次の恐怖症さん、どうぞ ハチマキと鉄仮面

福本丸太

中毒者の論

「なにかお困りごとなら、なんでも相談してね!」

 どこか他の教室で騒ぐ声以外には箒が床を擦る音だけが聞こえていた――放課後の教室。静かで穏やかな空間、そう言っていいだろう。目の前にいる一人の女子生徒を除けば。

「悩み事は全部吐き出して楽になろうよ! いじめ? 進路? 恋愛――はワタシちょっと疎いけど……。でも死ぬ気でお手伝いするから全面的に頼ってね! ……あのー! もしもし? ねえってば!」

 丸顔で丸い目にショートカット、身長は少し低め。そんな女子が真剣に呼びかけてくる。握り拳に脇を締めた前傾姿勢は行き過ぎなくらいに意気込んで、眼差しは直視されると怯んでしまうくらいもの凄い熱量だ。

 自分に話しかけているとすぐには気づけずに、なんだかうるさいと思って瞼を開けたら今のこの状況だった。

 箒を手にしているところを見ると掃除をしていたようだ。他に誰もいないのでひとりきりでやっていたのなら、もしかするとイジメられでもしているんだろうか。だとしたら相談が必要なのはむしろ彼女のほうのはずだが。

「あー、ええっと……確か同じクラスの……?」

「篠岡志乃。ワタシのことより緩居くん、よく放課後教室に残ってるよね?」

 言う通り、今もこうして教室にひとりで居残っている。それを見て「掃除を手伝え」と思ったのならとてもよくわかる。

 しかし彼女の要求はどうやら違う。

「何度かひとりでいるのを見かけたことがあって、きっと誰にも言えない悩みを抱えて苦しんでいるんだって気になってたんだけど……助けが遅れて今までごめんね! でももう大丈夫! さあ、私に悩みを打ち明けて! きっと力になるから!」

 話しながら悲しげに俯いたかと思うとまた強い視線を向けてくる。忙しいやつだ。

 どうやら悩んでいるように見えたから心配になったので「相談せよ」と主張しているらしい。この手の人間が世の中にはいると、心当たりがある。

(なるほど、お人好しのお節介か)

 状況が理解できれば返答は簡単だ。

「いや、別になにも悩んでない」

 ありのまま打ち明けると篠岡は眉を曲げて口をすぼめ、ぎょっとした顔をした。

「だって、放課後教室にひとりで残ってるなんて、なにかあるよね?」

 その場合悪事を働く気じゃないかと疑われそうなものだが、どうやら本気で心配しているらしい。眼差しも口調も真剣みしか感じない。

「なにもない。なにもすることがないから、なにもしていなかった。だから打ち明けることはなにもない」

 急いで家に帰る目的も寄り道の当てもない。奇妙に見えるかもしれないが、ただ穏やかに時間が過ぎればそれで満足だ。その点で放課後の教室は悪くなかった。

「え……? そんな……」

 繰り返しの答えに、それでも篠岡は納得できていないようだ。

「遠慮しなくていいんだよ? もう掃除も終わっちゃったし、ワタシすることないんです! だってお手伝いできますから!」

 ぐっと肩を掴まれ顔が近づいてくる。

「掃除が! 終わっちゃったんですよ? 勝手に床ワックスがけしたらまた先生に怒られるし、することがないんです! だから早く――早く次の苦労をワタシにください!」

 切羽詰まった懸命さで訴えかけられる。

「なんだお前……なにも悩んでねえって言ってんだろ!」

 鼻が触れそうなほどに迫った顔面を掌で押して突き放すと篠岡は床へ尻餅をついた。なのにスカートが乱れて露わになった太腿も気にせずに、ただただ「信じられない」といった顔つきでこっちを見上げている。

