第28話
そして、あの朝がやって来た。
目を覚ますと、私の視界に入ってきたのは、だらんと伸びきった足指だった。親指の付け根に大きなほくろがある、足指。息を詰めて視線を上に上げると、かつひこが天井からぶらさがっていた。そのとき、ツンとしたアンモニアの臭いが鼻腔をついた。かつひこの膝から床にかけて、茶色い液体が滴っていることに気づいて、私は胸の奥から立ち上ってきた酸っぱいものをベッドの上にぶちまけた。涙を拭ってから、もう一度上を見やると、かつひこの肉塊はまだそこにあった。悪夢を見ているかのように、現実感というものがない光景だった。
手に触れたときの冷たい感触から、かつひこの生命がもうそこにないことを私は既に知っていたけれど、それでも椅子の上に立ち、かつひこの首に巻きついているロープを切ろうとせずにはいられなかった。かつて私のものだったかつひこの身体をベッドに横たえた後、私はかつひこの胸のあたりに頬を寄せた。昨晩まで脈打っていた心臓の音はしなかったけれど、暫くの間、私はそこから動けなかった。かつひこが息を吹き返して、もう一度、私を抱きしめてくれるような気がしたから。
だけど、一度死んだ人間が生き返るみたいな奇跡が起こることはなかったし、かつひこはただの物体としてただそこに存在しているのみだった。私はホテルを出て、半分くらいの店にシャッターが下りている街の商店街に出かけた。
「あの、このミキサー、ひき肉とかってすり潰せたりしますか?」
「ああ。ハンバーグとか作るんだったら、こっちのがオススメだよ」
電気屋で働いているくたびれたおじさんはミキサーの隣にぽつんと置いてあったフードプロセッサーを指差してそう言った。長年この場所から動かしていないのだろう、蓋の部分にはこんもりと埃が被っている。
「お嬢ちゃん、料理するの。偉いねえ、いいお嫁さんになるだろうねえ」
「お父さんに、つくってあげようと思って。いつも仕事が大変だから」
舌ったらずにそう言うと、おじさんは目尻を下げた。お母さんに出て行かれた娘と父の生活に思いを馳せているのかもしれない。おじさんは1000円ほど、フードプロセッサーの値段を安くしてくれた。フードプロセッサーの重みを感じながら、夕日の落ちた帰路を急いで駆ける。燃えるような衝動が、闇に取り憑かれてしまいそうな私の足を動かしていた。
私は、私とかつひこの、最後の愛の証を手に入れなければならない。
*
ホテルの部屋につくと、私は冷たくなったかつひこの唇にそっとキスをして、それからかつひこの履いていたズボンに手を掛けた。身体はすでに硬直を始めていて、膝辺りまで下ろすのは至難の技だったけれど、時間をかけてやっと、やり遂げることができた。セックスをする度、かつて私が何度も口の中に含んで舌の上で転がしたそれは、軟体動物のようにふにゃふにゃと萎えていて、触るとひどく小さく感じた。からみつくようにまとわりついていた黄土色に濁った液体を丁寧に拭いた後、私はそれをカッターナイフを掴んで、ゆっくりと身体から切り離した。思わず笑ってしまうくらいあっさりと、かつひこのそれはちぎれた。その肉塊を見ていると、自分の魂の半分が失われてしまったような、やりきれない喪失感が私に襲いかかってきた。
私は慌ててフードプロセッサーにそれを放り込んだ。そして、蓋を開けて、ホテルに備え付けてあったコップに赤い液体を注いだ。トマトジュースのような色の液体は、鼻を近づけると生臭く、喉の奥から吐き気がこみ上げてきたけれど、何とか我慢をして、一気に身体の中に注ぎ込んだ。細胞が、繊維が、筋肉が、かつてかつひこを構成していたものが、私の胃に流れ込み、私を構成しているものの隅々まで行きわたるのが分かった。
大丈夫。私とかつひこは同じ個体になったから、もう何も怖くない。これでずっと、私たち、命が朽ち果てるまで一緒にいられるのだと思うと、あまりの嬉しさに、胸の奥から熱いものがこみ上げてきて、ホテルの床にしゃがみこんで嗚咽した。
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