葉桜と夏草 3

 桜の下にいた女性の名前は、飯田瞳といった。彼女の家は桜の木の良く見える位置にあり、古い木造の一戸建てだった。縁側がある家で、庭のほうに開かれた縁側の向こうに桜が良く見えていた。その縁側のある座敷に通され、久しぶりの畳の感触に懐かしさを覚えながら、輝と町子は、やはり故郷はいいなと感じていた。

 瞳がお茶と茶菓子を用意するために台所に下がっていくと、正座に慣れていないミシェル先生は、苦笑いをして脚を崩した。

「ねえ、輝」

 そんなミシェル先生を見ながら、町子が輝をつついた。

「瞳さんから、何か感じた?」

すると、今度はミシェル先生が輝の代わりに町子に返した。

「それは、瞳さん自身から言うまで、言わないことにしましょう。いいですね、輝」

 輝は、はい、と、一言答えて町子のほうを見た。ミシェル先生は、まだ覚醒していない町子に気を使ったのだろう。それに、瞳自身の抱える悲しみの原因が分からない以上、下手に突くのはよくないと考えていた。

 瞳がお茶を持ってくると、ミシェル先生は足を正座に戻してきちんと座った。足がしびれていたが我慢している、それが顔に出ていて、ミシェル先生の意外な一面に輝と町子は安心した。

「足を崩してください、ミシェル様。ここはそんなに改まった席ではありませんし、お休みいただくためにこちらにご招待したのですから」

 瞳が笑うと、ミシェル先生は、ほっとしたように足を崩した。瞳がお茶とお菓子をそれぞれに配っていく。そして、ふと、庭のほうを見て一瞬、悲しい顔をした。しかしすぐに笑顔に戻ると、瞳自身も席に着いた。

「高橋輝さん、森高町子さん、はじめまして。私は飯田瞳。ミシェル様とは旧知の仲です。そして、高橋さん、あなたは感じているのでしょう、私が何者なのか」

 輝は、瞳の言葉に頷いた。

「あなたの後ろにある悲しみの原因も、これで分かりました。そして、ミシェル先生のことも」

「ミシェル先生のことも?」

 町子が問い詰めてきたので、輝は、少し興奮気味の彼女の手を取って、まず、落ち着くように言った。

「町子、これは、瞳さん自身の口からきいたほうがいい。高校の歴史を少しかじった程度の俺が語れるほど、戦争は甘いもんじゃない。そう思う。ミシェル先生のことも、先生自身が明かすまで待ったほうがいい」

 そう言って、輝は町子の耳によって、耳打ちした。

「じゃないと、怖いだろ」

 町子は、その言葉に妙に納得した。目の前でミシェル先生がそのひそひそ話の行動をけん制するかのように、ひとつ、咳払いをした。

「でも、戦争って、いったいいつの話なんですか?」

 町子が、誰ともなく質問すると、瞳が一口、お茶を口に運んだ。それにつられて皆がお茶をすすった。

 おいしい。

 朝美の腕がまだまだだと思うくらいに美味しいお茶だった。お茶菓子として用意されていた練り切りも、とても美しくて食べるのがもったいないくらいだった。

「ずっと、あなた方を待っていたのです」

 瞳は、その視線をテーブルの上に落として、言った。

「私が生まれ、育った時代は大正の世。そして私は、あの桜の前の代、丘の上の一本桜と言われていたソメイヨシノの親株。そこから生まれた、桜を統括するシリンです」

 瞳は、その後輝たちにいろいろなことを話してくれた。彼女の親のこと、兄弟がいない一人娘だということ、大正の世の中がどういった世界だったのか。

 瞳は、桜のシリンとして生まれ、両親の理解を得て育った。両親が死んで、一人きりになっても、自分一人で生きていこう、結婚はしないで、子供も産まないで生きていこうと誓っていた。そうして、彼女はこの家に一人きりで住むことになった。

「その時は、まだ私の姓は『池田』でした」

 そう言った瞳の顔は少し寂し気で、輝たちに笑いかける顔は、悲しかった。

 瞳は、話を続けた。

 一人で生きているうちに、第二次世界大戦が勃発した。そのころ、瞳は、ある男性に恋をしていた。一人で生きるのに疲れたのか、寂しくなったのかはわからない。しかし、出会いというのは残酷で、瞳はその恋した男性と何度も逢瀬を重ねるようになっていった。彼は名を飯田誠一と言い、町工場に勤めていた。戦争前にはしょっちゅう夜桜を見に行き、休日と言えば会って、近くの丘、瞳の媒体である桜の下で愛を確かめ合ったものだった。

 しかし、戦争が始まってほどなくすると、町工場は閉鎖されることとなった。なぜなのかはわからない。それは、お国が決めた方針だからと、周りは皆そう言っていた。そして、第二次世界大戦がはじまり、しばらくすると、瞳が誠一に会うことも許されなくなった。誠一に会うことができた最後の日、誠一は一通の手紙を瞳に渡した。俺にどうしても会いたくなったらこれを開いてくれ、そう言って別れた。

 そして、その数日後、真珠湾攻撃を皮切りに、太平洋戦争に、日本はその身を投じた。

 誠一はしばらく内緒で瞳と会ってくれた。家族に気づかれないように、そっと。そして、あの手紙をちゃんと持っている瞳に感謝しながら毎回別れた。

 しかし、ある日。

 誠一が、約束の場所にぱったり来なくなった。

 不審に思いながらも、ずっとその場所で待っていると、誠一の友人の男性が瞳のもとへ走ってきた。彼は、瞳を見て、本当にいた! と叫ぶと、丘から降りてくるように言った。そして、瞳の肩に震える手を乗せて、悔しそうに声を震わせた。

「誠一は、特攻隊で」

 その後、喉を詰まらせて、彼は何も言えなくなってしまった。

 飯田誠一は、特攻隊において米軍の軍艦に突っ込み戦死。

 瞳のもとには、帰ってくることはなかった。

 しかし、その時、瞳とその友人のもとに、奇跡が起こった。ちょっとした奇跡だったが、葉桜になっていて青々としていた桜の木に、満開の桜が咲いたのだ。その後、突然吹いた突風で桜の花は散り、元の葉桜に戻った。その突風の中で、瞳とその友人は、誠一の声を聴いた。

「悲しまないで。いつもそばに」

 聞こえたのは、それだけだった。

 のちに瞳は、特攻隊にいた同じ隊の隊員に、誠一のことを聞いた。彼は、葉桜になっていたにもかかわらず、常に桜の枝を特攻機の中に入れていたと。そして、出撃するその日も機内には桜の枝があったのだと。

 それ以来、瞳は誰かと会うのをやめた。

 戦争が終わっても、誰かを失うのが怖くて、恋をするのが怖くて、外界とのやり取りをなるべく少なくしてやってきた。

「シリンは、寿命が長いゆえに、抱えるものも大きい」

 顔を伏せる瞳に代わって、ミシェル先生が説明をした。皆は、黙ってしまった。重い話を聞いてしまった。瞳が失ったものは恋人だけではない。その後の人間関係までごっそり失ってしまっている。戦争が人に負わせる傷は相当なものだ。そう感じた町子は、ふと、もう一つの疑問にさしかかった。

「ちょっと待って、ミシェル先生」

ミシェル先生が、なんですか、と一言言いながら町子を見た。そして、ハッと気づいて顔を赤面させた。

「ミシェル先生、あなた一体何者なんですか?」

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