「悩みを打ち明けられないとかじゃなくて……本当に、なにも?」

「そうだよ。俺はできるだけなにもしないで生きると決めてあるんだ。悪いかよ?」

 少し興奮して口調が強くなってしまった。意識して呼吸を深くし、乱れた息を整える。

「一度きりの人生で短い青春ですよ? 今しか味わえない喜びとか、将来に備えた努力とか、そういうのないんですか?」

「ない! 青春に何があろうと将来何が起きようと、流されるところへ行き着くだけだ。俺は死ぬまでユルく生きていく!」

 ポカン、と篠岡の口が開いて呆れ顔になった。この反応には慣れている。

 なにかしら打ち込む当てがある奴に俺のポリシーを聞かせると決まってこういう顔をする。「まだ子供だから、焦らなくても」と馬鹿にした笑い顔でフォローするみたいなことを言われることもある。

 だが篠岡はいつまでも呆れ顔から覚めなかった。

「折角生まれてきたのに……なにもしないまま? 人生をドブに捨てると?」

「嫌な言い方やめろ! 俺はそういう――まるで『人生では必ずなにか成し遂げなくちゃいけない』っていうような考えがスゲー嫌いなんだ!」

 腹が立ってつい大声になった。平穏でいたいのに、まだ徹し切れていない。

「じゃあ本当になにも……していないと」

 篠岡はショックを受けている。声量ではなく、意見が衝撃だったようだ。

「ああ、なにもしない。しないったらしない」

 さっさと「こいつはダメな奴だ」と馬鹿にして離れていけばいい。それで辛くないと言えば嘘になるが、理解してもらえるなんて期待はしていない。

(わかってくれるやつなんて、そうそういるわけないからな)

 諦めを積み重ねていたら、唐突に立ち上がった篠原に腕を掴まれた。言葉は力強く、瞳はギラギラと輝いている。

「緩居くんにピッタリな仕事があるから来て! よかったね? 人の役に立てるよ!」

 その眼の奥に狂気染みた怪しい光を見た気がしたが、瞬きすると消えていた。

「仕事って、俺は――オイオイ!」

 なにもするつもりがないと、はっきり断る前に強引に引っ張って立たされる。女子にしては妙に力が強い。

「緩居くんがなにもしないのはわかった。でもそういう緩居くんだからこそ頼みたいことがあるの! 緩居くんなら……あの人を救えるかもしれない!」

「はぁ? なに言ってんだお前」

 振り払うべく腕を引こうとしたが、力が強くてビクともしない。なにより眼差しの確かさが抵抗の無意味さを告げていた。逃げてもきっとすぐに捕まえられる。

 これはもう、断るほうがむしろ大変な労力になりそうだ。

 こみ上げてくる悪口雑言を、すべてため息に換えて吐き出す。

「……どこ行けばいいんだよ」

 ユルく生きていく覚悟の結果がこれなら、将来流されて行き着く先が心配にもなった。


「こっちだよこっち! なにしてるの早く早く急いで急いで!」

 案内されて校舎を移動する。と言っても篠岡は走っていってしまったのですぐに姿は見えなくなった。それでも声のおかげでどっちへ行けばいいかはわかる。

(……逃げるなら今がチャンスだな)

