#1 幻影復讐 -5- 夏の幻
水族館を出た千里と結以は、結以の導くまま近くのバス停からバスに乗り込み、十数分間揺られる。その間、特に会話らしい会話もなく、間もなくバスは目的地に辿り着いた。
「南丹居崎駅、か」
「そう。私が自殺に選んだ場所。死んでからはまだ一度も訪れていなかったから」
千里は何も言わず、駅の構内へと進む結以について行く。ホームに着くと、結以が口を開く。
「犯人は現場に戻ってくる……ってわけじゃないけれど、期待が外れたわ。何か思い出せるんじゃないかって……」
ホームから見える光景をぐるりと見回し、結以が千里へと振り向く。
「私が死んだ痕も、全部きれいに無くなってる。これじゃ、本当に私が死んだかも分からないわね。あなたはどう?何か見えたりするのかしら」
「……いや、何も」
言葉の通り、千里の目に見える範囲には思骸の姿はない。厳密には結以が居るのだが、その結以ですら従来の思骸の姿――黒い靄としては映っていない。これでは本当に、伊東結以が死んだという事実自体が無かったかのようだ。元々が通勤通学での利用者が多い為か、夏休み期間中の平日の昼間である今は普通の利用者の姿も無かった。
「そういえば、君の家族はどうしているんだ?」
そう、彼女には一緒に暮らしていた父親が居るはずである。前述の家庭環境通り、親子の仲は良好では無かったかも知れないが、一人娘が死んで何も変化なしとは考えにくい。
「家族……?」
ぞわり、と千里の全身が総毛立つ。突如として目の前の結以から感じられていた思骸の気配が一気に膨れ上がった。
「……ッ!?」
しかし、その増大は次の瞬間には収まりを見せた。咄嗟に身構えた千里だったが、気の所為だったかと思うほど元通りの状態になってしまっている。
「家族、ね……。どうもしていないと思うわ。あの人は……」
結以の態度も今までの基本的に素っ気ない感じに戻っており、ますます千里の気の所為と思ってしまいそうになる。
千里の困惑をよそに、もう用は済んだと言わんばかりに結以は足早にホームを後にする。
(今のは……)
未だ先程の気配について思いを巡らす千里だったが、結以が駅の階段を降りて行こうとしているのに気付き、慌てて後を追う。基本的に冷静な千里が呆然となるのも無理はなかった。何故なら、その時結以から溢れ出た思骸の気配は、およそ数百の思骸のそれと等しいものだったからだ。
「ちょっと待て……っと!」
結以を追って階段に向かった千里は、呼びかけに無視して歩く結以の手を掴もうとする。しかし、結以が急に立ち止まった為、前のめりにバランスを崩しそうになり、声を上げた。
「……?」
不意に平日の昼間、利用者一人居ない寂寥とした駅に響いた声に、二人の下、今にも階段を登ろうとしていた男が顔を上げる。
「あ、ああぁ……!?」
そして、男は驚愕の表情でわなわなと声を震わせた。
「おい、あんた……」
尋常ではない様子の男に、千里が声をかける。しかし、男の視線は千里の方には一切向くことなく結以の方に固定されて動かない。男はそのままガクガクと身体を震わせたまま立ち尽くしていたが、やがて堰を切ったように背を向けて上擦った悲鳴とともに走り去った。
「何だ、一体?」
「さあ、こんな田舎町にも変人はいるだろうから、その類じゃないかしら……」
「……どう考えてもあの反応は普通じゃなかった。知り合いなんじゃないのか?」
「気になるなら、追いかけたら?私はもう、帰るけれど。……別に止めたりしないわよ。今日は十分楽しませてもらったしね」
呆れたような物言いに、先程の男について知っている様子は感じられたが、自ら語る気は一切ない様子でそのまま動こうともしない。千里は僅かに嘆息し、結以を残して男を追いかけることにした。
「おいっ!あんた、大丈夫か!?」
逃げ出した男を追いかけてすぐ、件の男が路上で腹部を抱えた姿勢で横たわっているのを発見し、千里は慌てて駆け寄って抱え起こした。息が上がって随分苦しそうではあるが一見して外傷はないように見える。しかし何より気になったのは、千里が男を抱え起こそうとした時に感じた違和感だ。
