。片手でかき混ぜる鍋からはシチューの良い香りが漂ってくる。

「ああ、うん。あとは俺やっとくよ」

「そう? じゃあお願いして、先に着替えようかな」

 境陽子さん。昔から相談相手になってくれて、特に今みたいに落ち込んだ気分のときは逢いたくなる人だ。今日も急に連絡したのにすぐ「一緒にご飯食べよう」と返事をしてくれた。仕事帰りの陽子さんを駅で出迎え、スーパーで買い物をしてからこうして陽子さんの部屋へやってきた。

「それじゃああと一分くらいしたら火を消して、それでおしまい。冷蔵庫のサラダもよろしくね」

「うん、わかった」

 陽子さんの部屋は居間と寝室だけで、キッチンは玄関からの通路を兼ねた狭いスペースなのですれ違うとかなり接近する。元々美人だったけれど、社会人になってからの陽子さんはもう完全に大人の女性という感じで同年代の女子には感じない色気があってドギマギしてしまう。

 陽子さんと知り合ったのは病院で、最後に長期入院したときに隣のベッドにいたのが彼女だった。当時俺は小学生で、彼女は中学生。あとから聞いた話では高校受験で根を詰め過ぎて過労で倒れたということだった。

 世話好きなのか俺のことを可哀想に思ったのかわからないけれど、子供の相手なんてつまらなかったはずなのによく遊び相手になってくれた。入院生活が辛い思い出になっていないのは彼女の存在が大きい。

「それじゃどうぞ、召し上がれ」

「いただきます」

 部屋着に替えた陽子さんと向かい合って晩御飯をご馳走になる。どこかへ食べに行ってもお金を払わせることになるのでこれが定番だ。せめて材料費くらいは出したいところだが、それもさせてくれない。

「うん、おいしくできてる。でも高校生にはもっとお肉多い方がよかったかな?」

「いや俺、そんなエネルギー使わないし。陽子さんだってこないだまで高校生だったでしょ。そんなに変わらないよ」

「5年経ってるからねえ。でもまあ、ありがとね」

 定期的に陰気なガキが訪ねてくるなんて鬱陶しいだけに決まっているのに、陽子さんはいつも歓迎してくれる。そしてなにも聞かない。それが心地良くてついつい頼ってしまう。

 入院中にあったのに気の抜けた顔をしているところなんて一度もない、背が高さで凛々しさが際立つ頼れる〝おねーさん。その割りに笑顔は優しくて引き込まれてしまう。さっきも改札で待ち合わせたとき、こっちに気がついて手を振っただけで周囲の男どもの視線を一挙に集めていた。そういう魅力のある人だ。

 そんな人を独占して時間を取らせていることに申し訳なさも感じる。

「ぅん? どうかした?」

 気がついたら見入ってしまっていた。長い睫、厚い唇。そりゃ見惚れるよという美貌ではあるものの、それはそれとして恥ずかしい。

「いやあの、いつもいつも相手してもらって悪いなあ……って思って」

 ごまかしたかったのに、本心が出てしまった。

 同僚の男が放っておかないだろうけれど、陽子さんに見捨てられたらとても困る。

「悪いことなんかないよ。おねーさんはこうして由総くんとご飯食べてるときが一番楽しいんだから。いつもいつも癒しの時間をくれて、ありがとうね」

「皿は……皿は洗うから!」

 絶対に自分を傷つけない安心感にやっぱり申し訳ない。

今はまだそんなことでしか恩返しできない己が歯がゆい。


 宣言通り皿を洗いながら、篠岡と笹目先輩のことを話してみた。陽子さんは大学で〝行動学〟とかいうのを勉強していたので意見を聞けば参考になるかもしれない。

「うーん、思春期って言っちゃったら簡単なんだろうけど……5年前まで同じ立場だった身としてはそんな風に片付けたくはないわね」

 ソファでグラスを片手に陽子さんは人差し指でこめかみを撫でながら小さく唸る。

 視線はずっとこっちを向いていて、話をしている間一度だって不気味にも面倒にも感じた様子がなかった。なんてできた人なんだろう。

「それじゃあ心当たりを言っていくから、気になるのがあったら教えてね」

 頷くと陽子さんはグラスを脇に置き細く息を吹いた。アルコールで上気した頬が色っぽい。

(いやいや、今は真剣に話を聞くときだろ)