 そう思った途端駆け足で戻ってきた。目の前で止まりぴっと気を付けの姿勢をする。

「なにをやってるの? ハイハイ、倍速倍速!」

 パンパン手を叩いて急かしたかと思うとすぐにやめ、今度は指でバツ印を作る。もう感心するくらい挙動が忙しい。

「あ……ダメだ。緩居くんは急がない人だからこそ期待が持てるんだったね。それじゃあワタシが2人分急ぎますから!」

 廊下の先に向かっての反復横跳びが始まった。こっちへ視線を固定してなにが楽しいのか微笑んでいる。やっぱり感心はしない。イライラする。

「それで、一体どこへ行くんだ?」

 校舎は上級生の教室がある区画へ移った。慣れない場所は落ち着かない。

「3年生の、笹目先輩という人を助けてもらいたいんですよ」

 篠岡は進路上で反復横跳びを続けながら話し始めた。器用さにも驚くが、息を乱さない体力が凄まじい。

「さあ着きましたよ。ここです」

 通りかかった教室の入口へすぐさま入っていく。上級生の教室だというのに、篠岡の行動はいつでも唐突で機敏だ。

「失礼……しまーす」

 気後れしながらあとへ続くと、中には篠岡の他に誰の姿も見当たらなかった。

「なんだ……留守じゃないか。じゃあ俺は帰――」

「笹目先輩! 助っ人を連れてきましたから、今日こそは改心してもらいますよ!」

 誰もいない教室で叫ぶ篠岡の様子がおかしい。顔が上を向いている。

 不思議に思ってその先を見て、鳥肌が立った。

 天井に何かが張り付けになっている。鎖が絡んでいるソレが制服でなければ人間と判るのはもっと遅れていたと思う。更に鉄仮面を被せられていて顔は見えない。しかもスカート――女子生徒だ。体を拘束する鎖に混じって長い髪がまっすぐに垂れている。

「これが笹目先輩? 一体なにやったらこんなことされるほど恨まれ……うん?」

 不良が復讐された。状況を見てそう受け取ったものの、それにしては妙だ。

 篠岡が平然としている。お人好しならこの状況を放置はせずに助けようとするはずだ。それに、まるでそこにいることが当たり前であるかのように初めから天井を見たことも気になる。

『緩居くんならあの人を救えるかも』

『改心してもらいますよ』

 篠岡の言葉が脳裏をよぎった。

 これがいじめや復讐なら俺が連れて来られるだろうか。篠岡が俺を見込んだ要素と、この状況でなにが助けになるのか、それを考えたらピンと来てしまった。

「あー……まさかこれ、本人の意思でこうなってるのか?」

 恐る恐る尋ねると、篠岡は両手で大きな丸を作って小さく飛び跳ねた。なにが楽しいのか満面の笑みだ。

「大っ正解! ぜひこの笹目先輩に、緩居くんの溢れんばかりな〝怠け者のソウル〟を注入してもらおうと思って!」

「腹立つ言い方――はこの際いいとして、俺は帰るぞ! こんなのと関わりたくない!」

「そんな! 緩居くんの力を必要としている人がいるのに!」

「やめろぉ! 俺にこんな思春期の闇を背負わせるな!」

「――帰るならそっちの子も連れて行ってはもらえないかしら」

 振りほどこうとしている間に聞こえた声は、なんと上からだった。

(おお……普通に喋った。当たり前か)

 恐いもの見たさに釣られて、つい体の向きを戻し天井の鉄仮面――笹目先輩を見上げる。

「毎日毎日、しつこく訪ねて来るものだからいい加減鬱陶しく感じていたのよね。貴方が誰かは知らないけれど、帰るなら二人揃ってにしてもらえる?」

 仮面が話す気配を遮っているせいで不気味ではある。それでも聴こえた声音は細く澄んで、意外なほど柔らかかった。見た目通り恐ろしく近付き難い人物、というわけでもなさそうだ。

