学校 2

 輝は、学校が始まる前日からそわそわとしていた。忘れ物はないか、日本から持ってきていないものはないか、いろいろと不安だった。持っていくものをリストアップし、隣にテンを置いて、チェックしてはテンの顔を見た。何か日本に置いてきたものがあれば、テンの懐から出してもらわなければならない。そうこうしているうちに、母まで部屋にやってきた。母は、輝の転入に際して何か忘れ物がないかチェックしに来たのだ。輝にとって異文化にガッツリ触れる機会だ。英語は分かるが生活習慣や考え方までは日本と同じようにはいかない。それが不安だったのだ。

「明日から毎日お弁当作るからね。学校のお友達が出来たら、その子の分も作ってあげる。だから、ちゃんと全部食べてくるのよ。あと、勉強は予習・復習をしっかりね。ここは日本じゃないから、放課後に部活があるかどうかは分からないわ。地元にサッカー・クラブがあるから、学校になかったらそちらを選べばいいわ。あとは、そうね」

 母・芳江はそう言ってあたりを見渡した。きょろきょろとしている母をテンが笑う。

「おばさん、おっかしいー! だらしなーい輝にはテンが付いているから大丈夫です!」

 すると、輝のげんこつがテンを襲った。

「誰がだらしないんだ?」

 そのままテンの頭をぐりぐりすると、テンは輝の手を取ってかみついた。輝がテンから手を離すと、今度は、輝のその挙動におかしなものを感じた母が、輝をじっと見つめていた。

「どうしたの、輝? 緊張して熱でも?」

 そう言って、こちらに手を伸ばしてくる母に輝はごまかし笑いをした。

 そうだ、母にテンは見えないのだった。それを思い出した輝は、ごまかしのために立って笑って見せた。

「大丈夫だ、母さん! 俺はぴんぴんしてる! ちょっと緊張しているけどな!」

 そう言って乾いた笑いをしている輝を見て、テンが笑い転げた。内心、輝はかなり頭に来たが、母に心配をかけるよりは、ここを耐えるほうがずっとましだった。

「ところで輝」

 輝とテンがまじめにふざけていると、母が急に話題を変えた。

「町子ちゃんと、何かあったの?」

「何か、あったって?」

 輝には、母の言っていることがよく分からなかった。町子はいつもと変わらない。強気で、少し影があって、もろい部分もあって、でも、しっかり者で。

 しかし、母は輝が町子の異変に気が付いていないようなので、そのまま話を続けた。

「うーん、近頃、町子ちゃん、やけに大人に突っかかるのよ。彼女の伯父さんや伯母さんは別みたいだけど。私も、管理人のマルスさんやカリーヌさん、お友達の友子ちゃんや朝美ちゃんにも冷たいみたいなの。明日学校なのに、心配だわ。あなたには、何も言ってこない?」

「いや、なにも」

 そう言って、輝はどこかに何か違う空気を感じた。違和感というのとは違う。感じたのは空気だった。

 確かに町子のその行動はおかしい。大人に突っかかるというのも彼女らしくない。確かに、色々やりたいことを制約させられて行動してきた彼女は、やりたいことも言いたいこともいっぱいあるとは言っていた。しかし、そのことで大人を恨むような人間ではないはずだ。しかも、フォーラやアースには全くその矛先は向けられていない。何もかもがおかしかった。

 輝は、ふと、時計を見た。

 今はちょうど昼すぎの二時。みんなが集まってロビーでお茶をしながらいろいろ話し合いをする時間だった。

「母さん、その、町子は今どこにいるか分かるか?」

 輝の声が突然緊張を帯びた。

 戻す者として覚醒してから、輝は勘が良くなったのか、判断力が付いてきたのか、良く頭が回るようになってきた。芳江はその変化に驚いた。

「町子ちゃんなら街にお菓子の材料を買いに行ったわよ。もうすぐ帰ってくるはずだけど」

 その言葉を聞くなり、輝は部屋を出て階下に向かった。下では天使と悪魔がにらみ合いながらお茶をしている。とても和やかな雰囲気ではなかった。しかし、そこに花を添えるように漂ってくるお菓子の香りとお茶を淹れる音で皆、和んでしまっていた。

「今日はブルーベリーのパウンドケーキです。町子が帰ってきたら、今度はスコーン焼くからね。お茶は、きのう安売りで届いたばかりの、台湾茶。阿里山の冬摘みの残りだけど、香りも味も抜群よ!」

