一見ユルいマゾヒスト
取り付く島もない風だった態度が一気に軟化したので、詳しく話を聞こうと中庭にあるベンチへ移動した。隣に座る笹目先輩との間には様々な道具が置かれている。
「家には大がかりな物もあるけど、持ち歩いている分はこれだけね」
拘束具各種・血流抑制バンド・低周波治療器・梅干にレモンにタバスコなどの刺激物などなど。音楽再生プレーヤーに怖い話という変化球まで用意してある。
普段具体的にどう苦痛を味わっているのか、と質問したらこれだけ広げられた。これに鎖と鉄仮面を加えたものが主な苦痛セットということらしい。
(なんというか……ヌルいな)
痛みを欲しがる――というと凄まじく深刻に感じるものの、低周波治療機で済ませられる程度では悲劇的なことにはなりそうもない。
(もうこれ、放って置いてもいいんじゃないか? 不気味がられないように鉄仮面だけ外させて……ん?)
考え込んでいる間にじっと見つめられていた。いつの間になんだかもう鉄仮面にも凄みを感じなくて、小道具を見た感想を聞きたがっていると自然に察する。
「ええと……甘いもの、好きなんスか?」
ここに並んでいるものが要するに笹目先輩の弱点ということになる。辛いもの・すっぱいものを苦痛に感じるのなら逆は――とぼんやり推測して聞いてみた。
「大好き!」
仮面を揺するほど強い頷きが返ってきた。幼児じみた無邪気な反応で見ているこっちが照れてしまう。
佇まいの雰囲気を鉄仮面がまるっきり不気味にしてしまってはいるが、もしかしてこの人は可愛いんじゃないだろうか。鉄仮面と厄介な思想さえなければきっと充実した青春を送っていることだろう。
「いや……今のままでも笹目先輩なら恋人くらいできるって! 好きな相手ができれば満足いくくらいの幸せが手に入るさ!」
勢いで思いつくまま喋ってしまった。
だが、間違ってはいないと思う。信仰心が紛れるほど恋愛に夢中になる、まさに健全な青春だ。
「呪いを解いてくれる王子様捜しというわけね。実を言うと……そういうことを考えないわけじゃあないわ。でも例えば緩居くん――だったかしら? 貴方とは付き合えないわね」
話を聞いてくれたと思ったら次の瞬間にはフラれている。
(いや……例え話で実際に告白したわけじゃないんだから、ヘコむことないだろ)
そう自分を慰める時点でいくらか傷ついていると自覚していると、慌てた風に肩を揺すられた。
「違うのよ、貴方が嫌とかいうことじゃあないの」
「それじゃ一応……理由を聞いておこうかな。今後の参考になるかもしれないし」
流れで好きなタイプについて聞ければ恋人探しに活かせる、と前向きに考えて笹目先輩の話に耳を傾けた。
「無理強いされて交際が始まるとするでしょう?」
いきなり突飛な話になっている気がするが、とりあえず頷く。
「好きでもない相手と付き合う苦痛は歓迎するわ。でもしばらく付き合っていたら私、きっとその人のこと好きになってしまうもの。貴方となら今でももう――あっ今の無し!」
途中で耳を塞がれた。
顔が近付いて、鉄仮面の穴から向こう側が見える。瞳が澄んでいることを意外とはもう思わない。
「とにかく、悲しい別れを想像してしまうから交際なんてできないわ」
離れながら聞こえた早口の言葉は動悸がしていてうまく頭に入らなかった。
しかし答えは予測がついている。笹目先輩が戒律を守りながら恋愛を選ぶなら「大嫌いな奴とは付き合えるが、それ以外はムリ」ということになる。
結局この人は例え話の結果を恐れて不幸になる方向へしか進めない。それがひどく歯痒い。救う方法さえあれば、
「でもそうね――本当に好きになった相手にだったら、すべてを捨てて飛び込んでいくんじゃないかしら。そういうものでしょう? 恋って」
小首を傾げてそう言った瞬間。鉄仮面が消え、微笑む笹目先輩の顔が透けて見えたような気がした。心臓が高鳴る。
「どうかした?」
尋ねて確かめたくなるほど様子がおかしくなっているらしい。「なんでもない」と流してしまうには動揺し過ぎている。
「笹目先輩! だったら俺と――」
「なにをモタモタやってるんですか!」
突然後ろから押されてベンチに突っ伏す。