「まとわりつかれる苦痛を歓迎できなくもないけれど、こう毎日だと刺激に欠けるわ」

 ポカンと眺めていると鎖が動いて拘束が解け、笹目先輩はするすると天井から下りてきた。自分で外せるらしい。

「……ってことは、本当に自分でやってたのか」

「そうなんですよ。先生たちの間や生徒会でも問題になってて、特に同じクラスの人は大迷惑だそうです」

「というと……授業中もこうなのか」

 視界の端でこんな異空間が広がっていては勉強どころではない。

「一体こんなことしてなにが楽しいんだ……?」

 笹目先輩はいかにも「バカなことを聞くな」とばかりに鼻で笑って髪をかき上げた。

「楽しいわけがないでしょう。苦痛に感じなければ意味がないもの」

 なにを言っているかわからないが、さすがに床の上に立てば怪人っぽさは薄れて見えた。

 華奢な体にまっすぐでまっくろなロングヘア。とはいえ鉄仮面の異彩は健在で、貼り重ねられた鉄板に空いた空洞に見つめられたら俺じゃなくたってお近づきは避けたくなる。

 空気を無視しして帰ろうか迷っていると篠岡が椅子で身長差を埋めて耳打ちをしてきた。

「『人生は良いこと半分、悪いこと半分』っていう格言? ――があるでしょ? 先輩はそれが真実だと思ってるのね」

「はぁ? それでどうして天井に張り付けになるんだよ。それに、別に間違いじゃねえだろ。人生悪いことがあれば、良いこともあるって話――」

「――私はそんなの耐えられない!」

 突然、大声が教室に反響して続ける言葉は驚きで引っ込んだ。

 思わず篠岡と手を取り合って、恐る恐る声のした方を見ると笹目先輩が自分を抱くようにして身体を縮めぶるぶる震えている。揺れる鉄仮面がぞっとするくらい不気味だ。

「嬉しいことや楽しいことがあってもそれを台無しにする運命が将来に約束されてしまう! それを知っていながらのんきに幸せに浸るなんて私にはできない!」

 なにを言っているのかはわからないが、まくしたてる勢いは質問を挟む余地がない。

「幸福と不幸が同じ量なら、先に幸福を消費すればするほど将来の不幸の純度は高くなってしまう。だったらそれを止めないと! 苦痛を味わって――幸福を止めないと!」

 叫びに応えるようなタイミングで鎖が波打ち、笹目先輩に巻き付くと天井へと運び元のように張り付けにしてしまった。

 一部始終を目撃した感想はひとつしかない。

「うわぁっ、なんだこの人! 恐い! 意味わかんねえし!」

 状況と笹目先輩の思想に面食らっていると、篠岡が横に立ってわざとらしく咳払いした。

「コホン。じゃあそろそろいいですか? ハイ緩居くん! この人を救ってください!」

 満面の笑みと掌で「どうぞ」と示されて、慌てた。

「おげぇっ!? いやムリだろ! 俺まだほとんど理解できてないし」

「つまり笹目先輩は、良いコトがあるとあとで辛い目に遭うって信じてて、それが恐いから偶然でも幸せにならないように苦しい思いをしてるんです。それがこの状態」

 簡潔にまとめられてしまった。

『人生は良いこと半分が、悪いこと半分』

 悪いことがあれば良いこともある。同時に、良いことがあれば悪いこともある。額面通りに受け取れば確かにそういう意味になる。

「わかった。わかってしまった。でもそんなんでこうなるのか? そこはわかんねえ!」

 食い下がると篠岡が余計に勢いを増した。

「どうしてこうなってるかなんて関係ないんですよ! だって緩居くんは緩居くんでのんべんだらりと過ごすのが一番有意義だと信じているんでしょう? だったらそれを笹目先輩にもわからせてあげてほしいんです。青春をドブにダンクシュートする意義を見せてください! さあ!」

「意義なんて知らないっつーの! どういう生き方しようが個人の自由だろ? だから笹目先輩もこういう生き方の人なんだよ。人の趣味に口を出すのはよくないな」

 だから俺は帰る――と続けようとして、言葉に詰まった。篠岡の眼差しが熱意を越えて怒りを感じるほどに強くなっていく。

「ワタシは苦しんでいる人や困っている人のオーラが見えるんです」

 こっちもおかしなことを言い始めた。

「笹目先輩にも見えます。しっかり絡みつく茨の『苦労オーラ』が。本人も苦痛だって言ってたじゃないですか。なのに見過ごすんですか?」

 篠岡自身も笹目先輩の苦痛の一因なはずだが。

「それに……緩居くんにも見えます。煙みたいなモヤモヤした『苦労オーラ』が。なにもしてない・なにも考えてない、なんて嘘なんでしょう? あとできちんと話を聞かせてもらいますからね」

