#1 幻影復讐 -7- 光の槍

 始まりが何だったかと言えば、お母さんが知らない男との人と一緒に家を出て行った時だろうか。

 幼かったとはいえ、もう小学生だった私には、両親の関係がどういうことだったのかは十分理解できていた。だから、お父さんの異常は仕方がないのだ。

 深酒や無気力感に呑まれて堕落していくお父さんの姿を傍で見ながら、私はお父さんを守ってあげたいと思った。だから、身の回りのことは何でもやってあげた。何でもできるように、頑張った。

 まだ始めの頃はお父さんも私に気を遣われたことが分かったみたいで、冷静になった時は済まないな、とか。ありがとう、とか。ごめんな、とか。そんな言葉をくれた。私は「いいよ。早く元気になってね」と笑った。笑っていられた。

 そうして私たち親子は生活してきた。少しずつ、お父さんは元気になっていった。仕事も普通に行けるようになった。だけど、やっぱりお酒は止められなかったみたいで、たまにそれで少し荒れてしまうこともあった。

 それは仕方がないことだ。事実として、お父さんは愛していたお母さんに裏切られたのだから。可哀そうなお父さん。だからこそ、私だけはお父さんのことを大好きでいてあげようと思った。私だけは、絶対に裏切らないからね、と。


 だけれど、裏切ったのはお父さんの方だった。

 私が高校生になってすぐ。私が学校から帰ると、既にお父さんが帰ってきていた。そういえば、今日は朝早くに出る日だったから、帰りが早いんだった。私のただいまの声に応えたお父さんの声には、既に酒気が多く含まれていた。もう飲んでるの、と小言を口にしながら既に夕方を過ぎて夜になろうとしていた為、私は晩御飯の準備を始める。すると、キッチンに立つ私の背後に人の立つ気配があった。

 振り返ろうとしたが、私は気付けば床に転がっていた。

 ……?何が起きた、と考えようとするものの側頭部の痛みに思考を遮られる。痛みを堪えながら目を開けると、拳を握りしめたまま立っているお父さんの姿が映った。どうやら私は、後ろからお父さんに殴り倒されたらしい。

 お父さんは、私を殴った腕も含め全身が小刻みに震えていた。その表情は怒りとも悲しみともとれぬものだったが、その目尻には涙が浮かんでいた。それから、私が痛みのために動けないままでいると、お父さんは何事か喚き始めた。

 始めこそ「どうして俺を裏切った」「許さない」といった恨み節や怒りの感情の吐露だったが、次第に「捨てないでくれ」「お願いだから」と、哀願するようなものに変わっていった。そして、一頻り涙声の言葉が止んだと思った瞬間、私は再び身体に鈍痛を受ける。お父さんはまた、怒りのこもった言葉を吐き捨てながら、私の身体に蹴りを入れていたのだ。

 苦痛に身を捩りながら私は、お父さんから強い酒気を感じ取る。そうか、お酒のせいだ。酒のせいでお父さんが荒れる姿は何度も目にしている。それ自体は慣れっこだった。

 でも、どうして私はこんな暴力を受けているのだろう。私はわけがわからないまま、サンドバッグに徹することになった。言葉は苦しさとショックから、出てこなかった。

 次に私が気付いたのは、自分のベッドの上だった。傍らに目を向けると、泣きはらした顔のお父さんが立っていた。既に、そこから酒気は感じない。

 私の目が覚めたことに気付いたお父さんは、急に私を抱きしめて泣き始めた。「済まなかった」「許してくれ」。そんな言葉を交えながら、延々お父さんは泣き続けた。大人の男の人がこんな風に泣くのを見るのは初めてだったから、私は何も言えずにいた。すると、お父さんは信じられない言葉を口にした。「許してくれ、xxx」と。

 xxx。それはお母さんの名前だった。今となっては思い出したくもない名前。私とお父さんを捨てて出て行った、裏切り者。お父さんは、お母さんに捨てられた哀しみをずっと引き摺って、そして、壊れてしまったんだ。

 私はお父さんがそのまま泣き疲れて眠りに付くまで、呆然とベッドに横たわったまま動けなかった。

 その後、私はシャワーを浴びるために服を脱ぐ。風呂場の鏡に映った身体には、殴られ、蹴られた痕が残っている。……夢じゃなかった。

 胸の内にあるもやもやとした思いを洗い流そうと、私は頭から熱湯を浴びる。ふと、鏡の中の自分の顔に目がいった。そこで私は、息が詰まるかのような感覚に襲われる。そこに映っていた自分の顔。

 それがどうしようもないほどに、思い出の中にあるお母さんの顔と瓜二つだったからだ。

 お父さんがさっき私をお母さんの名で呼んだ理由が分かった。お父さんは私を見る度に、お母さんを思い出して苦しんでいたのだ。そして、ついにお父さんは分からなくなってしまったんだ。私が娘なのか、妻なのか。

 その日振るわれた暴力が決定的なものだったのだろう。度々、お父さんは私を殴ったり蹴ったりするようになった。それは決まってお酒が入ってからだったが、私にお父さんからお酒を取り上げることはできなかった。お酒は、お母さんに捨てられたお父さんが縋ったものだったから。

