#1 幻影復讐 -6- 自己満足
ガタガタと音を立てて、玄関の引き戸が開かれる。築四十年か五十年だか。とにかく現在の家主の祖父の代に建てられたというその家には、至るところに老朽化の兆しがあった。この立て付けの悪い玄関扉もその一つだ。
時刻は午後八時半を回った頃。日が長い夏とはいえ、既に周囲は暗闇に包まれていた。扉を開けて家に入ってきた人影は、そのまま腰を曲げた状態でごそごそと動く。履物を脱ぐ動作だ。程なくして、その物音はぎしりという床を踏む音に変わる。
床を踏む音は廊下をそのまま奥の方へと進んでいき、やがて一つの部屋の前で止まる。玄関と同じく引き戸で閉じられたその部屋は、今はもうその主を喪った部屋だ。
ガラリ、と戸が開かれる。途端に、その場の空気が一気に冷え込む。開け放たれた部屋の冷房器具は動いていない。だが、そこは真夏には異様なほど冷え切っており、確かな異常性を顕している。
――斯くして、その部屋の中に扉を開けた人影の求めるものは存在した。
これは、思骸の影響だ。
思骸によって歪められた現実が其処にあった。この冷気が示すもの。それは紛れもない殺意。人を憎み、怨み、呪い、殺す意思の現れ。すなわち、この思骸は――
「女の子の部屋にノック無しで入るなんて、マナーがなってないわね」
突如、人影の背後から声がする。驚いて人影が振り返ると、そこには小柄で髪を短く切り揃えた少女、閑茉季が立っていた。いや、今の彼女の状態を考えれば、ここに居るのは茉季ではなく伊東結以。――この部屋の主だ。
「こちらの動きは予想済みだったわけか」
人影……千里が観念したかのように両手を上げてみせる。
「あなたがお父さんに会ってしまったのなら、全てに気付かれるだろうと思ったから」
「そうか。では、俺の予想通りということで間違いないんだな」
結以は答えない。だが、その沈黙こそが千里の言う予想が的中しているという証明でもあった。
「邪魔は、させない」
窓から差し込む月明かりに照らされた結以は、今まで千里が見たことのない、余裕のない表情を浮かべている。一方で対する千里は、どこまでも冷静な顔だった。
「なあ、そろそろやめにしたらどうだ。無理はするものじゃない。もちろんこれは、君の計画そのものに対する言葉でもある」
静かな暗闇の中で、ギリ、と歯を噛み締める音がする。
そう、この場において伊東結以は自身が抱える全ての謎を曝け出されていた。余裕がないのも無理からぬ話である。それはすなわち、彼女の目的の瓦解を意味するからだ。
(やはり、か)
千里の推理は数時間前、結以の父との会話までに遡る……。
立ち去ろうとする結以の父を引き止めた千里は、それから閑の碧の住所を伝え、今夜はこちらが呼ぶまでそこで待つように説得した。結以の父はいきなり見ず知らずの男にそんなことを言われてわけがわからない様子だったが、千里がその間の飲食代を全て自分にツケてくれて構わないと言ったことで、千里の願いを快諾する。
「本当にいいのか?遠慮なんてしねえぞ」
「構わない。ただ、その前に改めて聞かせて欲しい。あんた……」
千里の質問に、結以の父の顔から、愛想笑いが消えた。
「君のお父さんは、君を恐れていた。普通、自殺したはずの一人娘が目の前に現れたんなら、駆け寄ってきそうなものだ」
だが、結以の父が現実に見せた反応は正反対のもの。驚愕、そして……
「恐怖。彼は慄き逃げ出した。これはおかしい。だから、俺は改めて問い質したんだよ」
"どうして"逃げ出したんだ、と。
「アイツが死んでから、家に居るとずっと聞こえてくンだよ……。『許さない』『殺してやる』って、なァ」
「その言葉を聞いて、俺は一つの仮説に至った。俺は勘違いをさせられている、と」
結以の父は娘を失ったショックで衰弱していたわけではない。彼は、思骸の影響で弱っているのではないか?