 気持ちを持ち直して耳を傾けるとすぐに話は始まった。

「まずは――警戒心が一切なくて善意の塊みたいになっちゃう〝ウィリアムス症候群〝。遺伝子上の障害だから、もしそうだったら治らないけど」

 あの二人は善意だなんて優しげなものとは程遠い。ただ苦労を、ただ苦痛を求める装置のような人間だ。

 首を振って見せると、陽子さんはフムと鼻を鳴らしてから頭を横へ倒した。少し癖のついた髪が揺れる。

「それじゃ次――異常に神の怒りを恐れる〝スクロープロシティ〝。『天罰が下る』と思い込んで神様に許しを乞うために苦行に走るのね。つまりほとんどの場合宗教家が陥る精神状態ってことになるわね」

 確かに二人ともが「信仰」と呼んでしっくりくるほど信念を確固としたものにしている。しかしあれはあくまで主体的な動機のはずだ。教えに殉じているわけではなく自分の満足のためにやっているからこそただのワガママに見えて腹が立つ。

 また首を振ると、陽子さんは今度は逆側へ頭を倒した。

「じゃあ次――失敗するんじゃないかって不安から逃れられない〝失敗恐怖症〟。仮面の子はそれっぽいけど……でも違う気がするのよね」

 ちょっと話を聞いただけでここまでわかってくれるんだから、さすが陽子さんだ。

 笹目先輩は偶然の不幸――つまり不運を恐れてはいるものの、自ら不幸でいることで運命を乗りこなすつもりでいる。不安になっているわけじゃあない。

「行為に駆り立てられているんだからなんらかの脅迫性障害らしくはあるんだけど、ルールに基づいて望んでやっている印象なんでしょう? それに行為のあとでも精神状態が変化しないなら、自傷癖でもないのよね。うーん……」

 こちら側へ放り出した視線がぼやけて、眉間にほんの少しシワが寄った。行き詰まりつつあるか、違うとしても結論が来る予感がする。

「〝デストルドー〝かな。死の衝動っていうやつで、『消えちゃいたい』って思うこと」

「消えちゃいたいって……死にたいってこと?」

「ぼんやりした枠組みになっちゃうんだけど、まあそういうこと」

 笹目先輩なんかは見た目にそれっぽいところがあるものの、あれで自殺とは縁遠いひとだ。篠岡については言うまでもない。「死んだら苦労できないじゃないですか!」とか言い出しそうだ。

「自分には価値がない、生きてる資格なんてない、そんな風に考えちゃうのね。だから行動で埋めようとするんじゃないかな。こんなに頑張ってるんだから自分には価値があるんだ、生きていてもいいんだって安心したいのよ」

 確かに篠岡がそんなことを言っていた。努力しなければ生きている意味がないと。

 初めてピンと来る話を聞けたが、しかし同時に篠岡や笹目先輩を気にかけている余裕がなくなった。

「自分には価値がない……か。それ、すごくわかるなあ……だから俺は――」

 思考が暗いところへ落ちていきそうになった。そのとき、不意に腕が押さえられて持っていた皿を流しへ落とした。そして驚きは続く。

「由総くんがいてくれて、おねーさんはとっても嬉しいよ」

 陽子さんに横から抱き締められている。

「人が幸せに生きるにはね、自分のことを赦さなくちゃいけないんだよ。もし由総くんが自分を赦せないんだったら、おねーさんが何回でも言ってあげる。由総くんは生きていいの。ここにいていいの」

