安静推奨と体育会系ワイルドカード
胸が圧迫されているように息苦しい。気管が狭まって酸素を満足に取り込むことができず肺が膨らまない。喘息というのはそういう発作を起こす――簡単に言えば喉が締まって窒息しかけ続ける病気だ。
原因は概ね煙やハウスダストなどのアレルギーだが、過度の興奮や運動でも同様に発作は起こる。ジョギング程度でも三十秒あれば充分で、現に今も学校を出てすぐの公園で動けなくなってしまった。
酸素が足りないので横になっていても呼吸が整わない。耳の横の鼓動と狭まった気管に詰まった痰が空気で擦れてうるさく騒ぐ。排気ガスを吐き出す自動車の走行音を特に鬱陶しく感じる。
噴き出た額にひんやりした感触が当たった。瞼を開くと汗を拭われていて、湿ったハンカチが外れると視界には女の顔が現れた。
不破遊由。家が隣のいわゆる幼馴染というやつで、持病でこうなることが多いのでそのたび世話になっている。
発作で動けなくなって通学路の公園前に座り込んでいたら偶然通りかかり、植木の縁になっているブロックの上へ寝かされてこうして介抱されている。
ただただ呼吸がうまくできずなにをしても苦しいので、ひたすらじっとして自然に収まるのを待つ。仰向けでいられるならまだ重度ではないので病院へ直行するほどではない。その辺りもすべて把握しているのでオロオロして騒いだり返答できないのに質問してくるようなこともない。
病気のことで手を借りるなんて本当なら全力で拒否したいが、なにしろ抵抗できないのでいつもいつも受け入れざるを得ない。あとでどんなに文句を言ってもまったく聞き入れないのでそのうち諦めてしまった。強情なお人好しだ。
視界が塞がったかと思えば鼻先にあるのは単行本の表紙だ。漫画を読み始めている。パックジュースをすするストローの音まで聞こえる。
「俺が苦しんでいるのに」と思わなくはないが、必要以上に心配されてずっと顔を覗き込まれるよりは何倍もマシだ。
「これ。なに」
短い言葉なら話せるところまで余裕ができたので質問すると、表紙が動いて遊由の顔が戻った。
「なにって、膝枕」
遊由はいつも「なにか文句あるの?」と言いたげに少し口をとがらせて話す。
「違う。おかしい」
通学路上にある公園で膝枕というだけでも問題だが、今のこれは一般的な膝枕の形とは違っている。
遊由は片足をブロックに上げ、俺の頭は内腿に載せられている。寝返りを打てば股間に鼻を突っ込む格好だ。
「だってよっちゃん、アタシのこと〝筋肉バカ〟みたいに言うじゃん。あとで『固かった』とか文句言われたらヤダし」
(言わねえよ、バカ)
遊由は熱心な運動部員だ。どの部ということはなく、人出の足りないところから請われれば練習でも試合でも参加する――派遣運動部員と呼んだほうが正しい。しっかり活躍しているそうでいくつかの部から正式な部員として誘われてもいるらしいが、他人を押しのけてレギュラーを争うのは好かない性格のせいで全部断っている。
その体育会系ワイルドカードぶりは絶賛に値するもので、バカにした覚えはないが言いたいことを全部話すには体力も気力も足りなかった。こんな際どい膝枕を見られたらなにを噂されるかわからないのに、今動くといくらかは落ち着いてきた発作がぶり返しそうで抵抗できない。
「それで、今日はどうしたの?」
「ちょっと。走った」
「走ったって……マラソン大会の練習?」
そう言えばそんな予定があった。明後日の日曜に校外を含めたコースを走ることになっている。サボってしまいたいところだが、授業として数えられている以上できるだけ出席日数を稼いでおきたいのでそういうわけにもいかない。
「言ってくれたら付き合うから、アタシのいないとこで死にかけるのやめてね」
体育会系の祭典で張り切るつもりはないし、考えるだけで今から憂鬱になるので話を変えることにした。
「誰か。来てたろ」