 そしてついに、お父さんは一線を越えた。私をお母さんと誤認したまま、私を無理やり押し倒したのだ。さしもの私も抵抗したのだが、成人男性に組み敷かれてそこから逃げられる十代の女の子なんて殆どいないだろう。まして、相手は実の父親なのだから、危害を加える手も止まる。相手はこちらに危害を加えているというのに。結局、私は純潔を実父の手で散らされることになった。その最中のことを、私は覚えていない。ただ、その時に生まれた一つの感情が私を支配するようになった。

 お父さんは、私の愛を裏切ったのだ。という絶望。

 お父さんは、私など見ていなかった。面立ちが瓜二つな私を通して、自分を捨てた女を浅ましく追い求めていたに過ぎないのだ。

 それがこの憎悪の始まりの出来事。

 私が信じていたお父さんはもういない。もうこの家にあるのは、私を裏切った壊れた男だけ。だったら、私が徹底的に歪め壊してあげようと思った。

 私自身が歪み壊された故に。




 茉季の言葉は、結以の視点で語られた。

 「結以の思骸が私の中に入ってきた時、結以の感情とそれに関わる記憶が全部、私の中に共有されたんです。だから、私は結以の心情を一字の違い無く知っています。結以の絶望、失望、怒り、憎しみ……それらは全部、もう私の感情と言っても間違いはありません」

 だから、

 「許せないと思ったんです。結以を壊した人を絶対に生かしておくわけにはいかない、って」

 そして、茉季は目にいっぱいの涙を浮かべると、俯いて肩を震わせて泣き始めた。

 「……君が思骸の憎しみに応えた理由は分かったよ。だが、それは」

 許されないことだと、千里は再三の言葉を紡ぐ。

 「思骸になってまで最上の苦しみを相手に与えようとする。それだけの気概をもっていながら、どうして誰かに助けを求めることができなかった?伊東結以……君の近くには居たはずだ。君のために人殺しに加担までしようとする、親友が」

 千里の言葉はしかし、沢山の憎悪の情念を起源に持つ思骸を取り込み、もはやただの怨嗟の声そのものとなってしまった結以には届かない。今もなお、父親が苦しみぬいた末に壊れ死ぬことだけを望んでいる。

 「現実は歪めさせない。そして、俺は君をその憎しみから解放する。その為に、俺はここに来た」

 茉季の後ろで揺蕩う巨大な黒い靄へ向けて、千里は右手をかざす。茉季はもう抵抗しない。

 「千里さん……あなたには、それができるんですか?もう、絶望しかない結以に、苦しみ以外の、本当の終わりを与えることが……」

 伊東結以と同調した彼女は、その歪んだ望みの成就には同意したものの、本来の閑茉季としての心ではそんな憎しみに狂った親友を止めたいと感じていたのだ。千里は「ああ」と短く応え、かざす右手に力を込める。

 「もう、終わりにしよう」

 「……!?だめ、結以ッ!!」

 千里の掌から光の槍が放たれようとした瞬間、それまでゆらゆらと揺れているだけだった思骸が一気に弾け飛んだ。四方に散った思骸はやがて渦を巻くような動きでまた一つの集まろうとする。そしてその中心には黒い靄による人型が浮かび上がった。

 茉季が静止の声を上げたのは何故か、千里はその人型を見て理解する。視界に入れただけで、その禍々しさから目眩を起こしそうになるほどの憎悪。おそらくこれが、伊東結以の思骸の核だ。

 千里はすかさず掌をその核へ向けるが、次の瞬間には部屋の外へと弾き出されていた。

 「が……ッ!」

 茉季に壁に叩きつけられた時とは段違いの衝撃を受け、千里はまともに呼吸することができずに短い呻きを上げてのたうつ。

 「結以、やめて!もう……やめよう。やっぱり、間違って……きゃああっ!?」

 茉季は、突然ふわりと自分の身体が浮き上がったことで悲鳴を上げる。茉季の中に同調している結以の思骸の仕業か。苦痛に霞む視界。千里は何とか立ち上がる。

 「茉季ちゃん!」

 「こ、来ないで下さい!!結以は、私を取り込もうとしています。私の中の結以が、もう一つの結以と一つになろうとしている……。近付けば、千里さんも巻き込まれちゃいます!」

 馬鹿、どうして逃げない。叫ぼうとするが、痛みのせいで声が出ない。

 「これは罰なんです。親友なのに、間違ったことをしようとしている結以を止めなかった私への罰……。結以は私を取り込んで、完全に乗っ取ろうとしています。そうなったらすいません。お願いしますね、千里さん」

 茉季は、自分の中に自分ではない別のものが入り込んでくる感覚を感じながら、千里に向けて頭を下げた。その動作で、涙が零れ、床にはねた。


 裏切った。裏切ったな。

 殺すと言った。誓った。あの男を共にあらん限りの苦痛をもって歪めて破滅させると。

 許せないと。私を裏切ったあの男に復讐すると。

 なのに、なのになのになのになのに。

 わけのわからない男の言葉で「やっぱりやめよう」?

