ある日、世界から食べ物が消えた ~『あれ』を除いて~

七草裕也

ある日、世界から食べ物が消えた ~『あれ』を除いて~


 ある朝、人類の文明は滅びた……のかどうかは、私にはわからない。

 ある日、目を覚ますとそれまで存在していたモノがなくなったようにも思える。

 元女子高校生の私と、元サラリーマンのあの人、そしてしか存在しない世界。


 世界がこうなってから――あるいは、この世界に私たちがやってきてから――すでに20年。

 あの人は3年前に死に、私ももうじき後を追うことになると思う。

 最近は立ち上がることもできず、ただこうして洞窟の中で横たわるばかりなのだ。


「お母さん、ただいま」

「今日はたくさん取れたよ」


 そう言って洞窟の中に駆け込んできた男の子と女の子。

 兄の名前はゆきてる、妹の名前は向日葵ひまわり

 世界にただ2人、男と女が残されて、私とあの人はひたすら生き延びて、子どもを作った。

 10歳になる兄にはこの世界には降らない『雪』の文字を、8歳の妹にはこの世界には存在しない、黄色い花の名前をつけた。


「おかえりなさい」


 私は子ども達に微笑む。

 2人はこの世界に唯一存在する植物とコップに入った水を置いた。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 私とあの人は長い時間この世界をさまよった。

 だが、行けども行けども、人間も人工物も存在しない。

 ただ、ひたすらに砂地と時々川があるだけ。

 それどころか、生物すらまったく見つからなかった。


 ただ一つ、世界のどこでも見つかるある植物を除いては。


 私たちはその植物を――正確にはその植物によく似た存在を知っていた。あの日の朝までは、スーパーに行けば簡単に手に入った食材。


 そう、である。


 ほうれん草こそが、この世界に唯一存在する植物であり、唯一の食料である。

 コンロもマッチもライターも、それどころか木材すらないので、火を沸かすこともできない。真水の川はあっても海はないので塩も手に入らない。

 この20年間、私は水と生のほうれん草だけを食べて生きぬいた。


 雪瑛と向日葵が持ってきた生のほうれん草とコップに入った水。

 コップは世界が変わった日にあの人が持っていたものだ。元の世界では100円ショップにいくらでもあったコップが、ほうれん草と川しかないこの世界においては貴重品である。


「お母さん、起きられる?」


 向日葵が心配そうに私に尋ねる。


「ええ、大丈夫よ」


 そういって身体を起こすのものの、正直かなりつらい


「はい、お母さん」


 雪瑛が私にコップを渡す。


「僕たちは川で飲んだから」


 いつものようにそう言われ、私はコップの水を飲みほす。

 そして、食事が始まる。

 米もパンも味噌汁も肉も魚もない、ただ生のほうれん草だけを食べる、いつもの食事が。


 実のところ、この植物は私の知っているほうれん草とは別物だと思う。いくらなんでも人間がほうれん草だけを食べて20年もいきられるとは思わない。

 栄養学など習ったことはないが、ビタミンや鉄分はともかく、糖質や脂質、タンパク質などほうれん草にはほとんど含まれていないはずだ。

 それでも、こうして20年私が生きてこられたということは、つまりこの植物にはほうれん草に含まれる以外の栄養素もあるのだろう。


 それに、この植物は1日で生える。しかも翌日には枯れてしまう。ほうれん草の生態など知らないが、たぶん、本物のほうれん草はそんなに急に成長もしないし、枯れもしないだろう。そもそも砂地にほうれん草が育つかどうかも怪しい。


