第7話 学校
七、学校
厳しい冬の夜、鏡のようになったガラス窓はカタカタと音を立てて外の吹雪から部屋の暖かさを守っていた。
いまだ薄らいだ意識の中、それがようやく分かるようになってきた。一体何があってこんなことになったのだろう、よく分からない。
ただ、体に刻まれた恐ろしい記憶と、誰かに助けを求めなければならないほどに追い詰められた自分の心がすべてを支配していた。体は言うことを聞いてくれなかった。ひどい熱と痛みにうなされている。本当に、何があったのだろうか。このまま忘れていたほうがいいのだろうか。思い出せば、きっと恐ろしいことがずるずると引きずり出されてしまうだろう。熱と痛みにさいなまれる体の中で、心だけが安心していた。もう、恐ろしいことは終わったのだ。そう告げる声が何度も頭の中に響いていた。
視力は半分ほど戻っただろうか。ぼんやりと部屋の様子が見て取れた。目の前には誰かがいる。その誰かの手が伸びてきて、自分の額に触れた。その冷えた手が熱を吸い込み、心地よい感触と安心を体に伝えて行った。その手は黒い髪を丁寧に梳いて、離れた。
「今は、全てを忘れて休むといい」
聞いたことのある声が、そう告げた。
ここは大丈夫、だから安心していい。そう聞こえたので、そのまま意識を落としていく。
額に触れたその手を、その手の主はじっと見つめた。静かに部屋を出ると、戸を閉めて、外にいた誰かと交代して去って行った。
何も言わずに、去って行った。
そのあと、どうなったのかは分からない。ただ、何かがあった。それだけは分かっていた。意識を落としていくまでの間、体の節々が痛んだ。今までなかった痛みが加わっていた。確か、だいぶ体は回復してきていたはずだ。なのに、また、こんなことになっている。そして、手首や足首がひりひりと痛み、新しく巻かれた包帯が、手首の動きを阻んでいた。体はいまだに動かない。動かす力さえ出てこなかった。目を閉じると、ほぐれた不安と緊張のせいで、大きな安心が訪れた。何があったのか、自分はどうしてしまったのか、思い出せないが、思い出さないほうがいいのだろう。
そのまま意識を落としていって、気づくと眠っていた。
そんな、夢を見た。
朝陽が窓から差し込んでくる。誰がカーテンを開けたのだろう。自分で開けた覚えはない。起き上がると、両手がしびれていた。頭も重かった。この夢を見て目が覚めるのは何度目だろうか。嫌な夢であるはずなのに、冷や汗一つかかずに必ず目覚める。
誰かが、部屋のドアを三回ノックした。入ってきたのは、フォーラだった。
「またあの夢?」
フォーラはまだ寝間着のままだった。大きな胸がこちらに寄ってくる。顔より先に寄ってくるその胸は、目覚めたばかりで熱っぽい体に触れると、柔らかく形を変えた。
「アース」
フォーラは、アースの名を呼んで、その手を顔に持っていった。親指が唇に触れて、次にはフォーラの唇がアースの唇に重なった。フォーラのキスは暖かく情熱的で、今まで感じていた違和感を削ぎ、どこかへ流してくれた。心地よい安心感が体を満たす。二人はそのままベッドに倒れこんだ。フォーラはまだしびれたままのアースの手を握りしめて、顔を離した。両手を握ったまま、フォーラはベッドから腰を浮かせて、アースの上に覆いかぶさる。
「失った記憶は取り戻すことができる。あなたがまだ取り戻していない、唯一の記憶」
フォーラは、そう言って目を伏せた。少し、悲しげな瞳がアースを見る。
「取り戻したい?」
それは、つぶやくような声だった。アースは視線をベッドの布団の上に落とした。フォーラのあの瞳を見ていると、慰めたくなってしまう。あの悲しい瞳を見ていると、彼女の手を振り払って、いまにも流れてきそうな涙をすくい取りたくなる。そして、大丈夫、そう一言言って自分を安心させていくのだ。
