#1 幻影復讐 -4- くじらの歌

 『くじらの歌』

 何不自由なく生きてきたはずなのに、どこか日常に水中のような息苦しさを感じていた二人の男女。彼らが偶然出会ったところから物語は始まる。

 二人はその感覚を唯一共有できる相手を得たことで、自然と打ち解けていく。やがて恋仲となった二人は様々な場所を訪れるのだが、そのどれもが廃墟であり、それは現実に閉塞感にも似た苦しさを感じていた二人にとっての逃避行でもあった。

 そんな中、唯一訪れた廃墟ではない場所がとある水族館である。廃墟ではないと言っても、既に近いうちに閉館と取り壊しが決定している場末も場末の施設ではあったのだが。

 その半ば死に体の水族館で二人はデートをする。そこで、水槽の中を泳ぐ魚を見て女は言うのだった。「私たちもこの子たちも、限られた場所でしか生きられない」。社会にうまく溶け込むことができず、人がいなくなった廃墟のような場所でしか安息を得られない自分たちを皮肉った言葉だ。それを聞いた男も言葉なく同調する。

 そんな気の滅入るやり取りが延々続いた挙句、二人は自分たちの居場所は最早人間社会には無いという結論に達する。そして、自分たちがそんな中出会えたのは、鯨が仲間とのコミュニケーションの際に用いる鳴き声・くじらの歌のように自分たちにしか理解できない信号があったからだと語る。斯くて、二人は真にくじらとなるため二人で海中に身を投げるのだった。

 なんと救いのない恋愛小説だろうか。狭い視界でしか物事を見ることのできない二人の視点に共感できるか否かで激しく評価が分かれる作品となっており、カメレオン作家と呼ばれる入澤良零支の著作の中でも、通好みとされる位置にある。


 「でも、それは原作だけの話で、映画はハッピーエンドよ」

 「あれ、そうなのか」


 千里が閑の碧の面々に相談をし、その結果を結以に伝えてデートをすることになった日から数日後。二人は水族館の開館を待つ列の中に居た。

 二人がやって来たのは丹居崎市内にある唯一の水族館、『丹居崎 海の生き物科学館』だ。丹居崎市は海に面した都市であるため、海やそこに生きる生物などを主体とした施設は幾つか存在している。この水族館もその一つだ。


 「映画の為に原作者自らエンドを書き直したのよ。二人は逃避行の末、出会えた幸せを改めて実感し、現実に希望を持つの。そうして苦しみに立ち向かう強さをお互いの存在から得て、社会復帰する方向で話は終わるわ」

 「なんとも、それは随分と毒が抜けたな」

 「だから原作ファンからは賛否両論ね。でも、原作者的には沢山廃墟の映像が見れて大満足だったらしいわ」

 「あぁ……有名だもんな。入澤良零支の廃墟好き」

 件の映画についてを話していると、列が動き出した。どうやら開館時間を回ったらしい。列に倣って、二人も入場ゲートを通過し館内へと足を踏み入れる。

 「おぉ……!?」

 エントランスに立った千里は思いがけず声を上げる。それもそのはずで、千里の記憶の中のエントランスとは様変わりした光景が広がっていたからだ。記憶の限りでは、そこそこ大きな設置型の水槽が数点あるだけで、水族館というよりもまさしく海の生き物科学館というような姿だった展示スペースには、今や壁面と一体となった超大型の水槽がどんと構えており、一面が海の中のような感覚さえ覚えさせるほどの迫力を持ったものになっている。

 「へえ、これは……すごいな!」

 珍しく言葉尻が上がり気味の千里。一方で結以は冷静な声で「有名デザイナーが手がけたみたいね。ちなみに、改装が終わったのは去年の話」と語る。

 「ほう。詳しいな」

 「パンフレット。そこに置いてあったわ」

 結以は口元を手に持ったパンフレットで覆ったままゆらゆらと動かす。見ると、さきほど入ってきた入り口の横に大型のカタログスタンドがあり、そこにパンフレットが置かれていた。

 「さいですか」

 千里の納得の言葉を無視して、結以はてくてくといつもより早足で展示の看板のある水槽へと歩いていく。そうして水槽の前に来た結以は、パンフレットと水槽を交互に目をやり、熱心に観察しはじめた。その様を後ろで眺めながら、千里は「楽しそうで何より」とつぶやく。

 「初めてなのよ、水族館」

 「それは珍しい」

 丹居崎市の特徴として"海に面した都市"ということがあるが、実はその他にはこれといった特徴がない。奇妙なほど、この町には何も無いのだ。他に動物園だとか、大型のショッピングモールだとか、そういった娯楽施設は市内には一切無く、外地からわざわざ人が見に来るような観光名所もない。人々が何か行楽をしようと思えば、それこそ市外や県外にまで出かけるしかないほどだ。そうした事情もあるため、市内に存在するこの水族館は、手軽に行ける格好のレジャー施設になっている。丹居崎市で育った子どもで、この水族館に連れてこられたことのない者は殆どいないだろう。加えて言えば、「この水族館は飽きた」と、親に文句を言ったことのない者もまた、殆どいないだろう。かく言う千里も、そういう経験を経ていた。