 疑いの視線に、舌打ちしか出てこなかった。この熱量に付きまとわれるだなんて冗談じゃない。

「違うって言うなら笹目先輩に怠け者のソウルを注入して証明してください」

「じゃあ……ここは手伝ってやるから俺のことは見逃せ。それでいいな?」

「それは約束できません!」

 鼻息の荒い篠岡のことはもう構わずに、笹目先輩へ向き直る。

 見上げると仮面に威圧されもう逃れられないような迫力を感じた。早くこの自縄自縛の茨姫を助けなければこっちまで呪われそうだ。

「悪いな先輩。なりゆきでアンタに怠け者のソウルを注入しなきゃならなくなった」

「……苦痛だわ」

 どう考えても笹目先輩の思い込みは無理がある。しかし「間違っている」と指摘するだけで聞き入れるだろうか。誰だって楽な道を選びたいのだから、余程意思が固くなければ苦しい思いなんて続けられない。

 ともかく説得するしかない。

「えーっと……『良いこと半分悪いこと半分』ってのは、酷い目に遭った人を慰める目的の言葉で、言わば気休めだろ? こんなことしたって厄除けにはならない」

「でも私はこれしか知らない。痛みが足りないのなら増やすだけ」

 鎖が軋む音を立て、きつく締まって体に食い込んでいく。あれで痛くないはずがない。事実、うめき声が鉄仮面から小さく漏れて聞こえた。

「な――バカなことやめろ! 安心するためになにかしたり信じたりすることは珍しいことじゃないし、気持ちはわかる。でもそのために自分を傷つけるなんて矛盾してるだろ」

「傷つかないで生きていけるとでも信じていない限り、苦痛を避けるだなんてそれこそバカげているわ。苦しい思いをして幸せになるだなんて誰でも語っていることでしょう」

「じゃあアンタには『これだけ苦しんだらもう大丈夫』ってラインがわかるのかよ」

 それが彼女の信仰の欠点だ。不運を恐れるあまり苦痛に浸ることでしか安心できないのなら、この悪趣味を永遠に続けるしかなくなる。

「世の中はな、もっと気楽に渡っていけるんだ。弱い人間でも生きていけるように社会は作られてる。ムリになにかする必要はないんだよ」

 篠岡に押し付けられた役割ではあっても、わざわざ不幸になろうとする人間を放っておくのも落ち着かない――というよりもイライラする。

「なれるんだったら、まっすぐ幸せになれよな。そんなこと悩める時点で贅沢な立場だってわからねえのか!」

 もう先輩だろうと関係ない。全力で睨みつけて精一杯大きな声を出したが、鉄仮面はまるで動じなかった。

「私はその贅沢だって捨てたいのだから、貴方の言っていることはまるで見当違い。でもそうね……反論させてもらうなら、社会は平均の水準を上げるために機能しているのであってすべての人を救う目的なんか持たないと返しておくわ。貴方、今のうちから楽することばかり考えていたら将来が大変よ?」

「誰が……楽してるって?」

 これにはカチンと来た。

 腹の底で煮えたぎる怒りに身を任せ、鎖を掴むべく手を伸ばす。

 この頑固者をムリヤリにでも引き摺り下ろす。その寸前で急に後ろで溌剌とした声があがって気が削がれた。

「そうですよ! 楽なんてしちゃいけません!」

 振り返ると篠岡がきゅっと拳を握ってなにやら意気込んでいる。

「ひとりひとりが精一杯努力して支えているから、社会も個人も成り立っているし進歩があるんです。『若いうちの苦労は買ってでもしろ』って言うじゃないですか!」

「あら貴方、気が合うわね」

「ええ、先輩!」

「ハイそこちょっと待った」

 ニコニコ笑って天井を見上げる篠岡の肩を掴んで壁際まで連行する。

「あのなあ、お前が意気投合してたら説得できないだろ?」

「だってワタシ、先輩の『なにかしなくちゃ』って気持ち、凄くよくわかりますから!」

 こともあろうに自分の立場を忘れて反論してきた。なんだコイツは。

「自傷行為はよくないですけど、姿勢だけなら緩居くんより笹目先輩のほうが健全ですよ? なにかに打ち込んで一瞬一瞬の完全燃焼を生涯続けないなら、自分がなんのために存在しているのかわからなくなっちゃうじゃないですか。私ももっと――もっともっともっと苦労をしないと!」

