第19話


 すぐ近くにいるかつひこの感触が気持ちよくて、うっとりと目を閉じていると、かつひこがそんな私を見て、吹き出して笑った。よっぽど間抜けな顔をしていたのだろうか、お腹をかかえて笑っている。そんなかつひこを見て楽しくなって、私も笑った。こういう時間は久しぶりだった。

 何気ない、たわいない、かけがえのない、私たちふたりだけの時間。


「ねえ、桃の缶詰食べさせて」

「ダメ。そんなに食べたらお腹壊すよ」

「じゃあポカリ。ポカリ買ってきて」

「そろそろ寝ないと、風邪治らないよ」


 ぴしゃりとそんなことを言って私の部屋から出て行こうとするかつひこの背中を絶望的な気持ちで眺めていると、かつひこは不意に立ち止まって、振り返った。


「まこ」

「・・・何?」

「元気になったら」


 言葉を探しあぐねているみたいに、目線をきょろきょろさせている。元気になったら。元気になったら。続きはなんだってよかった。そう言おうと唇を開きかけたとき、天井の白熱球が二度点滅したかと思うと、部屋の中は真っ暗闇に包まれた。窓ガラスを叩く雨音は、段々と強く、激しくなっている。それは何年ぶりかの停電だった。

 かつひこは家にあった非常用の蝋燭にガスコンロの火を灯して、部屋の中央に置いた。氷嚢を乗せてもらった頭がぼんやりとまだ熱い。着ているチェック柄のパジャマはたっぷりと汗を吸っていて、不快だった。布団の中からかつひこのシャツの裾を引っ張る。


「ねえ、お風呂入りたい。入れて」

「ダメだよ。風邪引いてるんだから、悪化するよ」

「べとべとして気持ち悪いの、お願い」


 お願い、ダメ。何度目かの押し問答を繰り返して結局折れたのはかつひこの方だった。何処にそんな力があるのかと不思議になるくらい、細い両腕で私を軽々と抱き上げて、洗面所に連れていく。私はどきどきと胸を高鳴らせながら、パジャマのボタンを外した。私が全てを脱ぎ終わるまでずっと、かつひこは洗面所の鏡に映る自分の顔を見つめていた。


「かつひこ」

「ん」


 かつひこは右手の平にシャンプーを泡立てながら、上の空で返事をする。不安になって、何度も名前を呼んでしまう私の長い髪の毛に、かつひこの指が絡まる。

 かつひこの言う、面倒な女に成り下がっているのがわかっていたけれど、口から出る言葉を押しとどめることは限りなく不可能に近かった。


「私のこと、好きじゃないの?」

「好きなわけないだろ」


 嘘つき。そう言おうとした瞬間、シャワーのノズルを顔に向けられる。喉にお湯が入って咳をする私を、かつひこは面白そうに笑う。


「じっとしてろ」

「私は、かつひこのこと」


 好きだよ。好きで好きでおかしくなりそう。


 またもシャワーの水で言葉が封印されてしまう。はっきりと、かつひこがこの話題を避けたがっていることを感じた。白い浴室の暗闇の中で、かつひこは私の身体に黙々とスポンジを這わせた。未発達の、成長過程にある、小枝のように色気のない、自分の身体が恨めしかった。銭湯に行った時に見た、お母さんのお椀をふたつ中に入れたような大きさの胸や、みっちりと油分と水分のつまったお尻が羨ましかった。お母さんになりたかった。私はお母さんになって、かつひこに欲望されたかった。

 つぶっていた瞼の裏に、光の感触が感じられて目を開ける。電気の復旧作業が開始されたのかもしれない。白色で満たされた部屋で、私は生まれたままの姿で、衣服を着たかつひこと向き合っていた。


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