 「何故かしら。親も魚嫌いなんかではなかったはずだけれど……」

 「……」

 「ああ、違ったわね」

 ふと、結以がうつむく。

 「嫌いだったのは、私の方ね……」

 似ているから。

 彼女が小声で言ったのを、千里は確かに聞いた。

 「似ている?」

 「……苦手なの、魚。小さな頃はそんなこと思いもしなかったけど、無意識の内に感じ取ってたのかも知れない」

 そうして、結以は歌うように紡いだ。

 「『私たちもこの子たちも、限られた場所でしか生きられない』」

 『くじらの歌』の一節だ。そこで、千里はその台詞が出てくる場面も水族館だったことを思い出す。

 「俺は『くじらの歌』の男みたいに同意しないぞ。そして、言ってやろう。それは思い込み、勘違いだとね。もし、君がそんな勘違いが元で命を投げうったんだとしたら、とんでもない愚か者だとしか言い様が無い」

 結以は、うつむいたまま自嘲気味に口元を歪ませて答える。

 「ええ、そうね。思い出せないから分からないけれど、そうじゃないことを願ってるわ」



 「イルカやアシカのショーってのは定番でなんてベタな…とか思っていたが、なるほど定番たる理由があったんだな……」

 「同意するわ。まさか、間近で見るイルカもアシカもあんな……だったなんて……」

 定期公演のショーを見終えた千里と結以は、施設内にあるレストランで食事をしながら、観覧したばかりのショーについて語り合っていた。二人とも興奮冷めやらぬといった様子であり、頬が揃って上気している。

 「いやー、しかし、凄いなこの変わり様は。一体何があったっていうんだ」

 「この町観光資源がまるでないってことで、数少ないもとい唯一の手札として大幅にテコ入れされたって、さっきパンフレットで読んだわ。それで有力な飼育員とかヘッドハンティングしまくったって」

 「観光資源ないとか書くなよ。正直者かよ。でも、そうか。それなら開館待ちの列の様子も頷ける。俺が子供の頃は列こそあったが、みんな楽しみにしてる気配ってのが無かったものなぁ」

 うんうんと頷きながら、千里は昔を思い返す。親にしても、子供のためとはいえ特に見るもののない場所に行くってのは苦痛だったろう。と、今にして思うのだった。

 「なんだか、あなたの方が楽しそう。年甲斐もなく……」

 「年甲斐ってこともないさ。俺はまだ24歳で、君ら十代とはまだ10歳も離れていないんだからな。……何だその顔」

 「思ったより若くて驚いたの。あなたって、老け顔……」

 「やかましい。顔のことは言うな」

 昔から思骸のこともあって悩みがちだったせいか、眉根に皺を寄せてしまうのが癖となってしまい、元々垂れ目で柔和な印象だったのが無くなってしまった。そのせいで小学校高学年の頃には高身長も相まって、顔が怖いと言われるまでになってしまっていた。そして第二次性徴を終える頃には年相応に見られることも無くなり、大概実年齢より上に見られてしまうようになっている。そのことを、千里は人知れず気にしているのだった。

 「案外かわいらしいところもあるのね」

 くすくすと、目を細めて笑う結以に、千里は頬杖をついて息を吐く。

 「ふん、言ってろ」

 肩を揺らしている結以を見て、始め、館内に入ってすぐの会話を千里は思い返す。今はあの時の暗い表情はどこにもない。相変わらず独特の雰囲気はあるものの、年相応の少女を感じさせる結以の姿に、どこか千里は安堵する。同時に、あの時の表情を見せるだけの何かが彼女の中に抱えられていることも、千里は確信する。おそらく今こうして笑っている姿は、閑茉季と一緒に居る時の彼女の姿と限りなく近いか、同じものなのだろう。

 「あぁ……デートってこんな感じなのかしら?」

 ふと、ひとしきり笑った結以が言う。

 「さぁね。君が楽しいならいいんじゃないか。それで、やり残しは無くなりそうか?」

 「やり残し……ね。デートが私の心残りだったのなら、私はここで茉季の身体を離れてサヨナラ……なのかしら」

 それは少しさびしい気がするわね。結以が目を伏せながら語る。

 「でも、まだ私はここに居る。ということは、私が思骸になった理由は、恋愛経験……デートへの心残りじゃなかったってことね」

 「残念そうだな」

 「これでも、人並みに憧れてはいたのよ?ふふ、でもその憧れは叶えられたわね。ありがとう」

 「こんなんで良かったのなら、礼を言われるまでもないさ。それに、本当に礼をもらうなら君と閑茉季を解放してからが望ましい」

 結以は千里の言葉に、ええ本当に、と頷いた。その様子は本当に残念そうであった。

 今日のデートを迎えるまでの間、千里は伊東結以という少女について調査を行っていた。今回の依頼の解決のためには、彼女を知る必要があると考えたのだ。本人に聞くという選択肢もあったが、ただでさえ死に関する記憶が欠落している状態の結以に訊ねたところで、確かな情報が得られるとも限らない。また、そもそも正直に彼女が語ってくれるか、という問題もあった。それ故、千里は自力で調べることにしたのだった。

 結論から言うと、伊東結以は十全な環境で生活していたとは言い難い。幼い頃に両親は離婚しており、当時経済力の面で大きなアドバンテージを持っていた父親側に引き取られるも、程なくして父親が職を失うことになる。その後、父親は酒に溺れることが多くなった。近所に住む人々の話では、時折怒号混じりの激しい物音がすることもあったという。これはよくないと、何度か児童相談所が介入しようとしたらしいのだが、結以本人が父親と離れることを強く拒んだ為、直接的に干渉することはできなかったという。

 結以の自殺の原因が直接この環境にあるとは未だ断言できないが、無関係ではないと千里は考えていた。それは、自己の死生観が思骸を視認し関わってきた半生の内に形成されたもの故に。

 「ねえ、よかったらこの後、少し付き合ってくれる?」

 「どこか行きたいところでも?」

 「ええ……多分、一度は行っておかないと駄目なところよ」

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