公園内に運び込まれてすぐ、遊由がどこかへ行って誰かと口論していた。あの声は篠岡と笹目先輩だったような気がする。
「同じ学校の人がよっちゃんに用があるって言うから、追い払っといた」
「すごいな」
息を吐くタイミングに合わせるのを忘れて反射的に喋ってしまった。また呼吸が乱れ、弾みで咳き込む。吐き出した息が当たっても遊由はまるで嫌な顔をしなかった。
それにしても一体どうやってあの二人の熱量を退けたのか。本当にすごい。
あとでコツを聞こうとぼんやり考えていたら、じっと顔を覗き込まれていた。下を向いた動きで肩から落ちてきた髪を押さえている。
「よっちゃん、あのふたりと知り合いなの?」
遊由のほうこそ知っているのかと驚いたものの、少なくとも笹目先輩はあの見た目からして目立つので不思議はない。
「〝便利屋ちゃん〟と〝マスク・ド・ランコ〟でしょ? ふたりとも有名だから、知らないのはよっちゃんくらいだよ」
発作で学校を休みがちなので学校の事情には疎い。喘息でなくとも気管の収縮にはアドレナリンが関係しているので、リラックスしやすい夜間のほうが発作は起こりやすいらしい。それで眠っている間に発作が起きて病院送りになり、点滴を受けている間に学校が始まって遅れて登校することは本当に多い。
「あ……ごめん」
すまなそうにするので何かと思えば病気のことで悪く言ったように感じているのだろう。「好きで病気になったわけじゃないのに」とか考えていそうだ。心からそう思うが、相手が遊由だからか腹は立たなかった。
「どう有名なんだ? 教えてくれ」
発作が落ち着いて少し話せるようになってきた。
「んー、アタシ噂話とか好きじゃないけど、便利屋ちゃん――篠岡さんはよく知ってるよ」
「その便利屋ちゃんってのは?」
一応質問の形にはしておくが、想像はつく。
遊由は少し考え込むように眉を寄せた。
「なんかあの子ね、頼まれたらなんでもやっちゃうんだ。って言うより、なんでもするために頼まれたがってるって感じ。日直でも宿題でも掃除当番でもなんでも引き受けるから、それで便利屋ちゃんなんて呼ばれてるの。……あっ、アタシは呼んでないからね? 一緒に部活やってたこともあるし、仲良くやってたんだから」
「部活? 篠岡は部活やってるのか」
考えてみればそれこそが学校生活における「しなくてもいい苦労」のベストだ。体力づくりだの人格形成だの色々と名目はあるが、それが必須ならそもそもの学校教育というものを見直す必要がある。「大人になっても使わない」と勉強を軽視した意見をよく聞くが、運動こそ大人になったら縁がない。
反復横跳びと持ち上げられたことで体力と筋力が尋常でないことは確認している。普通に運動をしていてもああはならないが、それだけ篠岡が特殊だということだろう。
だとしたら篠岡はどうして他に苦労を求めていたのだろう。部活をしているなら放課後教室で掃除をしている時間もないはずだ。
「ううん。篠岡さんはどの部にも入ってないよ」
「なんだそりゃ。遊由と同じで派遣か?」
「そうじゃなくって……篠岡さん、追い出されたの」
言いづらい理由らしく気まずそうにする。
「熱意が他の部員と合わないっていうか……入部届を書きながら『やるからには世界一を目指しましょう!』とか言われたら、誰だってビックリするでしょ? 最初は盛り上がったりもしたみたいだけど、誰も篠岡さんの練習量についていけなかったのね。それでチームワークを乱すからって……追い出されたの」
事情は実に篠岡らしいものだった。無闇に熱血する篠岡とドン引きするチームメイト、という光景が容易に目に浮かぶ。尖ったものは輪には入れない。
「他の部に移っても結局同じことになって、そのうちどの部からも相手にされなくなったのね。1年のときに生徒会もやってたけどいつの間にか除名されてたから、やっぱり理由は同じなんじゃないかな」
