第8話 葉桜と夏草
八、葉桜と夏草
ひとひらの 花弁その手に 舞い降りて 来る日の思い ほのかに香る
花も散り、葉桜となった桜の木の下に、一人の女性が立っていた。手には古く黄ばんだ手紙を大切そうに持ち、その、ほのかに赤い、いや、桜色の瞳を木の枝から透ける空へ向けていた。長い黒髪が夏の始まりを告げる風に揺れた。桜色の瞳とは対照的な水色の着物の袖を持ち、かがんで、道に落ちた一枚の桜の葉を手に取った。女性は、その葉の上に、ぽつり、と、涙を一つ落とした。
伝えたい思いがあった。
伝わらなかった思いがあった。
それがいまだに彼女を苦しめていた。淡い恋を抱いた青春時代から、何十年も時は過ぎた。失ったものがあまりに多く、そして、得たものはたったの一つ、この命だけだった。
彼女の周りの人間は誰もが、彼女を残して旅立っていってしまった。遠く、遠く、彼女の手の届かない場所へ。決して手の届くことのない場所へ。
彼女は、孤独だった。そして、見ることができなくなっていた。
彼女の周りにあるすべてのものを、見ることができなくなってしまっていた。それはあまりに辛く、あまりに苦しいものだった。
はかなげに見えるその女性の姿は、緑色の葉を湛えて風に揺れる桜の木の姿に、混じっていった。それは葉だったか、幹だったか。誰にも見られることもなく、ただ、その桜の木に吹き付けるさわやかな風とともに女性は姿を消した。
町子と輝がハイスクールの環境に慣れて、一か月が過ぎた。
輝はゴールキーパー以外の練習も欠かさずやっていたし、そのおかげで他のポジションに回ることも多くなってきた。町子はチアリーダーのクラブに入った。そこなら、試合のたびに輝を応援に行くことができる。輝も、町子が応援に入ればいつもの何十倍も力が出る気がした。
輝と町子の仲は学校では有名で、あの事件の後に、何故か屋敷の近くで事の顛末を見ていたメルヴィンが学校中に広めていた。まさか、あとをつけられているとは思わなかったので、輝はメルヴィンの行動力に舌を巻いた。
とはいえ、シリンやそれに関係するもののことまではメルヴィンにも明かしてはいない。あくまでシリンの存在は世間では知られてはいけなかったからだ。
そして、輝たちの次の行き先が決まったのも、この頃だった。
学校を終えて、いつものように集団下校してきた輝たちは、屋敷の前で見知らぬ女性が佇んでいるのを見た。その女性は、栗色の髪をポニーテールにしているかわいらしい女性で、大人なのに、少女のような無垢さを感じさせた。それは、彼女の着ている服が若々しいというのもあったが、顔が童顔で、そばかすがちらほらとあったからというのもあった。
屋敷の前で一体何をしているのだろう。疑問に思った輝がその女性に近づいていくと、突然、脳内に白樺の木の映像が流れ込んできた。
ああ、この女性はシリンなのだ。しかもずいぶんと古いシリンだ。
輝は、彼女が白樺のシリンであると分かって、この屋敷に用があるのだと悟った。
「友子と朝美は、屋敷に入ってお茶の準備をしてきてくれ」
輝は町子の手を握り、その女性のもとへと走り寄っていった。すると、先に話しかけてきたのは、その女性だった。
「見るもの、戻す者ですね」
輝が頷いて、自己紹介をすると、女性はにこりと笑ってお辞儀をした。英国式のお辞儀だ。
「私は、セイン・ノクスの妻でアイラと申します。今日は、夫からの伝言を預かってきました」
セインの妻。
「セインさんの、奥さん?」
町子が、目を丸くして叫んだ。輝が口に手を当てて静かに、と一言言うと、頬を赤らめた。そして、輝とともに屋敷の中へ案内した。
屋敷に入ると、すでにお茶の準備が整っていた。芳江と天使や悪魔たちがすでにお茶会を開いていたからだ。天使と悪魔はいまだに毎日お茶をしている。双方が協力するということでは納得したが、カリムに関してはまだ、慣れ合うのは御免だと言っていた。