 腕に押し当てられる胸元が濡れ、アルコールの匂いが鼻を刺激した。グラスを落とすのも構わずに飛び出してくれたらしい。それを思うとヨコシマな気持ちなんて湧かなかった。

 痛むくらいに強く抱きしめられて、不覚にも目に涙が滲んだ。

「ねえ、陽子さん。あの二人見てると腹立つんだ。楽するのってそんなに悪いことなのかな? だとしても俺はそうじゃないと生きられない。怠けてるように見えるかもしれないけど、薬でムリヤリ生かされてるってわかってて平気な顔して生きていくの、結構しんどいんだ。俺がんばってるんだよ。こんな情けないこと――アイツには絶対言えない」

 誰に聞かせても仕方がないような弱音を吐き切って、いつの間にかその場にへたり込んでいた。肩に陽子さんの顎が乗っていて、耳元で「大丈夫」と繰り返し囁きが聞こえる。

(ダメだ。こんなの、ダメだろ)

 泣いて興奮し過ぎても発作は起こる。そうなったら余計迷惑がかかる。

 気持ちが静まるよう深く長く意識して呼吸しながら、陽子さんと知り合ったときのことを思い出した。

 今と同じくらい落ち込んで、そして今と同じように慰めてもらった日のことを。


 小学校5年の春、十歳だった当時はまだ今ほど持病について悩んでいなかった。体育で休んでいたら「ズルで休めていいな」と同級生に責められたり、〝もっと重い病気と闘っている地球上の誰か〟を引き合いに出して「お前はもっとがんばれ」と教師に叱られることがあっても、しばらくすると忘れて気楽に生きていた。

 いつものように発作を起こし入院していたある日、遊由が差し入れた漫画を読んで笑っていたら重症化した。喘息は笑い過ぎでも障りがある。

 喘息は霧状にした薬剤を管で喉に送り、狭まった気管を広げて呼吸を改善することで治療する。とはいってもアレルギー体質が治るわけではなく、きっかけがあればまた発作は起きる。原因を遠ざけ重症化を防ぎながら体質と付き合っていくしかない。

 管を口に咥えて薬剤が枯れるまで十五分ほど待ち、発作はある程度鎮静化した。点滴に重ねて投薬された副作用なのかフラつく足取りで病室へと戻ったあとで、続きを読もうとした漫画を医者に取り上げられた。

 「また発作が起こるから」と言われたときにはついさっきもそうだったので「なら仕方ない」と納得もできた。しかし次に聞かされた言葉は呑み込めなかった。


「もう笑うな」


 自分の人生を理解した瞬間だった。

 楽しく生きるなと、幸せになるなと運命が言っている。薬で生かしてはやるがそれ以上は期待するなと医者が言っている。

 悔しさと怒りで胸がぐちゃぐちゃになって、それでも絶対に泣いてたまるかと歯を食いしばって我慢した。少しでも自分を可哀想に思えば負けを認めたことになるような気がした。ただでさえ劣っているのに、心でまで負け続けながら生きるなんてまっぴらだった。

 でもそれなら、一体いつまで耐えればいいんだろう。笑わずに過ごしたって排気ガス溢れる車社会で完全にアレルギーの原因を遠ざけることなんてできない。山奥に潜んだって病院が遠くなって長く苦しむだけだ。

 薬がなければそうなっていたように、死ぬべき命なんじゃないか。それが自然で、当然なんじゃないか。

 未来に絶望しか感じられなくなったそのとき、隣のベッドにいた中学生が点滴台で医者を殴り飛ばした。それが陽子さんだった。あとで聞いたら医者の言葉を聞いて我慢ができなかったらしい。

 そんな出会いだったので知り合った当初は陽子さんのことが恐かった。ガラスを突き破り外に落ちていくほどの勢いで殴っただけでは治まらず、窓から飛び降りて医者に追撃をしかけようとする姿を見て「代わりに怒ってくれてありがとう」なんて発想できるわけがない。それどころかそれが隣のベッドにいた物静かで綺麗な中学生だとはわからなくて、「モンスターがとつぜんおそいかかってきた」と思っていた。

