後編
「なん……だって?」
与七と名乗っていた男、顔が
紅皿はゆっくりと煙を吐き出して、
「
男は思わず両手に視線を落とす。
「まあ手代たちが気づかないのは、よっぽど顔姿が似てるのかもね。辰次、井崎屋の若旦那は人が変わったようだ――なんて噂を耳に挟んだことはないかえ」
「確かに――そもそもおれが顔を知ったのも若旦那が急に女遊びを始めなすったからで……その前はえれえ
「手前は前にも後にも井崎屋であることに間違いはない。その与太話、世間に吹聴するつもりかい」
「馬鹿なことを言いなさんな。そんなことをしたって一文の得にもなりゃしないもの」
紅皿は
めったにないほど大きな乳は、みずみずしい張りを保っている。
「わっちはお客の正体が誰かなんてえことはどうでもいいのさ。銭さえ落としていってくれればね」
辰次が小さな声で「――正直すぎだろ」と舌打ちした。
「人殺しが、怖くはないのか」
紅皿、ひしと男に密着させて。
「悪党は好きだわ」
首の下からへその下まで、縦に綺麗に裂けた。内側は肉色の何かが蠢く。
紅皿の身体があたかも巨大な
「な――なんだ」
男は身じろぎするが、裂けた紅皿の内側から無数の女の細腕が男をつかんで離さない。
「女の腕を振りほどくなんて
ずぶ、と男の身体が飲まれてゆく。溺れた童の如く残された首に幾重にも腕がからみつく。
「たす、助けて――」
「ここは吉原、思う存分女に溺れてしまいなさいな」
男は完全に飲み込まれてしまった。紅皿の身体には筋ひとつなく、辰次は肌に触れてみたいという衝動と闘いながら残された男の衣服を回収する。遠からず古着屋の店先に並ぶことだろう。
「姉様、わっちはまだおしげりしてなさんすえ」
拗ねたように欠皿が身体を絡ませてくる。
「おあつらえ向きに男がいるじゃあないかい。どうだい、辰次?」
紅皿がからかうように言った。
「無理を言いなさんな。密通なんてばれた日にゃあ首と胴が離れてしまう。おれはごめんだ」
「――度胸のない男だねえ。
辰次は牢の鍵をかけ、そっと離れる。
ふと人影に気づく。まさか、見ず知らずの人間が出入りできるわけがない。
「ああ、おそのさんだね。
黙って人影は一礼し、ふつとかき消えた。
季節違いの寒気に襲われて、辰次は身震いした。
「おれは上に戻るよ」
辰次は声をかけて、地下から抜け出した。
外で拍子木を四つ、打ち鳴らす音が響いている。
大門横の
※ ※
年老いた辰次は、今は跡形もない
彼女らと寝たらどんな心地がしたのだろう――たとえ一夜限りとしても、はたして見るのは天上の夢か地獄か。
今となれば、もはや
辰次も
井崎屋は入れ替わりを図った男の仲間と思われる賊に押し入られ、主人をはじめ店で寝起きしていたほとんどの人が殺されてしまった。
御一新の後まもなく、何度目かの大火が吉原を襲った。
辰次はたちこめる煙の中、水をかぶって地下に潜った。座敷牢は原形をとどめぬほどに壊されていた。一番驚いたのは、鎖が、あの姉妹を繋ぎ止めていた太い鎖が引きちぎられていたことだった。姉妹は姿を消していた。
姉妹の行方は
今年もそ知らぬ顔で桜が咲いている。
老人は街を歩くと、ふとした折に座敷牢に漂っていた、独特の香の匂いをかぐことがある。あの姉妹は今でも都会の闇の片隅で、当時と少しも変わらぬ姿のままに美しくいるのだろうか。まさか――。
そんな辰次を嘲笑うかのように、
震え、さらりさらりと、
花が散ってゆく――。
終
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます