第26話


「まこ、まこ。見て、窓の外」


 かつひこの声がして、私は重たい瞼を持ち上げた。かつひこが指差す方向には、星の光をきらきらと反射した海が広がっていた。何処までも続く地平線の彼方に、オレンジ色の夕日が沈んでいく。息をのむほど美しい景色を見て、思わず感嘆の声を上げた私の髪の毛を、かつひこは愛おしそうに梳いた。


「なあ、まこ」

「何?」

「これからたくさん、ふたりで、楽しい思い出つくろうな。今までは忙しくて、部屋の中に閉じこもっているだけだったけど。これからは、海に行ったり、遊園地行ったりしよう。まこのしたいこと、何でもしよう」


 他の乗客が私たちふたりを物珍しいものでも見るように観察していることには気付いていたけれど、私はたまらなく嬉しくなって、かつひこのお腹に抱きついた。これからのことなんて、想像もできないけれど。かつひこが私の隣にいて、私の手を握ってくれるのなら。


「うん。うん、しようね。明日も明後日もその次も、一緒にいようね」


 私たちは窓の外に広がる美しい世界を眺めるのをやめて、ただ、ひっそりとお互いの瞳の中に映る光を見つめた。保証のない暮らしだとしても、かつひこが側にいるなら、どんなに苦しくても、我慢できるような気がした。



 それはまるで夢の中にいるみたいな日々だった。

 私とかつひこは知らない街でふたりきり。一泊3000円のシャワーすらない海の見える安ホテルで飽きるまで肌を触れ合わせた。喉が乾いたらビーチまで歩いて行って、海辺で戯れているカップルやビーチボールで遊んでいる子供連れの親子を見ながら、かつひこはコンビニで買った安チューハイを、私はサイダーを飲んだ。決して余裕はないけれど、何もかもが満ち足りた日々だった。

 海にやってくる人たちは誰もが皆楽しそうにしていて、私とかつひこに目を止める人などいなかった。だから私たちは真夏の太陽にじりじりと肌を焼かれながら、のびのびと呼吸をすることができた。


 時折、ふたりで眠っているとき、かつひこの目から涙がこぼれ落ちるところを目撃することがあった。悪夢にうなされているのだろうか、きまってそんなときかつひこは両腕で身体を抑えて寒そうにしていた。タオルケットをかつひこの身体にかけてあげて、癖っ毛を何度も優しく撫でてやると、落ち着くのか、かつひこの呼吸音がゆっくりになっていった。私はかつひこが眠ったのを確認してからようやく、もう一度ベッドに入って目を閉じる。


 ある朝、かつひこが仕事を見つけに行くと言ってホテルから出て行ったので、私はひとりベッドに寝っ転がり、テレビのリモコンをつけた。「岐阜県木更津町男子高校生殺害事件」と描かれているニュース番組のフリップに目が止まった。

 神妙な顔をした男性アナウンサーが「犯人は未だ逃走中であり、二週間が経過した今でも詳しい内容はつかめておりません」と言った。私とかつひこがかつて住んでいたアパートの入り口に青いシートがかけられている映像が繰り返し流れていた。「学級委員も引き受けてくれて、みんなから慕われていました。本当に、こんなことをする犯人が許せません」。

 見慣れた制服を着た女の子の顔にモザイクがかけられているのを見て、私は微笑んだ。中野陸は殺されていないし、かつひこは殺人犯じゃない。そんなことで私たちがつないだ手のひらが切り離されてたまるものか。リモコンのスイッチを切って、立ち上がる。かつひこが帰ってくる前に、切れかけていた化粧水と生理用ナプキンを買っておこう。明日になればまた、渡り鳥のように、私たちはこの町を離れるのだから。


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