第23話


 それでも私は生まれて初めて、お母さんを傷つけたかった。傷ついたお母さんが惨めに涙を垂れ流すみっともない顔を見て、カタルシスを感じたいと思った。私は何処までも残酷で非道な娘だった。


「ずっと、お母さんのこと邪魔だったの。だから、お母さんがこの家を出て行ってくれて、本当に嬉しかった。かつひこと二人きりになれたから。これ以上私たちのこと、邪魔しないで。お願い。もう来ないで」


 スカートを握りしめて突っ立っているお母さんは決して私と目を合わせようとしなかった。苦悶に歪むその表情に、胸がすっとするのを感じる。お母さんは暫くそのまま何も言わなかったが、突如私の胸ぐらを掴み、強い力で床に押し倒した。一瞬遅れて、打ち付けた背中全体に痛みが広がる。身体を起こそうとすると、平手打ちが飛んできた。頬をかばう間もなく、衝撃で目の前が真っ暗になった。


「どうしてそんな子に育っちゃったの。どうして」


 お母さんは嗚咽した。お母さんの涙が私の頬に降りかかってくるのをじっと見つめた。この涙の原因は全て私にあった。お母さんは何ひとつ悪くない。そう言ってあげたかったけれど、そんな言葉に意味がないということも良く分かっていた。

 お母さんは私の胸に突っ伏すと、肩を震わせていつまでも泣いていた。こんなにも弱々しいお母さんを見るのは初めてのことだった。記憶の中にいるお母さんはいつだって、柔和の笑顔で微笑んでいた。お気に入りのカメラで私の写真を撮るかつひこを見つめながら、この人と一緒になる人生を選択して本当に良かったと。一体何処で歯車が狂ってしまったのだろう。


「あなたたちは、いつでも私をのけ者にするのね」


 テレビ台のところに立てていた写真立てを手にとって呟く声はひどく疲れていた。1年前だっただろうか。写真立てに収まっているのはそれはかつひこが連れて行ってくれた古びた写真屋で撮ってもらったもので、唯一私たちふたりが一緒に写っている写真だった。目に涙を溜めながらこちらを見遣るお母さんの手から、その写真立てを取り上げようとする。

 もみ合いになって、お母さんの手から放たれた写真立ては空を描きながらテーブルの向こうに落下し、そして粉々に割れた。グラスの小さな破片は私の頬に飛び、小さな赤い傷をつくった。




 引きずられるようにお母さんの家にやってきた私は、ダイニングテーブルに置かれた高そうなデザインチェアに腰掛けて、何をするでもなくぼうっとしていた。私の意志を尊重せず、自分の都合で話を進めるお母さんに失望していたからでもあるし、かつひこと頻繁に会えなくなるかもしれないという世界の終わりのような現実に絶望していたからでもある。かつひこのいない毎日なんて想像することさえできない。かつひこが私の隣に居てくれないのなら、死んだほうがマシだと思えるくらいだった。

 お母さんは強張った顔で片付けられたテーブルの上にカレーライスの入ったボウルを置いた。それはにんじんの代わりにトマトが入っている、子供の頃の私なら喜んで口にする好物だった。私はほかほかと湯気を立てているそれを無視して、窓の外を眺めるふりをし続けた。


「お腹すいてるんでしょう。食べて」


 私が答えないのを見ると、お母さんは途方にくれた様子で、右手に持っていたスプーンを置き、軽くため息をついた。


「いいわ。じゃあ、これからのことについて、話し合いましょう。家も学校も会社も全部変えなきゃならない。やるべきことは沢山、あるんだから」

「どういうこと?私は、今の生活を変えたくないよ。ずっとこのままがいい」

「何を馬鹿なことを言ってるの。そんなことできるわけないでしょう」


 ぴしゃりと頬を叩くような鋭い口調で、お母さんは声を荒げた。私の表情が変わらないのを見ると、唖然としたような顔をして、「あなた、自分が何をされたか分かってるの?」と言った。


 私がされたこと。私がかつひこにしてもらったのは、ただひとつ、私の全てをていねいに愛してもらったことだけだ。ざらりとした舌が私の皮膚をなぞった瞬間、この世に生まれてきた価値が私にさえあったのだと思えた。

 何も分かっていないのはお母さんの方だ。目の前のくたびれたおばさんはきっと、かつひこに一度だって本当の意味で愛されたことがないのだろう。甘く震えるような優越感に加えて、湧き上がるような怒りが突き上げてくる。


「行かないよ。私、何処にも行かない。ここにいる。どんなに邪魔されたって、かつひこと一緒にいる。かつひこのこと、大好きでいるから」


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