第18話
ダイニングテーブルに座って、かつひこの帰りを待っている。
今日のメニューは特別、腕を振るった。チェダーチーズを乗せたハンバーグと温野菜のサラダ。バターをひとかけら乗せたソーセージ入りのコンソメスープ。全部かつひこの好きなもので揃えた。喧嘩なんてしたことがなかったから、仲直りの方法を私は良く知らなかったのだ。
かつひこは中々帰ってこなかった。テレビの中で原稿を読む男性アナウンサーは流暢な声で台風23号の注意報を知らせている。誰かが泣いているようにも聞こえる悲しげな風の音は窓ガラスのサッシをごとごとと揺らせた。
玄関の鍵を回す物音が聞こえた頃にはすっかり料理は冷めきっていた。私がまだ起きているとは思わなかったのか、部屋の電気をつけたかつひこは「ただいま」と言い、すぐにバツが悪そうな顔で自分の部屋に向かおうとした。
「待って」
かつひこの腕を取ろうと立ち上がりかけた瞬間、足がもつれて倒れこむ。あの後、制服を着替えるのを忘れていたからだろうか。体中が冷え切っていて、手先が氷のように冷たくなっているのが分かった。這うようにして、細い足にかじりついた私を、かつひこは振り払おうとしなかった。その代わりに、私の体を抱き上げて、「お前、熱いぞ。風でもひいたか」と言っておでこに大きな掌を当てた。それは思わず泣きそうになってしまうくらい優しい声だった。
「まこ。おかゆ、作ったから、口開けて」
自炊といえば米を炊くことくらいしかしないかつひこが、私の為におかゆをつくってくれた。ただそれだけのことが嬉しくて、胸の中がじわりとあったかくなる。白い湯気の立っている卵粥は舌を火傷するほど熱かったけれど、優しい味がしてとても美味しい。かつひこが差し出してくれるレンゲが歯にぶつからないように、ツバメの雛がそうするように大きく口を開けた。
「熱、下がらないね。あ、薬…」
熱が下がらないのは、かつひこがここにいるせいだということはわかっていたけれど、口にできるほどの余裕はない。かつひこは戸棚の二段目に入っている救急箱から、随分前に一度使ったきりの熱冷ましを取り出して、私の赤い舌の上にそれを置いた。薬が喉を通っていく感触が何よりも嫌っている私は、その薬がじわじわと溶け出しているのを知っていながら唇を閉じることができないでいた。かつひこはひどく困ったような表情をして、コップに注いだ水道水を差し出した。
「飲まないの。飲まなきゃ風邪、治らないよ」
「だって、くすり、苦いし。じゃあ、かつひこがのましてよ」
冗談半分、といったトーンで聞こえるように言ったつもりだったけれど、かつひこは本気にしたみたいだった。水を注いだコップに口をつけ、ハムスターのように頬を膨らませたと思うと、熱を持っている私の頬が広い両手で覆われていた。喉を鳴らして、生ぬるい水を飲み込む。
熱のせい。こんなにもかつひこに触れたいのも、唇の温度を確かめたいのも、私の頭をおかしくさせているのはきっと全部熱のせいだから。かつひこの頭を自分の方へ寄せ、小鳥がついばむようなキスをする。
かつひこの目が大きく見開かれる。私は構わなかった。もうどうにでもなれという気持ちだった。最初じたばたともがいていたかつひこの動きが止まったとき、ああこれでやっと、私たちは本当の意味でつながれたのだと思った。いつの間にか白い錠剤はすっかり溶けてしまって、私とかつひこの舌にはこなっぽい苦みが一面に広がっていた。
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