 そう誤解したまま、リングサイドで一部始終を目撃し鮮血まで浴びた俺はショックでまた発作を起こし処置室へと担ぎ込まれた。


 それから何日かは怯え続けたものの、それ以来陽子さんはずっと俺を守ってくれている。

 あれっきり怒った顔すら見たことがない、かつてのモンスターの体温に包まれていたら、絶望は懐かしいくらい昔のことに感じる。始まりは哀れみだったのに陽子さんだと腹が立たないから不思議だ。

 それで閃いた。

「あ、そうか……アイツらには陽子さんがいないんだ」

 篠岡と笹目先輩がどうしてあんなことになっているのか、動機も経緯も知らない。しかしなにが人の心を救うのかは知っている。陽子さんがいてくれたから、俺は堂々と生きていける。

「じゃあ俺が――俺が陽子さんになる!」

 気がついてみれば簡単だ。まるで靄が晴れように心が軽くなっていく。

「えっ、なに? どういうこと?」

 間近で大きな声を出したせいでビックリしている陽子さんの肩を掴む。

「いやあ、やっぱり陽子さんだよね! ありがとう! 陽子さんが俺にしてくれたみたいに、俺がアイツらにしてやればいいんだ!」

 答えを見つけたおかげで高揚してなんでもできるような気がしてきた。さすがに点滴台は振り回さないけれど。

「私が由総くんにって――あ! 気になってはいたんだけど、もしかしてその二人って女の子なの? ちょっと待ってそれは困る! 私あのときは過労で入院してたけど、別の〝ビョーキ〟も患ってたって言うか……。だって由総くん小学生だったでしょう? だから私――いや今はまだ言えないけど……。とにかく! 私のそっちの〝ビョーキ〟はまだ治療中なの!」

 説明が不足しているので事情が伝わらないのは仕方ない。だがそれを考慮しても陽子さんは激しく混乱して見えた。

「陽子さん、なにか病気なの?」

 なにを言っているかよくわからないもののそれだけは聞き流せない。

「ん……! ううん、別にぃ」

 目が泳いで顔つきは強張っている。陽子さんがこんなに動揺しているところを見るのは初めてだった。

「もしかして……俺のコト心配してる? できるだけムリはしないようにするけど、ムリだからってあの二人を見捨てるわけにはいかないんだ。だって俺、陽子さんみたいに立派な大人になりたいから」

「あぅ」

 陽子さんは首を縮めて苦しそうな顔をした。

「俺が陽子さんになにかしてあげられるわけないし、今更恩を返し切れるとも思ってない。でもせめて『助けてよかった』と思われる人間になりたい。陽子さんは俺の理想だから、目標にするならこれ以上の人はいないよ」

 これなら自分を誇ることもできる。ウジウジした生き方とはオサラバだ。

「ああ……そう言われてとっても嬉しいけど、〝理想〟の意味が私の希望とは違うかな……」

 今度はなぜだか涙目になっている。

「陽子さん、本当は病気を隠してるとかない?」

「ううん……。由総くんの成長が嬉しいだけ。大人になったよね……だから私のほうももう治ってるんだと思う。おかげさまで」

 話がよく呑み込めないものの、持病があるらしい素振りは一度も見たことがない。入院中でさえ医者を病院から病院送りにするくらい元気だった。

「はぁ……少し疲れたかな。おねーさんはシャワーを浴びます」

 仕事帰りにそのまま付き合ってもらって、気が付けばもう随分な時間だ。

「じゃあ俺、その間に皿洗ったら帰るよ。相談に乗ってくれてありがとう」

「そう……なんだったら泊まっていかない?」

「それはやめとく」

 笑って答えると、陽子さんも微笑みを返して脱衣所に入っていった。年下をからかうのは楽しいようで時々こんな冗談を言われる。

 正直考えないこともないわけではない。しかしこれ以上陽子さんの人生を邪魔するのもどうかと思う。部屋の合鍵を持たされるくらい依存しておいて今更だが。

 シャワーの音に気を引かれながら、陽子さんの恋人になるのはどんな立派な人間だろうと空想しつつ皿を洗い、改めて感謝の言葉を書き置きしてから部屋をあとにした。

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