その天使と悪魔たちに混じって、アイラは勧められるままに席に着いた。他のシリンたちに挨拶をすると、朝美が淹れた紅茶を口に含んだ。
「美味しいです」
そう言って朝美のほうを見たので、朝美はうれしくなって飛び上がった。
「初めてそう言ってもらえた!」
朝美は、そう言って喜びながら二杯目を淹れるためにキッチンへと下がっていった。
「それで、アイラさん、セインさんはなんて?」
輝が聞くと、アイラは、びっくりしたように目を丸くして、紅茶の入っているティーカップを取り落としそうになった。
「危なっかしいわね」
クローディアはそう言って、ふと笑った。アイラの行動がおかしかったのだろうか。そのアイラは、ぎりぎりこぼれるのを免れた紅茶をテーブルに戻し、話を始めた。
「すみません、大事なことを忘れていました。あまりにお茶がおいしくて。それで、夫の話なんですが、今度は日本に行ってほしいと言っていました。そこに救ってほしい人がいるって。なんでも、女性みたいですが。あと、その日本に行くときは、学校で教鞭をとっているミシェル先生に同行をお願いしてほしいと言っていました」
「ミシェル先生に?」
町子は、聞き返して少し不安になった。いや、不安というよりは怖れだった。
ミシェル先生は少し怖い。物事を何に関してもきちんとやるし、忘れ物や授業中ふざけたり寝たりしていると手痛い仕打ちを受ける。とにかく厳しい教師だった。もちろん、怖いだけではなく、きちんとやれたことは褒めてくれるし、何かにつけ味方になってくれることも多かった。いじめは決して許さない人だから、彼女の担当するクラスは優秀な生徒が多かったという。
その、怖いミシェル先生と日本に行けとは、どういうことなのだろうか。ミシェル先生は、いったい何者なのだろうか。
「ミシェル先生は、頼りになるでしょう」
アイラは、そう言って二杯目の紅茶を口に含んだ。そして、幸せそうに笑うと、目の前に置いてあったスコーンを口にほおばった。
「私、ミシェル先生とはよくお話をするんです。先生の出身校であるオクスフォード大学で講師をしていた私に、色々指摘をしてくださって以来の親友で。だから、今回の件にミシェル先生を同行させていただきたいというのは私からのお願いでもあるんです。彼女となら色んな刺激もあるでしょうから。それに、一度でいいから、私、高校で教鞭をとってみたいと思っていたの。ミシェル先生の穴埋めは私がするから、安心して行ってきてくださいな」
町子と輝は、それを聞いて、心底アイラを恨んだ。むしろ、どうしてミシェル先生であってアイラではないのだろう。いちいち交代するくらいなら、アイラが同行してくれればいいのに。
二人の表情からすべてを悟ったアイリーンが、ため息をついてアイラに加勢した。
「その先生じゃなきゃいけない理由があるんでしょ。アイラさんに間違いはないわ。まあ、講義で多少の間違いはあったでしょうけど、それたぶん、アイラさんの経験してきた歴史と、国の都合にいいように折り曲げられた歴史との違いを指摘されただけだろうから」
アイリーンは、言い終わると紅茶を口に含んで、カップをソーサーの上に戻した。朝美がお茶を淹れる腕は上がっている。この間の阿里山の烏龍茶を今淹れたら、皆感激して声を失うだろう。そう踏んで、人知れず微笑んだ。
「それはとにかく、俺たちは日本のどこへ行けばいいんですか?」
輝がアイラに尋ねると、アイラは嬉しそうに答えた。アイリーンがフォローしている間にまた一つスコーンをほおばっていたので、急いで紅茶で流し込む。
「軽井沢よ」
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