 ――味や見た目は完全にほうれん草だが。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


『いただきまーす』


 雪瑛と向日葵がほうれん草を掴み、口に放り込んだ。

 2人の明るい表情を見ていると悲しくなる。


 私の子ども達はほうれん草以外の食べ物の味を知らない。

 私とあの人と、兄妹それぞれ以外の人間を知らない。


 犬も、猫も、ゾウも、ライオンも、キリンも、鳥も、魚も。

 桜も、タンポポも、杉も、雑草も。

 テレビも、パソコンも、エアコンも、本も、ランドセルも。

 自動車も、電車も、エレベーターも、階段すら。


 私が20年前のあの日まで当たり前のように知っていた、あらゆるものを何も知らない。


 知っているのは、ただ、砂地と川とほうれん草だけが存在するこの世界のみ。

 私もあの人も、2人にはなんども元の世界の話をした。

 文字や計算を教えようとした。紙も鉛筆もないが、指で砂地にひらがなや数字を書いて。

 私たちの着ていた服を切り取り、最低限、裸で出歩かないよう指導した。


 だが、どうしてもピンとこないらしい。

 当然だろう。何しろこの世界にはほうれん草しかないのだから。

 文字も計算も必要ないし、裸を恥じらう必要もない。

 四季もなく、気温も一定である意味快適だから服を着る必要などないのだ。


 私はもうすぐ逝く。

 この世界のほうれん草に、人間が必要な栄養素があるらしいとはいえ、それでも元の世界のように80年生きることは難しいらしい。


「どうしたの、お母さん。食べないの?」


 向日葵が不思議そうに私に尋ねる。


「ううん、食べるわ」


 私はそう答えて、ほうれん草を口に運ぶ。

 20年間食べ続けた味。それなりに甘みも苦みもある。


「パンケーキが食べたいな」


 私の口から出てきたのは、そんな言葉だった。


 あの日の前日、お母さんが焼いていたパンケーキ。

 私は『お腹いっぱいだから』と食べなかった。

 実際のところは、お母さんがパンケーキを作っていることを知っていながら、わざと昼間ケーキバイキングに出かけたのだ。

 何故、そんなことをしたのかは覚えていない。朝、母とくだらない喧嘩をしたような気もするが、今となってはどうでも良いことだ。


 ――どうしてあの時、私は母のパンケーキを食べなかったのだろう。

 少なくとも、このほうれん草よりも100倍美味しかったはずなのに。


「また始まったよ、お母さんのよく分からない話」

「そうだよねー、ほうれん草以外の食べ物なんてあるわけないじゃん」


 子ども達は呆れたように私にそういう。

 2人にとってはそれが当たり前なのだ。この世界には砂地と川とほうれん草しかなく、人間は家族だけ。


 ――この子達は、私が死んだ後どうなるのだろうか?


 そう考えると、胸が痛くなる。

 ただひたすらほうれん草だけを食べ、水を飲み、眠り、起き、ほうれん草を食べる。

 そんな日々を2人で生き続けるのだろう。

 それは人間の生き様なのか。自分の子ども達にもっと残してあげられるものはないのか。


 だが、何も思いつかない。

 この世界にはほうれん草しかないのだ。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 ――数日後。


「お母さん、起きて、お母さん!!」

「大変なの、起きてよ!!」


 今日も今日とてほうれん草を探しに出かけていたはずの子ども達が、寝ている私を揺り動かした。


「なにかあったの?」


 私はほんの少しだけ希望をもって尋ねた。

 ほうれん草しかないこの世界で、『大変なこと』など早々起こらない。

 もしかしたら、元の世界に戻ったのだろうか? いや、そうでなくても他の人間か植物か動物をみつけたのかもしれない。


「それが、その……」


 雪瑛が握っていた右手を開いた。

 そこにあったもの――それはほうれん草には決して存在しない、赤い実。赤ピーマンにも似たモノ。


「どうしたの、これ!?」


 私はガバッと起き上がり、雪瑛の肩を両手でつかむ。

 弱っていた身体に急に力が出てきた。

 20年ぶりに見たほうれん草以外の植物。この何もない、地獄よりも酷い世界の中で見つけたこうみよう


「洞窟の外にあった」


 私はその言葉に立ち上がり、洞窟の外へと駆け出す。まだ自分に走る力が残っていたことに驚く。

 それだけ、ほうれん草以外の植物への期待が強い。

 そして、洞窟を出た私の目の前に広がっていた光景。


 ――それは――


 砂地に大量の赤い実が直接に生えているという、それこそわけのわからないものだった。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「なに……これ?」