そう思い至った瞬間、千里の目が結以の父から微弱な思骸の気配を感じ取り、仮説が事実へと変わる。
「そして、俺が抱かされた勘違い。それは、伊東結以の思骸の行方だ。閑茉季の身体に宿っている?いや、そもそもそれが間違っていたんだ。前例が無かったからな。すっかり思い込まされていた。君は……巧くやったよ。閑茉季、ちゃん」
そう言って、千里は結以を……閑茉季を見る。
「正直に言えば、当然最初からその可能性は疑ってはいた。だけど、俺の信条として自分の知らない事も否定せず受け入れる、というのがある。まあ、思骸なんてものを見てきたからなんだが……。とにかく、俺は何でも頭ごなしに否定をしない。だから、君の演技と噛み合った。俺は伊東結以の思骸が君の身体にある前提で物事を見ていた。見せられていた」
それが、この家にあるものから目を逸らすカモフラージュだった。
黙ったままの茉季に背を向け、千里が結以の部屋の方に視線を向ける。そこには先程から激しいまでの冷気を発生させている元凶が鎮座していた。
千里の目に映るのは、六畳ほどの部屋を埋め尽くさんばかりの、巨大な黒い靄。思骸だ。それも、ただの思骸ではない。未だかつて千里が感じたことのないほどの強い情念を感じる。その強力な感情が、現実に冷気という形で影響を与えていた。そして影響を与えていたのは寒さだけなどでは決して無い。それは、結以の父の体調。人一人を衰弱死させんと現実を歪め続けているどす黒い怨念の塊こそがこの思骸だった。そして、この思骸の正体こそ、伊東結以の死の間際に抱いた思いなのだ。
「だけど、駄目だ。最初にも言っただろう。死者が生者の世界を歪めることは許さない、と」
「じゃあ、どうするって言うの……?」
漸く口を開いた茉季だったが、その声色は緊張で張り詰めている。
(なるほど、お互いに未知数というわけか……)
結以の思骸の真実を暴いた千里であったが、依然として残る疑問があった。それは、閑茉季からも確かに思骸の気配を感じていることだ。今、目の前にある巨大な思骸が伊東結以のものであることは、茉季の余裕の無い態度からして間違いないだろう。そうなれば、まさしく今まで千里が伊東結以として接していたのは結以を演じる茉季だったということになる。しかし、だとすれば何故茉季から思骸の気配を感じるのか。そもそも、千里が茉季を見て「閑茉季ではない」と言ったのは、その気配が理由なのだ。茉季の演技を看破しておきながら、この疑問に対して千里は答えを見出だせずにいた。千里の対峙者に対する未知はこの点にある。
一方の茉季も同様だった。彼女もまた、千里に未知を見ている。見るだけで震え上がりそうな禍々しい思骸を前にして、千里は身震いすらしないどころか顔色一つ変えていない。いくら千里が生まれながらにして思骸を見てきたとは言え、今ここにある思骸が常軌を逸した存在であることは、茉季自身がよく理解していた。
(だってこれは、私たちが創り上げた――)
思考が巡り、一瞬疎かになった視界の端に、千里が右の掌を思骸へ向けるのが映る。茉季は直感で理解する。"あの右手はまずい"。茉季は思い切り、千里へ体当たりをする。
不意の突進にバランスを崩した千里だったが、その体格差ゆえ数歩つんのめるだけで踏みとどまる。もっとも、茉季のとっさの危機回避は成功していた。
千里の体勢が崩れたことで、彼の右の掌は床の方を向かされていた。茉季は千里の身体にもたれ掛かっているような体勢になっていたが、顔を上げてその行方を確認する。
茉季の視線の先、ずらされた千里の右の掌が向いた床。そこには、光を放つ棒状のものが突き刺さっていた。
「これ、は……」
棒、いや……槍か。茉季の言葉とほぼ同時に、光の槍は塵になって掻き消える。それは実際には一瞬の出来事であり、幻か何かかのようにも思えた。だが茉季はそれが、千里の手から放たれたものであるとすぐに理解する。千里の右手から感じた感覚を、あの光の槍からも感じたために。