 見開いた瞳に、今度はハッキリと狂気を見た。

(さっきのは気のせいじゃなかったか……。こいつ、お人好しとか貧乏性とかいうレベルじゃないな)

 苦労中毒とでも呼ぶべきか。引き攣った笑みには汗が浮かび彼女が自分の思想に追い詰められているとわかる。

「学級委員も日直も掃除当番も、そんなこと繰り返してるだけじゃ甘いんです。笹目先輩のことも早く解決して次の苦労をしないと――あっ……ゴメンナサイ……」

 思い切り吐き出してやっと我に返ったらしい。瞳から狂気を消して寂しそうに笑う。

「こんなだからワタシ、いっつも笹目先輩を説得できないんですよ。先輩はワタシと似てるから」

「いや、全然似てねーよ。どっちかって言うとお前のほうがヒデーよ?」

 感じたままを言うと篠岡はきょとんと間の抜けた顔をした。

 思ってもみなかったことなようなので、話を続ける。

「あの人は自分のためにやってるんだ。いつか不幸が満額になればそのあとで完璧な幸せがやってくるって信じてるから、自分を痛めつけて先払いしてるつもりなんだよ」

 笹目先輩は自傷癖でもマゾヒストでもない。人生が良いことと悪いことの混ぜこぜでは納得できない潔癖症の茨姫、それが彼女の正体だ。説得するならそこが難関だと思っていた。安易な幸福に興味がない理想家を堕落させるのは厳しい。

「でもお前の苦労は、ただ苦労があるだけだ。教室の掃除をひとりでやったって、放課後に残って悩んでそうな奴の相談に乗ったって、なんの積み重ねにもならない。笹目先輩もなっちゃいないけど、お前には目標がない」

 笹目先輩が自傷癖でもマゾヒストでもないように、篠岡も善人やお人好しじゃないと今の話を聞いてわかった。生涯完全燃焼の言葉通り燃え尽きて終わるつもりだ。

「人助けは立派なことだけどよ。でも善行なんてのはちょっと気分がよくなるくらいの意味しかないし、そこで留めておくべきなんだ。下積みにならない苦労なんてやめちまえ。自分の都合だけで生きろ」

 篠岡は目を丸くして黙っている。

 理解しているのかいないのか判断に迷っていると、後ろから鎖の鳴る音が聞こえた。

「ねえ。よく聞こえなかったのだけれど、今私のことをなんて言ったのかしら?」

「アンタは幸せになりたいんだって言ったんだよ。ちょっとあとにしてくれるか? 今はコイツが――」

 わずらわしく感じて答えながら振り返ると、笹目先輩が天井から降りてきていた。そして駆け寄ってくる。ナイフを構えて襲いかかるような勢いだ。

「私のことを理解してくれる人は初めてだわ!」

 緊張して身を縮めていたのに、なんと手を握って上下に揺すられた。喜んでいる口ぶりといい感動しているらしい。

「その子といい、勘違いする人ばかりだけれど貴方はちゃんとわかってくれる人なのね? 誤解はムリもないことだし他人にどう思われようとどうでもいいと思ってきたけれど、わかってもらえるだけでってこんなに嬉しいなんて思わなかったわ」

「は、はぁ……どうも」

 もしかすると案外説得はうまくいくかもしれない。けれどそんなことは最早忘れてしまいそうなくらい、繋がった手が柔らかくて温かかった。

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