(軽すぎる……)
それはおよそ成人男性の重みと言うにはあまりにも重量感が欠如していた。改めて男の顔を見る。年の頃は千里よりも十から二十は上のようだ。顔色が悪いが、倒れていたことと関係あるかは分からない。駅で結以を見たときから、この男の表情は青褪めていた。そして、重さの違和感の一因だと思われるが、ひどく痩せ細っている。禄に食事を取っていないのだろうか。
「お兄さん……悪いな。きゅ、急に走ったものだから……わき腹ァ、痛くなってよ……」
「わ、わき腹……?」
とてもそれだけの苦しみには見えない男の様子だったが、どうも本当だったようで、数分もすると息遣いも落ち着いてきた。
「ふぅ……心配かけたな。もう大丈夫そうだ」
呼吸を整えた男が起き上がる。本人曰く大丈夫ということだが、どう見てもその顔色は全く良くなってなどいない。むしろ、どんどん悪くなっているような気さえ千里は感じた。
「あんた、ちゃんと食ってるのか?随分顔色が悪そうだし、さっき抱えたあんたの身体、相当軽かった」
「んんー……そういや、最近まともなモン食ってねぇなぁ。どうにも食欲が……な。これって夏バテってやつかねぇ」
千里の真剣な顔の忠告を受けても、男はどこかボンヤリとした様子で、深刻さがまるで感じられない。
「……そういえば兄ちゃん、さっき駅に居たな」
「あ、あぁ……。そうだ、何であんたはあの時いきなり逃げ出したんだ」
「え?そりゃおめぇ……ありえねえモンを見ちまったら誰だって逃げるに決まってるだろーがよ。ありゃ、一体どういうカラクリ……いや、白昼夢ってやつか?」
ありえないもの?白昼夢?男の言っていることが、千里は理解できない。あの時、あの駅で何か異常があったと言うのか?そんなはずはない。であれば、真っ先に自分が気付いているはずだ。
「それは、何だったんだ?」
「死んだ俺の娘さ。おかしなことを聞く兄ちゃんだな。一週間ぐらい前に、あの駅で死んだのは俺の娘で、何故かその娘がさっき駅であんたの隣に居た。……って、ンなこと言ってる俺も相当おかしな奴だな……。暑さでイカレちまったか?」
「あんたこそ……何を言ってる?伊東結以が、俺の隣に居ただって……?閑茉季では、なく?」
それはおかしい話だ。男が結以を見たというのは、間違いではない。だが、この男にそう認識できるはずがない。何故なら、あの場に居たのは伊東結以ではあっても、伊東結以の姿はしていない。閑茉季の身体に宿った、伊東結以なのだ。
「閑茉季……ってのは確か結以の友達の背の小さい子じゃなかったか。何でその子の名前が出てくる?結以とその子を見間違うはずがないだろ。背丈が違うし、何より自分の娘だぞ」
男――伊東結以の父親の言い分はもっともだ。いくらなんでも自分の娘とその友人、しかも身体的特徴が大きく異る二人を見間違えなどしないだろう。
「……それもそうだな。でも、それはあんたが……その、疲れている、からじゃないのか」
「疲れ……。いや、そうかもな。結以が死んでから、何もやる気が起きなくてな。しかも、気付いたらいつもあの駅に居るんだよ」
結以の父が語る。結以は自分の一人娘であり、結以が幼い頃に妻と離婚してからは一人で育てて来たのだと。その娘が突然自殺をしたのだ。父親のショックというものは大きいと言えよう。
(でも、だったら何故……)
千里はふとした疑問を口にしようとするが、何かに気付いたのか、はっとして口を閉じる。思い浮かんだのは、あの時駅の階段で父親であるこの男を見ていた結以の瞳……。
「ま、とにかく気を遣わせちまったな、兄ちゃん。確かに兄ちゃんの言う通り疲れてただけだろうな。家に帰って休むとするよ」
そう言って、立ち去ろうとする結以の父。千里はその肩を掴んで言う。
「いや、あんたは家に帰らない方がいい。死にたくなかったら、俺の言う通りにしてくれ」
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