 ふざけるなフザケルナ巫山戯るな。

 お前も私の信頼を裏切るのか。それでもお前は親友か?

 許さない、許さないぞ。

 呪う。憎む。怨む。狂わす。壊す。殺す。歪めてやる。

 

 頭の中で響く、入り込んできた思骸の声を聞きながら閑茉季は目を閉じる。

 そうだ。裏切ったことに変わりはない。だから私がここで終わるのは、当然の結果だ。そもそも、自分は人を殺そうとしていたのだから。

 怨嗟の声は鳴り止まない。街中の負の感情が起源の思骸をここに集めた。その憎悪の情念は結以の思骸を核に混ぜ合わさり、この巨大な思骸を形成している。この繰り言のように響く恨み言も、もう結以のものなのか、それとも別の思骸のものなのか。内に結以の思骸を宿している茉季にも分からなくなっていた。

 極大の歪みを憎悪と共に吐き出しながら、思骸の伊東結以は茉季の身体を飲み込もうとする。その身体を完全に奪い、現実に干渉する手段を得るつもりなのだ。

 「いや、罰を受けるのは君だけじゃないはずだ」

 茉季が不意に近くから聞こえた声に目を開ける。すると、右手を茉季へ、左手を結以の方へ向けて二人の間に立つ千里が居た。

 「何を……!?こんなに近くにいたら、千里さんも巻き込まれ……」

 「大丈夫だ。それよりも、君はさっき、これは罰だと言った。親友を止められなかった罰だと。それは確かにそうかも知れない。だが、そもそも最初に君を裏切ったものが存在する。」

 そう。閑茉季に罰が下るのだとしたら、彼女にも同じく罰を下さなければならないだろう。

 「伊東結以……君は父親の裏切りを許さないつもりらしいが、君こそ重大な裏切りを犯していることに気付いていないようだな。さっきも言ったが、君の近くには君のために行動してくれる親友がいたはずだ!君の……お前の裏切りは、その親友に断りもなく自分勝手に命を絶ったこと。あまつさえ、その親友を復讐の道具の一つにしようとしたことだ!!そんなお前に、彼女の親友たる資格などありはしないッ!!」

 千里の左手が光る。瞬間、黒い靄が一気に霧散した。茉季が未だ自分に向けられたままの千里の右手の隙間越しに見ると、相対していた思骸の核。人型を形作っていた黒い靄のちょうど心臓部分にぽっかりと掌大の穴が開いている。千里が光の槍で穿ったのだ。

 直後、動きを止めた思骸が今まで以上に大きく揺らめく。すると、次の瞬きをする間に、そこにはまるで初めから何も無かったかのように何もかもが消え去ってしまっていた。思骸に持ち上げられていた茉季の身体もその思骸が立ち消えたことで無くなり、茉季はそのままの勢いで床にぺたりと座り込んだ。

 複数の思骸を寄せ集めて創り出された巨大な思骸であったが、その核を失ったことで互いの接合力を失い、元の一つの思骸に戻って散っていったようだ。実際、彼が撃ち抜いた自覚を持っているのは中核になっていた結以の思骸のみだった。

 「ふぅ……」

 両の掌を見つめながら、千里がため息をつく。思骸を撃った後はいつも複雑な思いで胸が埋め尽くされる。

 彼の手から放たれる光の槍。それは幼い頃から思骸を見てきた千里が高校生の時に発露した能力である。その槍は、問答無用で貫いた思骸を消し去る性質を持ち、思骸の歪みによって現実を侵食されたものを救う唯一の方法の一つだ。この光の槍以外に思骸へと干渉する手段は無い。霧ヶ峰が「千里にしか解決できない」とする真の理由が、この力だった。

 死骸による現実の歪みを是としない千里にとって、この力は強い味方だと言える。しかし、千里はその行為が現実の理を守る為ということだけでなく、同時に人の思い――それも死の間際、思骸として世界に焼き付けるほどの強い思いを無残に消し去る無慈悲な行いだとも感じていた。

 思骸の起源は、他者への憎悪の感情だけではない。誰かを思い遣る気持ちを起源にするものも存在する。

 だがそれでも、現実の理を歪めるのなら、自分の力で消し去る。千里はその覚悟を持ちながらも、やはり実際に手を下した時はどうしても考えてしまうのだった。

 それは千里が思いというものを人一倍、尊いものだと感じているが故。


 「……」

 だから、憎しみに狂った感情のみの姿とはいえ、親友を目の前で消してしまったことをどう謝ったらいいのか。千里は言葉を出せずにいた。

 座り込み、身体を折ってうずくまったまま茉季は動かない。きっと泣いているのだろう。二度も目の前で親友を失ったのだ。


 茉季を裏切った結以は、千里の手によって罰が下された。

 だが、一方で茉季が抱える罪には、罰が下されないまま。


 箕島千里は、死者の思いを処断することはできても、遺された人の思い、感情に対してはどうすることもできなかった。

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