後編

「なん……だって?」

 与七と名乗っていた男、顔があおくなっている。

 紅皿はゆっくりと煙を吐き出して、

商人あきんどの手じゃないんだよねえ。苦労知らずのお坊ちゃんとも違う。職人の手だよ、それは」

 男は思わず両手に視線を落とす。

「まあ手代たちが気づかないのは、よっぽど顔姿が似てるのかもね。辰次、井崎屋の若旦那は人が変わったようだ――なんて噂を耳に挟んだことはないかえ」

「確かに――そもそもおれが顔を知ったのも若旦那が急に女遊びを始めなすったからで……その前はえれえ堅物かたぶつだったってのは聞きました」

「手前は前にも後にも井崎屋であることに間違いはない。その与太話、世間に吹聴するつもりかい」

「馬鹿なことを言いなさんな。そんなことをしたって一文の得にもなりゃしないもの」

 紅皿は煙管きせるを盆に置くと、緋襦袢ひじゅばんをするりと落とした。

 めったにないほど大きな乳は、みずみずしい張りを保っている。

「わっちはお客の正体が誰かなんてえことはどうでもいいのさ。銭さえ落としていってくれればね」

 辰次が小さな声で「――正直すぎだろ」と舌打ちした。

「人殺しが、怖くはないのか」

 紅皿、ひしと男に密着させて。

「悪党は好きだわ」

 首の下からへその下まで、縦に綺麗に裂けた。内側は肉色の何かが蠢く。

 紅皿の身体があたかも巨大な女陰ほとになったかのように。

「な――なんだ」

 男は身じろぎするが、裂けた紅皿の無数の女の細腕が男をつかんで離さない。

「女の腕を振りほどくなんて野暮やぼはしないよねえ、お客?」

 ずぶ、と男の身体が飲まれてゆく。溺れた童の如く残された首に幾重にも腕がからみつく。

「たす、助けて――」

「ここは吉原、思う存分女に溺れてしまいなさいな」

 男は完全に飲み込まれてしまった。紅皿の身体には筋ひとつなく、辰次は肌に触れてみたいという衝動と闘いながら残された男の衣服を回収する。遠からず古着屋の店先に並ぶことだろう。

「姉様、わっちはまだしてなさんすえ」

 拗ねたように欠皿が身体を絡ませてくる。

「おあつらえ向きに男がいるじゃあないかい。どうだい、辰次?」

 紅皿がからかうように言った。

「無理を言いなさんな。密通なんてばれた日にゃあ首と胴が離れてしまう。おれはごめんだ」

「――度胸のない男だねえ。鼈甲べっこう張形あれが湯につけてあるからさ、欠皿、今はそれで我慢おし」

 辰次は牢の鍵をかけ、そっと離れる。

 ふと人影に気づく。まさか、

「ああ、おそのさんだね。彼奴きゃつは地獄の底へ行っちまいましたよ。気が済んだかえ?」

 黙って人影は一礼し、ふつとかき消えた。

 季節違いの寒気に襲われて、辰次は身震いした。

「おれは上に戻るよ」

 辰次は声をかけて、地下から抜け出した。

 外で拍子木を四つ、打ち鳴らす音が響いている。

 大門横のくぐり戸が閉まる。吉原がようやく眠る時刻――。



           ※           ※



 年老いた辰次は、今は跡形もない早蕨さわらび屋のあとを見て思う。

 彼女らと寝たらどんな心地がしたのだろう――たとえ一夜限りとしても、はたして見るのは天上の夢か地獄か。

 今となれば、もはやかなわぬこと。


 辰次も妓楼ぎろうで働いていた身、多くの女を見てきた。しかしあの二人は――誰とも違っていた。触れたものを滅ぼさずにはおかぬ、耐えがたい魔性。


 井崎屋は入れ替わりを図った男の仲間と思われる賊に押し入られ、主人をはじめ店で寝起きしていたほとんどの人が殺されてしまった。


 御一新の後まもなく、何度目かの大火が吉原を襲った。

 辰次はたちこめる煙の中、水をかぶって地下に潜った。座敷牢は原形をとどめぬほどに壊されていた。一番驚いたのは、鎖が、あの姉妹を繋ぎ止めていた太い鎖が引きちぎられていたことだった。姉妹は姿を消していた。

 早蕨さわらび屋は全焼した。煙に巻かれて遊女も仲間も多く死んだ。


 姉妹の行方はようとして知れぬ。


 今年もそ知らぬ顔で桜が咲いている。

 老人は街を歩くと、ふとした折に座敷牢に漂っていた、独特の香の匂いをかぐことがある。あの姉妹は今でも都会の闇の片隅で、当時と少しも変わらぬ姿のままに美しくいるのだろうか。まさか――。


 そんな辰次を嘲笑うかのように、


 震え、さらりさらりと、


 花が散ってゆく――。






                    終

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