第22話
教室の扉を開けると、クラスメイトが話をするのをやめて、私の方へ顔を向けた。誰一人笑わず、まるで地球に異星人がやってきたのを初めて見たときのように、強張った顔をしていた。ばくばくという嫌な鼓動音が耳に聞こえるような気がした。教室の端に、いつもお昼ご飯を一緒に食べている直子ちゃんを見つけて、片手を上げて近寄ると、直子ちゃんは蝶が飛び立つようにひらりと何処かに行ってしまった。避けられているのだと気付いた。
付かず離れず、適度な距離を保ってクラスメイトと接するようにしてきた私は、自分の失敗にまるで心当たりがなかった。誰にも興味を持たない分、誰かを傷つけたり、攻撃したりすることにも無頓着だし、目立たず埋もれて、影のように生きているつもりだった。格付け合い競争が盛んな学校という戦場で、私は上手くやれていると信じていた。
事態が急変したのはお昼休みになってからだった。
血相を変えて教室に駆け込んできた担任の先生は、ぽつんと一人でサンドイッチをかじっている私の姿を認めて、哀れむような目をした。それから私の手を引いて、学生相談室のドアを開けた。中には誰もいなかった。学生相談室に連れて来られるのは、不良や不登校生徒ばかりだと噂に聞いていた。特段何の問題も抱えていない私が何故こんなところに連れてこられたのか不思議に思いながら「先生、何ですか」と尋ねると、先生は神妙な顔を崩さずに、持っていた出席簿の間から写真の束を取り出して、机の上に置いた。
血の気が引いて、固まったまま身体を震わせる私に対して、先生は「心当たりはあるのか」と優しく尋ねた。頭が真っ白になっていて、何も答えられなかった。私に向かって手を振るかつひこの顔が浮かんだ。今すぐかつひこと一緒にこの街を出なければいけない、そう思った。
とりあえず、暫くは学校に来るな。先生は毎日連絡するから、良いと言うまで、家で待機していた方がいい。プリント類は届けるから。先生は努めて穏やかな声で、花瓶に活けられた霞草を見つめ続ける私に同じことを何度も繰り返した。膝の上に置いた自分の手が小刻みに震えているのが分かった。先生が教室からスクールバッグを持ってきてくれたので、私はそのまま早退した。病気でもないのに学校をサボるのは初めてだった。コンクリートの地面を駆けるハルタのローファーのスピードが、少しずつ早くなっていく。かつひこと初めてのセックスしたことが、遠い昔のことのように感じられた。
*
家のチャイムが鳴ったのは夕方だった。かつひこが帰ってくるには随分早い時間だった。学校から連絡がいったのかもしれない。
深呼吸をしてから鍵を外すと、いきなり扉が開いた。いきなり抱きすくめられて、息ができなくなる。お母さんだった。首に熱いものが降ってきて、泣いていることに気づく。「ごめんねえ、ごめんねえ」と繰り返すお母さんを部屋の中に入れ、早く帰ってくれないかなあと思いながら、コップに注いだ一杯の水を差し出した。お母さんは水に手をつけずに、真剣な顔をして私の手を握った。
「ねえまこ。今日から、お母さんの家においで」
湿った温度が気持ち悪くて、すぐに手を振り払って首を横に振ると、お母さんは戸惑ったような顔をした。
「どうしたの。早く行かなきゃ、あの人が帰ってくるでしょう」
お母さんはさっきよりも力を強く込めて、私の手を引こうとした。身体を震わせるほどの拒否反応に私は少し驚きながらも、硬くなった声で「やだ」と言った。お母さんのことが疎ましくてたまらなかった。かつひこの間に出来た絆を壊そうとするこの女の人を、私たちの聖域から追い出したくて仕方がなかった。私の身体に絡みつくような手を振り払いながら、全身の力を振り絞って叫ぶ。
「帰って、帰ってよ。帰ってよ!」
「お母さん、あなたをこんな汚らわしいところに置いて帰れない。いい、あの人はね、異常なの、狂ってるの。だから絶対、あなたをここから連れ出して見せるって、もう決めたの。安心して、私があなたを守ってあげるから」
汚らわしい。異常、狂ってる。お母さんが言っていることはいつだって的外れで、ピンときた試しがない。軽くため息をついて、私はお母さんを地面に突き飛ばした。ゴミ箱が横に倒れる派手な音と同時に、お母さんが尻餅をついた。
真実を知っているのは、この世界の中で、私とかつひこだけでいい。同じ秘密を共有しているということが、きっと永遠に、私たちを守ってくれる筈だから。
「ねえ、お母さん。はっきり言うね。私ね、昔から、お母さんのこと好きじゃなかった。本当は、ずっと前から、死んで欲しいと思ってたの」
お母さんは唖然とした顔で私を見つめた。濁ったその瞳がみるみる間に透き通っていく様子に、胸の奥がちりりと痛んだ。それはお母さんの子供だった私の、最後の良心かもしれなかった。
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