篠岡だ。校舎の陰から出て来ないよう言っておいたのに、我慢できなくなったらしい。
「この――急になにすんだ! っていや、今のはいいわ危なかった!」
苦痛グッズの手枷にぶつけた顔をさすりながら立ち上がって篠岡の肩を叩く。邪魔が入らなければ勢いで妙なことを言うところだった。
「なに言ってるんですか? それより、この場は譲ったのにいつまでもイチャコラしてたらなんにも話が進まないじゃないですか!」
「じゃあお前は次に行けよ。ここは俺に任せとけって」
篠岡は篠岡で勝手に苦労しているだけだが、笹目先輩も周囲に実体的な危害を及ぼすわけでも自傷と呼ぶほどの怪我をするわけでもないのなら、これはもうただの文化の違いとして見過ごすべきじゃないだろうか。
宗教だの未確認生物だのと、客観視すれば異様に思える思想なんて世の中にはいくらでもある。笹目先輩を改宗させるよりもいっそ異文化への理解をクラスメイトに訴えたほうが平和的で手っ取り早い。
しかしそうなると説得が一番難しい人物がこの篠岡だ。彼女は笹目先輩を更生させる苦労に執心しているだけで、理解にも平和にも関心がない。
現にまったく納得せず、口調の勢いは弱まらなかった。
「こんな濃い上質な苦労オーラを無視して次なんて考えられるわけないでしょう。この世の苦労は全部ワタシのものです!」
この異文化は外交努力でどうにかできるとは思えない。目の色が変わっている。
「それはお前のワガママだろう? 大体この人はお前が言うほど――」
心を安定させる方法なんて人それぞれで、笹目先輩の場合はそれが苦痛だったというだけだ。その中で当人が節度を守っている以上それほど辛い思いをしているわけじゃない。
事実、苦痛グッズについて語る笹目先輩はいっそ楽しんでいるようにすら見えて、苦労の気配は窺えなかった。苦労オーラなんてものが出ているはずがない。
そう言おうと思って振り返ると、笹目先輩は妙なことをしていた。
膝の上に小皿を乗せ、細かく手元を動かしている。ワサビを摩り下ろしている。
「先輩、なにを……?」
山盛りのワサビがスプーンの上に乗ったところで我に返り、手を伸ばしたが間に合わなかった。鉄仮面の下半分が手前に開いてスプーンが吸い込まれていく。
「ふぐぅっ」
スプーンが地面に落ち、途端に笹目先輩がブルブルと震え始めた。
「アンタなにやってんだ? ペッってしなさい、ペッって!」
声をかけても鉄仮面は無言のまま閉ざされ、掴んでいるベンチの背もたれが代わりにミシミシと音を立てて返事をする。苦痛が好きなら筋トレも得意なのか、凄まじい握力だ。
どうしてそんなことをと、問うまでもなく動機はわかっている。楽しかったからだ。
自分の考えを理解してもらえて、話して、苦痛グッズを紹介して。この時間を幸福に感じたからその分のペナルティを背負う必要があった。
一体自分はなにを見ていたのか。教室での鎖だって、確かに彼女は痛がっていた。それを「異文化」なんて言葉で片付けて見過ごすことが正しいわけがない。
「緩居くんじゃダメみたいですから、やっぱりここはワタシが苦労させてもらいますよ!」
「お前な――うぉっと」
言い方が癪に障って文句を付けようとしたら、不意打ちに笹目先輩が立ち上がったので吐きかけた言葉が引っ込んだ。
「そう……貴方たちだったの。ムダに苦労をしたがる変わった2年生がいるっていう噂は聞いていたわ」
ワサビのダメージが抜けていないのか俯いて声も沈んでいる。しかし凄味は最初に見たときよりも増して感じられた。
「いや、俺は別に苦労は……」
つい萎縮してしまい言葉も尻すぼみになった。
しかし隣の篠岡は怯まない。見せつけるようにぐっと両手を握る。
「どんな体験も人生の糧になるんです。だからムダな苦労なんてありませんよ! さあ、まずは鉄仮面を外すことを目標にがんばりますからね!」
力の篭った宣言を目の前で聞かされた笹目先輩が首の後ろへ手を回すと、ガチャンと音がして鉄仮面が前へ傾いた。
「……?」
一瞬笹目先輩の首が外れたかと思ったが、そんなわけはない。
