第四話 追いかけっこ
「……うぅ」
意識を取り戻した八皇はゆっくりと周りを見た。
緑、緑、緑……。視界に飛び込んでくる物は緑で溢れていた。
木々の生える地面すら苔の絨毯に覆われている。
足裏に感じる柔らかさはふかふかのベッドのようだ
「いてっ」
胡座の状態でしばらく惚けていた八皇は、後頭部を何かにぶつけてしまった。
頭を摩りつつ振り返るとそこには大きな水晶が生えていた。
「なにこれ」
理解が追いつかない八皇はそう漏らすと水晶を撫でてみる。
仄かに温かいそれはまるで生きているかのように中で光が揺らめいていた。
辺りを照らすほどに光量は大きいのだが不思議と眩しさは感じない。
そのまましばらくの間撫でていた八皇だったが、置かれている状況を思い出すと立ち上がった。
「靴はないけど歩けないほどじゃない」
柔らかな苔の絨毯はどこまでも続いている。
「何が起こった?」
「夢でも見ているのか」
しばらく唸っていたが、分からないことを考えても仕方がない。
まずこの場所が安全かどうかを確認してからでも遅くはないだろう。
(帰れるかどうかはその後だ。夢ならすぐに覚めるだろうし)
周りに人工物は一切ない。水晶も温かいだけで役に立ちそうにない。
「探索しよう」
この状況に少しだけ順応しつつ、八皇はゆっくりと歩き出した。
「何でこうなるんだよっ!!」
森の中を全力で走りつつ八皇は叫ぶ。
背後から迫る怪物がもうすぐそこまで迫っていた。
「これ絶対に夢じゃねぇっ!」
目を血走らせながら逃げ続ける。
「流石にあれはやばいっ」
脚を動かし続ける八皇は怪物との出会いを思い出すと顔を歪めた。
それは探し始めてから五分程経った頃だった。
――ガサガサッ。
近くの茂みから音が聞こえた。
見たくはなかったが恐る恐る振り返る。
そこにいたのは狼だった。丁度茂みから顔を出したところのようだ。
(……嘘だろ?)
それなりに身長が高いと自負している自分でさえ見上げるくらいに大きい。その規格外ぶりは同じ生物とは思えなかった。
体重差は優に十数倍はあるだろう大狼は、いきなり襲いかかってくることはなかった。
意外に円らな瞳でこちらをじっと見つめてくる。
観察されているようで八皇は居心地が悪かった。
(うーん……こりゃ死んだかも)
相手との距離は二メートルもない。
(この至近距離だ。さすがに逃げ切れるとは思えない)
ふさふさの毛皮でわかりにくいが、全身鋼のような筋肉で覆われているのだろう。漏れ出る威圧感が尋常ではない。
――ふんふん。
八皇の匂いを至近距離で嗅ぐ大狼。
(意外と獣臭くないんだな)
犬に匂いを嗅がれている絵を頭に浮かべながらそんなことを思う。
一通り嗅ぎ回って満足したのか大狼は八皇から顔を離すと
「ウォォォォォォォォォンッッ!!」
叫ぶ勢いそのままに飛びかかってきた。
「ぐぁっ!」
耳を抑えて倒れ込む八皇は偶然その突進を避けることができた。
振り返った大狼は避けたことをお気に召したのか、その大きい尻尾を一つ振ると
「ウォォォォォォォォォン!!」
もう一度飛びかかってきた。
「くそっ!!」
一か八か、八皇は背を向けると思い切り地面を踏みしめ脱兎のごとく逃げ始めた。
――そして現在に至る。
「完全に遊ばれてんなっ!!!」
川沿いを走りながら叫ぶ。
「この年になってっ、こんなに必死に走るっ、とは思わなかった!」
お世辞にも速いとは言い難い速度で駆けていく。社会人の運動不足を舐めてはいけない。すでに顎は上がっていた。
後ろからは狼が茂みを器用に避けながら追ってくる。その気になれば追いつけるはずなのにそれをしない。
確実にこの経験は人生の中で一番のトラウマになるだろう。
全身を悪寒に苛まれながら必死に脚を動かし続ける。
「っ、どうしたらっ」
このままでは保たない。
唯でさえ遊ばれているこの状況。いつ終わるかわからない。
「っ! あれはっ」
視線の先に地面はなかった。行く先にあるのは崖のようだ。
「嘘だろ?!」
八皇はすぐに終点まで来ると恐る恐る下をのぞき込んだ。
「確実に死ぬな」
下まではかなりの高さがある。しかも崖は急すぎて降りることは出来そうになかった。
息を整え自分に言い聞かせる。
「覚悟を――」
――ガサッ。
どうやらこの追いかけっこも終わりのようだ。
音が聞こえた方へとゆっくりと振り返る。
そこにいたのは眼を爛々と輝かせた大狼だった。尻尾を振りながらゆっくりとした足取りでこちらに進み出る。
「――仕方ない」
食べられるよりはずっといい。
腹を括った八皇は僅かな、ほんの僅かな可能性に賭けることにした。
そのただならぬ雰囲気に警戒したのか大狼は足を止めた。
一瞬の静寂の中で見つめ合う。
八皇の耳に聞こえるのは自分の血液が轟々と流れる音だけだった。
「じゃ、いきますか」
意識して軽く言うと八皇はゆっくりと立ち上がり大狼と対峙した。
大狼は少しだけ身を沈ませると飛びかかる体勢に入る。
「いくぞ」
「グルル……」
八皇も構えを取り脚に力を込めると思いきり飛んだ――もちろん背後へと。
そこにはあるはずの地面はもうない。
仰向けに落ちていく八皇。視界を埋め尽くすのは綺麗な青空。
「戦うのなんて論外だ」
遊ばれて死ぬだけだろう。
大狼も自分から身を投げるとは思わなかったのか、その場で固まったまま動かなかった。
八皇はお守りとして着けていたブレスレットを撫でると
「どうか死にませんように」
光を浴びて美しく輝く鉱物達。その姿を目に焼き付けるとギュッと目を閉じた。
走馬燈のように思い出が浮かんでは消えていく。
何故か最後に浮かんだのは自室で彼らを眺める自分の姿だった。
『――』
徐々に意識が遠のく中、八皇は再びあの声を聞いた気がした――。
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