 呆然と呟く私。


「わかんないよ、どうなっているの、お母さん?」


 不安げにいう雪瑛。

 昨日までほうれん草しか生えなかった世界に、今日は突然赤い実が生えている。しかも、ツルや枝や葉などはなく、地面からニョキっと実だけが生えているのだ。


「どこを探しても、ほうれん草がないの」


 向日葵が泣きそうな声で言う。

 2人は赤い実よりもほうれん草が存在しなくなったことに困惑しているらしい。

 当然だ。もし本当にほうれん草が存在しなくなったのなら、2人が知っている唯一の食べ物がこの世界から消えてなくなったのだから。


 私は手のひらの中の赤い実を見る。

 よく見てみるとピーマンとは少し違う気もする。世界が変わる前にこれによく似た実を見たことがあるような気もするが、思い出せない。

 私はジッと考えた後。


「食べてみましょう」


 私はそう言った。


「でも、お母さん」

「これが何かもわからないのに」


 雪瑛と向日葵は不安そうだ。


「でも、ほうれん草がないならこれを食べるしかないわ」


 恐る恐るその身を口に運んだ。

 もちろん、毒物の可能性もあるが――

 なんにせよ、子ども達より前に私が食べてみるべきだろう。


 カリッ。


 ほうれん草では味わえない堅さを感じながら、実のごく一部分を噛みちぎる。

 次の瞬間だった。


「い、ぎゃっ」


 私は叫んで、その場にうずくまって実を吐き出す。


『お母さん!?』


 2人は同時に叫び、慌てて私に駆け寄る。


「大丈夫!?」


 心配そうな向日葵に、私はなんとか微笑み返す。

 この実は毒ではない――たぶん。


 ――だが。


 この味、これは……


「これ、ハバネロよ」


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 ようやく思い出した。

 世界で最もからいと言われていた唐辛子の仲間。

 地面に生えているのはソレだ。

 いや、もちろんハバネロはこんな生え方はしないはずなので、あくまでもハバネロに似た植物だろうが。


「ハバネロ? 何、それ?」


 その問いに、私はどう答えたら良いのかわからなかった。

 子ども達と一緒に周辺を探索した。杖がにできる枝もない世界で歩くのは大変だったが、この状況ではしかたがない。

 世界はどこもかしくもハバネロだらけだった。

 もはやほうれん草はどこにもない。もちろん、他の植物や動物も。

 ほうれん草だけの世界から、ハバネロだけの世界に変わってしまった。


「お腹すいたよぉ」


 夕方になり、向日葵がそう言う。

 昨日の夜から何も食べていない。水だけでは空腹は満たされない。


「やっぱり、これを食べるしかないのかな」


 そこら中の地面から生えるハバネロを指さし、雪瑛が言う。

 もし、本当にこの世界にハバネロしかないなら、確かにそうすうるしかない。

 だが、先ほど私が味わったように、ハバネロの辛さは尋常ではない。何しろ、世界一辛いとでギネスブックに載っていたほどなのだから。

 私はもちろん、子ども達もとても耐えられるとは思えない。


 それでも。


 食べるしかない。


 私が20年間ほうれん草だけを食べてきたように、この子達はこれからハバネロだけを食べて生きていかなければならないのかもしれない。


 ――と。


 向日葵が足下に生えていたハバネロをむしり取り、口に運んだ。

 空腹に耐えられなくなったらしい。

 そして、がむしゃらに食べる。


「向日葵!!」


 私は思わず叫ぶ。

 あの恐ろしい辛さを、8歳の娘が耐えられるとは思えなかったのだ。


 ――だが。


「うん、意外と美味しいかも」


 向日葵はそう言った。

 彼女を見て、雪瑛も食べ始めた。彼も辛さは感じていないらしい。


(私が最初に食べた実だけが辛かった?)


 そう考え、私も実を食べてみる。


「ぎ、ぎゃあぁぁぁ」


 やっぱり辛い。ものすごく辛い。やっぱりハバネロだ。

 地面にハバネロを吐き出してしまう私。


「お母さんは食べられないの?」

「いや、食べられないのって……あなたたち、こんなに辛いもの食べられるの?」


 困惑する私に、子ども達は首をひねって同時に尋ねた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

ある日、世界から食べ物が消えた ~『あれ』を除いて~ 七草裕也 @nanakusa-yuuya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