月の光
定時上がりで帰りに適当なつまみと酒を買う。ビールでも良かったが私にはまだ美酒とは程遠い苦労の味がするため、飲みやすく甘美なカクテルにすることにした。つまみは酒に合わせるというよりは自分が好きなものを選んだ。缶を二つ、つまみは一袋、コンビニの外に出ればズボンの上からでもわかる冷たさが心地よかった。
夏の田舎の夜はとても冷える。黄昏が連れ去ろうとする熱を手放さないように目を細めて拒絶した。私の中の熱をあの熱は連れ去ろうと触れてくる。逃れるようにして影に逃げ込む。あの美しさの前ではすべてが影になる。どこか退廃を携えたその色香はどうしてか心を落ち着けて悟らせようとしてくる。まさしく解脱を促すような――。
そんなことを考えながら歩いていくと諦めたかのように群青が滲み始めた。その光はとても落ち着く色合いを兼ねて生き物を祝福する。外灯もぽつり、灯を灯して項垂れる。無骨に照らされる海沿いの道には潮騒が霧散し反響する。
夜と出会ったあの場所に辿り着き腰を下ろす。
最初の缶を開ける。小気味良い音が潮を散らしてまた飲み込まれる。
瑞々しさが喉を潤す。
夜はまだまだ出てきそうにない。早いもので二本目を開けて飲み始めていた。つまみも半分ほど無くなっていた。蟻が隣を歩いて行ったり、時折吹く風が程よく心地いい。一応の為に薄手のカーディガンのようなものは持ってきていたから夜が更けても問題はない。
夜も更けてきた。月が水面に浮かび上がり揺れていた。割れては戻り、また割れては戻り。月の光は壁に反射し白波に、夜の帳はすべてを曖昧にしていく。何ともなしにぼうっと月を眺めていれば隣にいつしか光の粒があった。
「遅いじゃないか」
「お前が早いんだ」
「知ったことか。まあ大成功だったよ」
「それは何よりだ。上手くやったようだな」
「ああ、ありがとう」
その後、数巡潮騒が訪ねて私から口を開いた。
「それにしても、どうしてお前はおれのことがわかったんだ」
「簡単だ。おれが”夜”だからだ」
「どういう意味だ」
「話すのが面倒だがそれでもかまわないか」
「酒があればな」
返答はなく夜はぽつりぽつりと一言。
「お前たちのことをどうしてわかるかと言えば、お前たちが夜の生き物だからだ」
その一言にすべてが刹那鳴りやんだ。
あの心地よい潮騒も後ろでそれを真似る木々の音も、自分の呼吸さえも。
引きずり込まれそうになりながらも言葉にする。
「どういうことだ」
「まずはそこからだな」
元通りの世界で夜はもう一度語り始めた。
「お前たちを夜の生き物だと言ったのは、それ以外に言いようがないからだ。何故夜の生き物かと言えば、お前たちはどの時間であってもどこかに闇を抱えているからだ」
「それは影というものか」
「そうだ。日が昇ればお前たちは影をつくりそこに逃げ込む。黄昏になればお前たちは連れて行かれそうになるのを目を細め、拒絶して影をつくる。夜になれば影は消え去り自身が夜に還る」
「だから夜の生き物というわけか」
「もちろん人間だけではなく、この地球上すべての生き物がだ。植物も例外ではない」
随分と壮大な話だ。それこそ夜のようだ。
「するとお前はやはり夜なのか」
「ああそうだ」
なぜか夜と話す内容はどれほど訝しいものでも素直に頷けた。
「随分と壮大な物語だな」
「物語は常に気まぐれと偶然の逢瀬だ」
「それは実に迷惑なことで」
心地よい酔いに身を任せつつ夜と言葉を交わす。
「だが、そんなお前はどうして存在するのだ」
「それはお前がよく知っているはずだ」
「お前はおれといったオチではなかろうな」
「もちろんそうではない。ただの気まぐれと偶然だ」
「随分と奇怪な赤子だな」
「なにもおれがどうというのが重要なのではない。お前がどうというのかだけが問題なのだ」
「どういうことだ」
「あくまでおれは夜なのだ。どのような忠言をしようとそれをどうするかはお前なのだ。どのように世界をみるかも、どのように生きていくかも」
「なるほど」
この存在相手はとても面白い。今まで見えなかった世界が見えてくる。夜に目が慣れてきたようだ。
「そういえば一つ聞きたい」
一つ聞いておかなければならない。
「お前はどういった条件でここに現れるのだ」
割れた月から現れた夜。私が酔っているときにしか見たことがない。
「言ったではないか。ただの気まぐれと偶然だ」
「ああそうかい」
「次に会えるとしたらいつになるかなあ」
珍しくそんなことを言う夜だったが、おそらく私の内心を読んでいるのだろう。
「人の心を読むでない」
そう言って私は手元にあったつまみと中身の入った飲みかけを夜めがけて投げつけた。月は粉々に砕けて夜を隠していく。
そうして波が落ち着いたとき、夜は消えていた。
少し短気過ぎたかと思ったが、構わないと歩みを進めた。空き缶とつまみの袋を入れたレジ袋をふわふわと引き連れて帰路につく。
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