首はちゃんと元の位置に――美貌、と呼ぶのが適切なほど整った顔がそこにあった。顔も眼も細くキリっとしている。なるほどこれだけ飛び抜けていれば奇妙な思考を持っても不思議はないかもしれない、と変に納得してしまった。
「初めて理解してもらえて嬉しかったのに……そう。貴方が私に近づいて来たのは苦労だけが目当てだったのね」
笹目先輩に見られている――というより睨まれている。攻撃的なまでに鋭い印象は調度品染みた外見のせいだけでもなさそうだ。周囲にモヤモヤと何かが漂っている気がするものの、それが篠岡の言うオーラとは違うと断言できるのはそれが苦労ではなく憎悪を表すものと断言できるからだ。
「こんなに辛い思いをしたのは初めてだわ。今までに味わったすべての苦痛が温く思えてしまうくらいよ」
「そりゃあ、低周波治療気じゃな……おっと」
余計な一言を口走ってしまった。笹目先輩の眼光がより冷たくなった気がする。
「やりましたね! ノルマクリアですよ!」
篠岡がひとりではしゃいでいる。
「嬉しくねーよ。めちゃめちゃ恨まれてるじゃねーか。いや先輩聞いてくださいよ。俺は――」
弁解しようとしたら足元で派手な音が立った。鉄仮面が板張りの床にめり込んでいる。
その床にあった自分の足が消えているかと思えば、宙に浮いていた。
「わぁ、危なかったですね」
いつの間にか篠岡に抱え上げられていた。鍋でも持つような気軽さで腰を掴んで持ち上げられている。
「緩居くんって意外と重いですね。ダメですよ! なにもしないのが好きでも、せめて適度な運動くらいはしないと」
「お、おう……」
床をえぐる重さの鉄仮面を首に載せて生活している笹目先輩といい、続けざまにとんでもない筋力を見せ付けられた。床に下ろしてもらっても言葉が出ない。
「ハイ、落としましたよ」
篠岡は鉄仮面を指先でつまんで拾い上げ、笹目先輩に差し出した。かと思うと笹目先輩の頭に被せ始める。
「ええっと……こうかな? あ、ハマった」
「いや、なにしてんのお前。やめなさいよ、怒られるよ」
顔が見えなくなる寸前までこっちを睨んでいた笹目先輩の沈黙が恐ろしい。
篠岡が目を輝かせて振り返る。
「だってこんなにアッサリ解決したんじゃ物足りないじゃないですか! 最高の達成感、究極の充実にはふさわしい苦労が必要なんです。まったく、どうしたんですか笹目先輩? 先輩の厄介さはこんなものじゃないはずです!」
「メチャクチャ失礼なこと言ってるぞ。合ってるけど」
笹目先輩がどうしてあっさり鉄仮面を外したかは気になっていた。その理由が睨まれていたことに直結していそうで知るのは恐くもある。つい腰が引ける。
「たった今彼につけられた心の傷に比べたら、こんなものあってもなくてもどうでもいいわ。本当なら喜んで苦痛を受け入れたいところだけれど……どうしてかしら、収まりがつかないのよね」
怒りで声を震わせる笹目先輩の背後で鎖が持ち上がったのを見て、全身が危険信号を受信した。
「いやだから俺は違うってのに! なんにもしてねーし――とか言っても聞いてくれないんだろうな!」
さっと教室の出口へ身体を向ける。しかし逃走は篠岡に腕を掴んで阻まれた。
「怠けソウルの注入がまだなのに、どこへ行くんですか! ちゃんとやってください!」
「どう考えてもそれどころじゃねーだろ!」
「人生はいつだって苦労のしどきですよ? こういうときこそ――うわっぷ」
横から鎖の波が押し寄せて、篠岡の姿を飲み込んだ。一瞬で見えなくなって腕も解ける。
「うわぁっ! もう、なんなんだこの人!」
「待ちなさい!」
教室を飛び出すと声と鎖の擦れる音が追ってくる。
苦痛を信条にする化け物がリミッターを外して襲いかかってくる。捕まったらなにをされるかわからない。
「これ怠け者かどうかとか関係ねえだろ! 誰だってこんな厄介ごと嫌に決まってる!」
危険な予感に突き動かされ、懸命に足を動かし全力で逃げた。
人生は平穏に過ごすべきで、苦労も苦痛も、積極的に幸せを求める努力自体必要ない。
それが自分にとっては宿命染みたものであるということを、全力で学校を飛び出したあたりで思い知ることになった。
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