あの光の棒を思骸に当てさせてはいけない。それが自分の直感の正体だと理解した茉季は、すぐさま千里の右腕にしがみついた。
「くっ、離れないか!」
「だめ!絶対に、手を出させない……!」
千里と茉季が揉み合ううち、それまで揺蕩うばかりだった思骸がゆらりと動きを見せる。
「これは、私の……私たちの望みだ。あなたに邪魔は、させない……ッ!!」
茉季の叫びに呼応するように揺らめいた思骸は、気の奔流をもって千里の方へと襲いかかってきた。千里はそれを、茉季を抱えたまま間一髪で回避する。
「何だ、今のは!?」
思骸が千里に対して今のような攻勢を見せたことなど、一度もない。それに、今のはまるで茉季の声に応えたようにも思えた。
千里が考えを巡らす間もなく、次の奔流が千里のいる場所へと降り注ぐ。おそらく、直撃を受けるのは避けるべきだ。千里の全身がそう訴える。この思骸の起源は他者への強い憎しみ。そんな思骸による一撃など、受けずとも無事に済むものではないことが分かる。
千里は再び回避の為に身を捩る。何とか身を守った千里だったが、気付けば右腕にしがみついていた茉季の姿が無い。はっとして目をやると、思骸を優しく撫でる茉季がそこに居た。
「その思骸から離れるんだ」
「できない。できません」
「どうして」
「願いを叶えるため」
「願い?伊東結以の父親を歪め殺すことがか?」
「そうです。それが私の、私たちの望みだから……!」
そう茉季が言い放つと同時に、背後の思骸が四方八方にその靄の範囲を飛び広げる。そして散った靄はそれぞれが再び一つに集まろうとしている。当然、その合流地点は千里が立っている場所だ。
後方へ飛び、難なく思骸の攻撃を避けた千里だったが、これが単なる攻撃ではないことは察知していた。これは千里を遠ざける為の牽制だ。今のところ、千里が右の掌から放った光の槍が、思骸にどのような影響を与えるのか茉季は分かっていない。だが、とにかくそれを結以の思骸に触れさせることは何としても避けなければならないだろう。そう茉季は考え、千里を思骸から遠ざけることにしたのだ。
「君は自分が何をやっているのか分かっているのか?その思骸は、間違いなくよくないものだ。人を呪い殺す、それだけの為に存在している。君はそんなものに加担して、人殺しにでもなりたいのか!?」
「そうです!あの男を、お父さんを殺す為に私は、結以は思骸になった!!だったら、そうしないと……殺さないとダメなんです……!」
茉季の叫びが響く中も思骸による牽制攻撃は止まない。千里は徐々にその距離を空けられてゆく。だが、それにしても茉季の言動には先程から違和感を覚える。
千里はひとまず回避に専念しつつも、茉季の動きからは目を離さない。
(ちぐはぐだ)
千里の違和感。それは茉季の言葉だ。あの男、というのは直後に本人が言っているように父親のことだろう。しかし、この少女は閑茉季であり、伊東結以ではない。他人の父親のことを「お父さん」と呼ぶだろうか。それに、彼女の放つ言葉の違和感はそれだけではない。先程から茉季の言葉遣いがころころと変わっている。丁寧語と、そうではないもの。もっと直接的に言えば、ずっと結以として千里と話していた時の口調と、それとは別の口調が入り混じり、あるいは交互に現れているのだ。
「君は……一体どうなっている?本当に君は、閑茉季なのか?」
「そう、ですね。私は閑茉季で合ってます……。でも、それも完全な正解じゃありません。私は今、"私たち"なんですから」
「何……ぐあッ!?」
茉季から感じていた思骸の気配が大きく膨れ上がったかのように感じた刹那、千里は凄まじい力で壁に叩きつけられていた。
「この感じ……君は、やはり思骸に取り憑かれて……」