 友子がそう言ってテーブルの上にいい香りのケーキを置いた。焼きたては特に美味しい。皆は、朝美の手によってお茶が注がれるのを、今か今かと待った。

「私たちが毎日こうやっていられるのも、今日まで。あとは予定のない休日くらいなものよ。こうしている間にも毎日英語の勉強勉強。参ったわ。でも、それも今日まで。明日からは実践だからね!」

 そう言って、朝美はガッツポーズをとった。

 その時、突然そこにいた人間たちの中に輝が飛び込んできた。皆はびっくりして、輝のほうを一斉に見た。

「町子を見なかったか?」

 そう問う輝に、皆は首を振った。

「まだ帰ってきてないよ」

 朝美は、そう言ってあたりをきょろきょろと確認した。

「帰ってきたら、友子がスコーン作っているもん。今日は抹茶なんだよ。輝君も食べてく? どうせ町子待ちならここにいたほうが確実だよ」

 輝は、その言葉に甘えることにした。すると、輝の分のお茶とお菓子を友子が持ってきてくれた。焼きたてのパウンドケーキは美味しかった。ふわりとしていて、きつね色の焼き色がなんともきれいだった。薫り高い台湾の烏龍茶も、ケーキとの相性は抜群で、何回もお代わりを頼んでしまった。

 お茶を楽しんでいると、上の階からアースとフォーラが降りてきた。仕事に行くのだろうか、きちんとしたスーツを着込んでいる。どこへ行くのかと聞くと、このあたりには病院がないので病人のいる家を一軒一軒回って診察するのだという。

 二人が出ていくと、入れ違いに町子が帰ってきた。大きな袋を抱えていて、それを友子に渡すと大きく背伸びをした。

「楽しみにしてるね、友子のスコーン」

 そう言って、町子は輝と向かい合うように、アイリーンの横に座った。その際、ちらりと輝のほうを見たが、すぐに視線を逸らしてしまった。

「町子」

 友子と朝美がスコーンを焼くために台所に下がると、輝は町子に話しかけてみた。少し、緊張する。なぜだろう。いままでこんなに緊張したことなどなかったのに。

「なに、輝。用なら早めに済ませてね」

 町子の答えはそっけなかった。なんとなく予想はしていたが、いざ聞いてみると少し、ショックだった。そんな輝の気持ちを踏んでか、サタンのクローディアが無表情ではあるが輝に加勢した。

「町子、ここはお茶の席よ。無駄話も必要な会話。用だけ済ませて、というのはいささか無粋ではないかしら? もし、用件しか聞かない、話さないのなら、あなたにスコーンを食べる資格はないわ。楽しい席を無駄にするなら自分の部屋に戻りなさいな」

 クローディアの言い方はきつかったが、そこにいる誰もが納得した。楽しくないお茶会などやっても仕方がない。今回の席は、カリムがクローディアやアイリーンに慣れるためにカリーヌが用意した席だった。もとより、悪魔二人は楽しい時間を過ごすつもりでいたのだから。

 クローディアの言葉に、町子は苛立ちをあらわにした。突然立ち上がると、何も言わずに自分の部屋に入っていってしまった。

「あの子、どうしたのかしら? 最近みんなに突っかかっているし、なんか感じ悪いわね」

 カリーヌが、お茶を飲みながら、町子の部屋の方向を見た。なんらかのマイナスの力が働いたのかとも思ったが、そんなものは感じられなかった。第一、そのマイナスの力の根源は二人ともここにいる。そして、二人とも町子に対して何も起こしてはいなかった。

 カリーヌの動きを見てとった輝は、町子を追うために席を立った。しかし、その服の裾をカリムに引っ張られてもう一度座りなおした。

「放っておけ。俺ら天使にも原因は分からないんだ。あとで地球のシリンにでも聞いてみるさ。お前は俺たちとお茶でもして、明日の準備を終わらせて眠ればいい。分かったな」

 カリムの言葉に、輝は頷くしかなかった。アースが帰ってくるのはいつだろうか。こんな気分のままで学校に行くのは避けたかった。原因が分かるのならば、知りたかった。

「分かった。明日の学校のほうが、今は大事だもんな」

 輝は、カリムにお茶を勧められると、それを口に運んだ。

 そして、お茶が終わると皆は解散し、輝は部屋に戻って、ふたたびテンとともに荷物のチェックを再開した。アースとフォーラは、夜になっても帰ってこなかった。仕事が忙しいのだろう。町子はあれ以来夕食にも顔を出さずに部屋に籠っていた。輝にはもう、何もできなかった。少しずつ変化していく町子についていけないまま、輝は次の日の朝を迎えた。

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