「いまはまだ、こうしていて。記憶は、そのままに」
フォーラは、そう言ってふたたびベッドの中に横たわった。フォーラの体は熱を持っていた。その微熱が、彼女の中にある記憶を呼び覚ましていた。細い指が胸を這い、首に触れ、頬を覆った。フォーラはそのままアースの胸の中に顔をうずめた。
少しの間、不安に似た何かに支配されながらも、心地よいぬくもりを感じられる時間が流れた。
アースは、動きを止めたままだった。あの日、あの時何が起きたのか。あの夢の意味は何なのか。それが知りたかった。フォーラと出会って間もない時期に起きた事件。あれを機にいろいろなものが変化していった。
「フォーラ」
アースは、自分の頬に触れるフォーラの手を握った。すこし、冷たい。
「見たのか」
アースが問うと、フォーラは静かに頷いた。
今まで見たフォーラの顔は、それを意味していた。つまり、キオクビトである火星のシリンが保持しているアースの『失われた記憶』を、見てしまったのだ。
「そうか」
アースは、ため息をついて体の力を抜いた。フォーラが積極的に攻めてきた理由が分かった気がする。彼女には耐えがたい記憶だったのだろう。マルス・クレインがアースに記憶を返さないのもそのせいなのだから。
アースは、いったん抜いた体の力を入れなおした。フォーラの金色の髪を撫で、手を握り、ベッドから起き上がった。
「フォーラ、俺たちが出会った日のことを覚えているか」
アースの行動に少し驚いた様子のフォーラは、少し笑って、頷いた。
「あなたの名前に驚いたわ。それに、あなたと別れるまでそこが暁の星だって、理解できなかった。英語圏だったから」
「そうだったな」
アースは、そう言って微笑んだ。フォーラはそれを見て、頬を赤らめた。とがめられるかと怖がっていた自分が恥ずかしかった。
フォーラは、そそくさとベッドから降り、着衣を整えた。あの記憶を見てからというもの、何もかもが怖かった。アースを失うのではないかとも思った。もちろん、そんなことがあるはずないのだが、不思議と恐ろしさだけが湧き出てきていた。それが怖くて、消えてしまいそうなものを掴んでおきたくて、アースのもとへ来た。しかし、彼はそれさえも受け止めてくれた。
「ごめんなさい。こんなに恐ろしいものだったなんて」
フォーラは、そう考えているうちに、自分の目から涙があふれてくるのを感じた。じわりじわりと目を覆い、それはあふれ出してきた。
「ごめんなさい」
フォーラは、震える声でアースに謝った。
そんなフォーラの腕を、アースは優しく握りしめ、彼女を体ごと自分のほうへ寄せた。
そして、泣きじゃくる彼女を優しく抱いて口づけをした。フォーラの涙は止まらなかった。キスが終わると、フォーラはアースの胸に再び顔をうずめて泣いた。
「怖かったな」
そう言って、アースはフォーラを慰めながら、柔らかい金の髪を撫でた。フォーラは、抱かれるままに、身をゆだねて不安を吐き出した。あの光景はもう見るまい。そう誓った。フォーラは、暖かい手にすくわれて、ようやく立っていた。でなければ、崩れ落ちてしまいそうだった。
そんなフォーラの様子を見て、アースは心に誓った。
およそ自分の力の届く範囲であれば、守れるものは守ろう。そして、自分のような悲劇が二度と起きないようにしようと。
そして、目の前にいるフォーラを、全力で守っていこうと。
「キオクビト」
だいぶ落ち着いてきたフォーラの背中を、アースはさすった。すると、彼女は涙を拭いて微笑んだ。彼女にこんな思いをさせたマルスを、アースはどうにかしなければならなかった。記憶を取り戻すのなら自分に戻せばいい。もともとアースの記憶なのだから。
「マルス・クレイン、これは、高くつくぞ」
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