「取り憑かれるとか……そんなものじゃありません。私たちは一つになっているんだ。結以が死んだ時から、私の中に結以がいるんです。今はもう、私と結以に境界線はありません。だから、あなたが私たちをどちらかだとするなら、それは半分正解で半分はずれ。私たちは閑茉季であり、伊東結以でもある。これが、正解です」
「なるほど、合点がいったよ。つまり、二人の意思がその身体を共有しているというわけか」
茉季の言葉通りであれば、驚嘆の事実だ。もっとも、思骸との強い同調があれば、それは可能かも知れないと、千里は推測する。
「だが、どうしてそこまでする?ただ父親を歪み殺すだけなら、思骸の身だけで十分なはずだ」
「より強い苦しみがあの男には必要なの。だから私が協力するんです。思骸の身体だけじゃできないこと。他の怨みを抱えた思骸を誘引して寄り集め、一つに集積する。その為に、茉季の身体を利用した。それが、私にはできたから」
「思骸を誘引、集める……。そうか、君も」
千里と同じく、思骸に対して特別な力を有する存在。おそらく、思骸との同調もまた、その特質的な力が影響しているのだろう。千里は思いがけず出会った自分以外の異能者に、複雑な思いを告げる。
「だったら、本能的に分かったはずだ。君の親友は、間違ったことをしようとしていると!友達を止められるのは、君だけだったはずだ!何故加担する!?」
「そんなの……決まっています!許せないから……結以を……私を裏切ったあの男が憎いから!!殺してやると誓った!その為に私は思骸になったんだ!!」
二人分の激昂。未だ壁に身体を打ち付けた衝撃から体勢を立て直せずにいる千里の元に、思骸から放たれた黒い波動が襲いかかる。今までの牽制目的のものとは違い、明確な攻撃の意思を感じる。速度もそれまでとは段違いで、回避は間に合わない。
だったら――
すっ、と千里は右手を波動へと向け伸ばす。そして、
「……ッ!!」
一瞬の閃光。すると、見事に千里めがけて迫っていた黒い思骸の波動は綺麗さっぱり掻き消えていた。
「やっぱり、その右手……」
「いや、別に右手だけじゃあないんだが……。まあ、それはいいさ。察しの通り、俺は思骸が視えるだけじゃない。ということだよ」
再び千里が右手を思骸へ、茉季の方へと向ける。茉季はそれに対し、また思骸から複数の波動を飛ばす。そのどれもが命中すれば千里を吹き飛ばし昏倒させるだけの勢いを持っていた。
しかし、その尽くが掌から放たれる閃光、光の槍によって掻き消されてしまう。
「畜生……っ!邪魔を……するなァっ!!私はあの男を殺さないといけないんだよ!!でないと、結以の思い出も何もかもが、あまりにも苦しすぎるものになってしまうんですっ!!」
「……」
喚き散らす茉季と結以はデタラメに周囲を吹き飛ばす。部屋の中にあった物は殆どがひっくり返されてしまっている。しかし、千里の身体には傷一つ付けられていない。パン、と何かが弾ける音がする。茉季が気付くと、千里はすぐ目と鼻の先まで来ていた。
「まだ、動機を聞いていない」
「それを聞いて、どうするつもりなんですか。どうせあなたは、結以を……」
消し去るつもりなんだろう。千里が思骸による現実への干渉を許さないという信念は彼が語ったままだ。どう許さないのか。それは彼の放つ光の槍の力を見れば分かる。あれは、思骸を殺すものだ。先程から思骸の波動による攻撃が相殺されているのも、全てはその力の所為なのだ。
「ああ、この槍で、俺は君の親友を再び殺す。だけど、俺はそれを一方的なものにしたくない」
「とんだ自己満足じゃない……」
「そうだよ。だけど、思骸は誰にでも見えて、感じられるものじゃない。俺は見えるからこそ、無関心で、無神経ではいたくない。聞かせて、くれないか」
数秒、茉季は千里を上目で睨みつけたまま身動ぎせずにいたが、やがて観念したかのように目を閉じ、語りだした。
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