弱音を吐く自分の横で遥かに勝る努力を見せつけられれば、誰だって「怠け者」と誹られているような気になってしまう。己を惨めに感じた多数が自らを正当化するために篠岡を異分子として排斥した。無理もないことだ。
(篠岡は……寂しかったろうな)
当人が悪いわけではない。あるいは全員が同じ志なら問題はなかったが、そんなことはありえない。
「篠岡さんね、すっごく一生懸命だったんだよ。何回負かしてもめげずに挑んできて……楽しかったなあ」
遊由は嬉しげに目を細めている。
あの熱量に付き合っていた頃を良い思い出として懐かしめることにも驚きだが、しかもどうやら勝っていたらしい。介抱の恩義を別にしても逆らわないようにしようと今決めた。
篠岡は笹目先輩を『自分と似ている』と評価したが、どちらかというと遊由に似ている。
ただ、同じお人好しでも遊由は部活を楽しんでやっているところが違う。それに根本的に競争が嫌いなので世界一を目指すには向いていない。篠岡のことが良い思い出になっているのも遠慮なく叩きのめせるからだろう。
「部活しなくなってからもあんまり変わってないみたい。色々頼まれごとをしてるの見たし。アタシも……止めたかったんだけど」
競争を嫌うところもそうだが、遊由は基本的に気が弱いところがある。和を尊ぶと言ってもいいが、本当にそうなら篠岡と周囲の仲を取り持つべきだろう。しかしそこまで正解を追求できる人間なんて、それこそ篠岡くらいしかいない。
「お前が薄情なんて思わないよ。今だって病人助けてるだろうが」
泣きそうな顔をしていたのでポンと頭を撫でてやると、たちまち口が尖った。
「これは別に、人助けと思ってやってるわけじゃ……」
「まあなんでもいいよ。助けられてる身でごちゃごちゃ言わないさ。それより次は笹目先輩のこと教えてくれよ。あの人マスク・ド・ランコ? って呼ばれて――うわっぷ」
話を元に戻すと濡れハンカチで顔をゴシゴシと擦られた。
「なんだよ! いってぇな!」
どうやら怒っているらしい。筋肉バカの件もそうだが、昔からなにに刺激されているのかわからない奴だ。
「そっちの人のことはよく知らないもん。見た目で目立つから印象には残るし噂にもなってるけど、笹目先輩っていうの? 私は本名だって初めて聞いたよ。今年の冬くらいから被り始めたらしけど」
「今年から……? ああ、そうか」
話を聞いて、驚いてしまった。
笹目先輩がいくら特殊な精神性を抱えていても、産まれたときから鉄仮面を被っていたわけじゃない。なのにほとんどそんな風に思い込んでいた自分に呆れる。
(きっと理由があるんだ……。幸福を怖がるってことは、幸せなときになにか――)
考えごとは遊由の弾んだ声で中断させられた。
「篠岡さんに関わってるってことは、よっちゃんなにか始めるの?」
「え……」
まるで見当違いな発想だが、ご褒美を前にした子供みたいに表情が期待で染まっている。ここで「なにもない」と空箱を見せて落胆させるのは気が引けて答えられなかった。
「アタシ応援するよ! よっちゃんはガンバればなんだってできるんだから。でも篠岡さんに釣られてムリしちゃ――」
遊由の話す言葉は途中から聞こえなくなった。
『がんばって』
そのひとことが頭の中で繰り返されて無遠慮に神経を逆撫でする。
「がんばってないように見えたか?」
体を起こす勢いで立ち上がって見下ろすと、遊由は一瞬で蒼白になった。
「そうじゃない。違――!」
「違わないだろ」
すがる手を振り払って出口へと歩く。まだ肺は膨らまずに喉の奥が鳴っているものの構わずに足を早めた。
早くここから逃げ出してしまいたい。あんな風に言われて怒るのも介抱してもらった礼も言えないこともなにもかもが惨めで、今すぐ遊由の視界から消えてしまいたかった。
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